先週はイースター礼拝をおささげし、永遠のいのちについてご一緒に考えた。キリストは死後三日目の復活を通して、ご自身が永遠のいのちであることを証された。キリストが死を打ち破り、よみがえられたことを心から感謝したいと思う。さて皆さまは、人生最後に訪れる死という現実を前に、どのような準備が必要であるとお考えだろうか。今年に入り、福島県の奥会津に住む方々の生活を紹介するテレビ番組を見た。興味深かった一つのことは、昭和の途中まであった風習ということで、女性は嫁入りの時に、嫁入り道具を木の箱(長持)に入れて嫁入りするそうである。その木の箱は奥会津の山の木を切って造ったものである。そして、死に際して、その木の箱が自分の棺桶になるということだった。なるほど、合理的でむだがない、と思った。しかし考えると、自分が入る棺桶を携えて嫁入りということになる。私はこの家で一生を遂げるのだ、という強い思いを与えたのではないかと想像されるが、自分の身をその木の箱に沈めてみて、ちょうどいいとか、ちょっと窮屈かなとか、死の闇の不安とか、それぞれがいろいろな思いを抱いたのではないかとも思う。現代では、葬儀屋で、棺桶に実際入って体験させるサービスも行っている。また最近の葬儀では、あの世も値上がりしたということで、納棺の際に千円札を入れて、旅費としたりする。しかし、人間ができることはそこまでで、永遠のいのちを保証することは人間にできない。

今日の箇所では、二種類の人間が登場している。キリストのもとに連れて来られた子どもたちと、キリストのもとに来た金持ちの青年である。実は、子どもたちと金持ちの青年は対象的である。

最初に、子どもたちについて見よう(13~15節)。子どもたちは当時にあって、現代のように地上の天使といった見方はされない。低い地位しか与えられておらず、無価値な者、つまらない者の比喩として用いられた。かつてキリストは大人たちに向かって、子どもたちのようになりなさいと呼びかけたことがある(18章1~4節)。子どもたちのようになるとは、自分に対してほんとうに謙遜な見方をするということである。それは自分の罪を認める姿勢があるということだろうし、自分は神の戒めを守っている善人だなどとおごった見方はしないということである。このまんまで天の御国に入れるなどとは考えない。だから、自分のちっぽけさ、罪深さを認めて、神に救いを求める。

また子どもという存在は、自分の無力さを知って、親に依存する。生活のすべてを。

子どもたちのようになる人は、自分を過信して自己信頼のうちに歩まない。自分の無力さ、弱さということを認めて、神に信頼して歩む。

今述べた、子どもの姿勢を失った人物が、次に登場するという流れである(16~22節)。彼は自分を正しいとする人物である。自分は品行方正な人格者という気位がある。彼は自分を高く買っている。自分に対して謙遜な見方をするのを忘れているようだ。しかも彼は富も地位もある人物である。幼子は何もなくて親に依存するが、彼は富も地位もあり、自己従属というか自己依存の人物。見方を変えれば富に頼っている。当時、おかしな価値観が定着していて、富は神さまに祝福されていることの証だというものがあった。金持ちは天の御国に最も近い人のように思われていた。けれども、彼は、まだどことなく、心に不安を感じていたようである。そこで、思い切って、キリストに質問している。

「先生、永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」(16節)。「永遠のいのち」ということばは、聖書で50回ほど登場している。永遠のいのちとは何だろうか。実は永遠のいのちとは、単に、時間的な長さのことが言われているのではない。古代の異教徒でさえ、ただの終わりがないいのちは求めなかったと言われている。実は私も高校の時、自分は死んだらどうなるのだろうかと考えていた時、ある仏典を読みながらはっきり思ったことを覚えているのだが、今の人生のいのちがいつまでも続くようないのちだったら要らないよな、と思ったことを覚えている。決して死なないだけだったら苦痛でしかない。実は、聖書で、永遠のいのちとは、長さよりも質に重点が置かれている。それは天の御国という領域で、神とともに生きるいのちのことである。「永遠のいのちを得る」とは「天の御国に救い入れられる」と言い換えることができる。23節では「天の御国に入る」とあり、24節では「神の国に入る」と表現されている。それは神とともに永遠に生きることに他ならない。神が永遠のいのちの源。いや永遠のいのちそのもの。そして、聖書は、キリストそのものが永遠のいのちであることを告げている(第一ヨハネ5章20節)。キリストとの関係を築くことが、永遠のいのちを得ることができるかどうかのポイントとなる。

そう思えば、「先生、永遠のいのちを得るためには、どんな<良いこと>をしたらよいのでしょうか」という質問はずれている。キリストと関係をどう築こうかというよりも、自分が良いことをすれば永遠のいのちを得られる、救われると勘違いしている。彼の本当の関心はキリストにはない。彼は、キリストを「先生」と呼んで、一人の教師として見ているだけである。彼は悔い改めて、キリストに罪の赦しを請おうとは思っていない。どんな「良いこと」をすれば救われるのか、自分はそれをやれると、そこに関心は集中している。彼は自分を、良いことをりっぱにできる「良い方」にしてしまっている。

だからキリストは17節前半で言われる。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです」。キリストはこの青年に対して、「完全に良いことができる良い方」、すなわち完全な方はお一人だけ、神しかいないということに気づいてほしい。青年は自分が、良いことができる良い方であるかのように意見しているが、罪人にすぎないことに気づいてほしい。神の基準にかなう良いことを完全に行えば天の御国に入れると思っているが、そのような良いことは罪人にはできないことに気づいてほしい。

そこでキリストは17節後半で、彼の目を覚ますためにチャレンジを与える。「いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」。守れるものなら守ってみよ、である。たといどんな良いことをしたとしても、天の御国の門を閉ざしてしまうのは一個の罪で十分である。彼は、戒めを守れない自分の現実に気づく必要があった。使徒パウロという人物は、神の戒めの役割の一つは、キリストに導くための養育係であると言っている(ガラテヤ3章24節)。神に戒めの役割の一つは、戒めを守れない現実を知らせ、キリストを罪からの救い主として求めさせるということ。

彼は「戒めを守りなさい」というチャレンジに対して、18節冒頭で、「どの戒めですか」と尋ねている。イエスさまが次いで19節まで挙げている戒めは、モーセの十戒として有名な、第五戒から十戒までを挙げている(18~19節)。これらの戒めは、当時のユダヤ社会にあって、今日の市民法のようなもので、誰でも当たり前に守るべきものとされていた。彼は、これらをすべて守ってきたという自負を見せる。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか」(20節)。彼は、自分は殺していない、姦淫していない、盗んでいない、うそをついて人をだましていない、父と母を大切にしている、隣人に冷たくしていない、彼はまじめにそう答えているが、彼は自分が戒めを破っていることに気づいていないだけである(参照;5章21,22節 同27,28節)。

キリストは、ここまで言っても、この青年は気づかないだろうということは予測していたと思う。そこで、戒めを調理して、彼の前に差し出すことをする(21節)。キリストはここで財産を捨てることを救いの条件にしているのではない。自分は神の戒めを守って天の御国に入れると思っている彼の思考体系の土俵で、彼にチャレンジを与え、彼の驕りというか、その誤ったプライドを砕こうとされている。21節のキリストのことばを二つに分けて考えてみよう。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」(21節前半)。「もし、あなたが完全になりたいなら」とは、「救われたいなら」という表現に置き換えることができるが、ある意味、自分は完全な人間に近いと思い違いしている彼への皮肉とも受け止めることができる。そしてキリストはこの青年の問題を鋭く突く。彼は富に執着していた。そこを突いて、「持ち物を売り払って貧しい人に与えなさい」という命令を通して、隣人を愛する愛が本当はないということに気づかせようとしている。神の戒めは二つに要約できるが、その一つは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」である。貧しい人に自分の持ち物を惜しむ彼は、この戒めにかなわない。

神の戒めの要約のもう一つは、「心を尽く、思いを尽くし、力を尽くして、主なる神を愛しなさい」である。さて、彼は神と富のどちらを愛していたのだろうか。キリストは21節後半で、「そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」と言われる。彼の関心は天に宝を積むことに置かれていただろうか。彼は神を第一に求めていたのだろうか。「わたしについて来なさい」の「わたし」と言われている存在は、神の救い主として出現されたお方。すなわち、ここで青年は、キリストを通して、神を選ぶか富を選ぶか、という選択を迫られている。残念ながら、彼が本当に崇拝していたのは、神ではなく富であった(6章24節 16章26節参照)。

この青年がキリストのもとに来たのは、自分がどれだけすぐれているかを誇示するためではなかっただろう。彼は善良な市民として歩み、自分を義人としていたが、心にほんとうの喜びや平安がなかったと思われる。彼は満足しておらず、永遠のいのちの保証をつかみたいという気持ちがあった。だが彼は失敗した。それは彼が「良い方」でなかったからということではない。良い方は神おひとりしかいないわけだから。21節の強調は、神の戒めを守れば救われるということではない。本当に救われたいのであれば、自分の罪を認めて、わたしに自分と自分に属するすべてを明け渡しなさい、ということである。キリストを神の救い主として信じ、主人として認めて、自分と自分の持てるもの、自分の人生のすべてをキリストに明け渡すということである。「主イエス・キリスト」の「主」とは、主人の主、主権者の主であり、それは王様に適用されていた。「主」をオーナーシップという表現でも説明できるだろう。しもべのものすべては主人のもの。今まで自分の好きにしていたものも、時間も。今まで自分に関してもっていたもののオーナーシップはすべて失い、それらは新しい主人に属する。自分が何をどうするかも勝手に決めるのではない。

キリストを信じ受け入れるとは、キリストのオーナーシップを受け入れることに他ならない。それは自分の人生をキリストに明け渡すということである。自分の人生に関する決定権をキリストにゆだねてしまうことである。この青年はそれに失敗した。22節で「悲しんで去って行った」ということばが印象的である。悲しんで去って行ってほしくなかった。キリストは永遠のいのちを持ち、キリストのうちに天の御国の宝のすべてが隠されているわけだから。

最期に、この金持ちの青年と対照的な人物を紹介して終わろう。それは取税人ザアカイである(ルカ19章1~10節)。ザアカイも金持ちだった。先の青年と違っていたのは、自他ともに認める罪人であったということ。世間の評判はすこぶる悪い人物だった。ザアカイは、この頃まで、キリストが罪人に対して恵み深いお方であることを知るようになっていた。ザアカイは木の上に登って、通りを通られるキリストの姿を見ようとした。そんな彼にキリストは声をかけられる。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」(5節)。キリストは「ザアカイ」と名指しで呼ばれた。「あなたの家に泊まることにしてある」とは、わたしはあなたを愛している、完全に受け入れている、ということの証である。ザアカイは「急いで降りて来なさい」の命令に対して、少しも躊躇することなく、迷うことなく、6節にあるように、「急いで降りて来て、そして、大喜びで迎えた」。金持ちの青年は悲しんで去って行ったが、それとは対照的。ザアカイは青年のように、キリストを「先生」と呼んだのではなく、「主よ」と呼んでいる(8節)。そしてキリストに何も言われなくとも、「私の財産の半分を貧しい人に施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」と言った。彼は「良いこと」して救われたいから、そう言ったのではない。そんなことはあきらめている。彼はそれまで犯した罪で、滅びるに十分すぎるほど十分。彼の施しや償いは救われた喜びから来るものであり、イエスさまを新しい主人として生きていきます、ということを形に表わしたものであった。ザアカイは木に登った時点で、イエスさまとお金のどちらを採るかという答えはすでにあった。ザアカイは罪から解放され、キリストという主人をもった。オーナーは主イエス・キリストという生活に入った。その生活に私たちも招かれている。

キリストはご存じのように、この後、全人類の罪のために十字架につき、わたしと皆さまのための罪のさばきを完全に受けてくださった。そして三日目に死よりよみがえり、信じる者に罪の赦しと永遠のいのちを与えようとされた。キリストは今も生きておられ、私たち一人ひとりに「わたしについてきなさい」と声をかけてくださっている主なる神である。キリストを主として受入れ、オーナーとして受入れ、私の王として受入れ、先に見たこどものような姿勢で、残された生涯を歩んでいこう。