イースターおめでとうございます。イースターは永遠のいのちに想いを馳せる時である。イースターには卵がプレゼントされる。イースターエッグと称される。殻を破って新しいいのちが誕生するように、キリストを信じる者には新しいいのちが約束される。それは死に打つ勝ついのちであり、永遠のいのちである。

聖書の舞台は今から約二千年前のユダヤである。実はユダヤではこの時代、墓地に遺体を埋葬して帰って来ると、パン、ゆでたまご、レンズ豆から成った粗末な食事をふるまった。ゆでたまご、レンズ豆にするのには理由があって、共通しているのは丸いこと。それらは「死に転がり落ちていくいのち」を象徴していたという。たまごには、そのような否定的な意味を与えていた。しかし、たまごはキリストにありて「死に転がり落ちていくいのち」ではなく、「死に打ち勝ついのち」の象徴と変わった。キリストは言われたわけである。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」(25節)。

さて、今日の物語は、重病を患っていたラザロの死と、その生き返りの物語である。三人兄弟の弟のラザロという青年が病に伏していた(1節)。聖書では「病」と訳す原語は二種類あるが、この場合、「死の病」また「衰弱」という意味をもつことばが使用されている。ラザロは重体であったということである。重い病にかかっていた。彼は神に愛されていなかったのだろうか。キリストに愛されていなかったのだろうか。いや違う(3節)。病気だから神に愛されていないなどということはない。そして皆さんもご存じのように、人である限り、健康な人といえども、やがて誰でも衰弱して死を迎えることになる。生涯病に悩まされ続けたクリスチャン作家の三浦綾子さんは「病は神からのプレゼント」と告白した。病を通して自分の無力さと無価値さを知る中で、自分を生かし、愛してくださる、神の愛と恵みを発見することができたからであると思う。私自身も同じような体験をした。キリストは4節において、ラザロの病は神の栄光のためのものである、という説明をされているが、病は神の御手の中にあって病だけでは終わらない、死だけで終わらない、悲しみだけで終わらないということを、この時点で言っておこう。病のうちにあっても持つべき確信は神の愛である(5節)。

皆さんは、愛は急ぐとお考えだろうか。確かにその側面はある。愛する者が病気であると聞きつければ、急いでかけつけるというのは、ごく自然な態度である。けれども、愛は遅れるという側面もある。遅れる愛である(6節)。キリストはラザロが重体であると知らせを受けたにもかかわらず、なおそこに二日留まられたという。この姿勢は愛と矛盾するようにも思えてしまう。キリストが実際かけつけるのは、ラザロの葬り後、四日経ってから。説明しておかなければならないことは、キリストのこの遅れは、無関心さや冷淡さから来るものではないということ。飛行機が悪天候で飛ばなかったなどという理由からの遅れでもない。あっちからもこっちからも助けを求められて、他のことで忙しくしていて遅れたということでもない。あくまでも愛から来る遅れであった。そして、それは人間的には遅れに感じても、神の目から見れば、ベストタイミングなのである。神のなさることは、すべて時にかなって美しい。だから、人間の側では、近視眼的になって、助けが遅いとあせりはいけない。神は私たちの心の叫びに耳を閉じておられるわけではない。すべてをご存じで、もっともふさわしい時を備えておられる。だから厳密に言うと、それは遅れではない。私たちは近視眼的に今しか見えない。先のことは見えない。鳥瞰図的に、自分の人生を上から広く見渡せるわけではない。けれども、神は先のこともすべてお見通しの中でみわざをされる。そのみわざは物理的みわざとは限らない。たましいの救い、人格的成長、霊的祝福、そうしたことが重要性を帯びて来る。神はその人にとって何が最善なのか理解しておられる。

キリストは死の床に伏したラザロがいるユダヤ地方に出かけようとする(7節)。実は、ユダヤ地方には、キリストを敵視し殺害計画を練る人たちが、手ぐすねを引いて待ち受けていた。実際、石打ちで二回殺されそうになった場所である。弟子たちは不安を覚えていた。「殺されるかもしれない。危険だから行かないほうがいいんじゃないでしょうか」と。それに対して、キリストは不思議なことを言われる(9,10節)。ここで言わんとしていることは、「神さまが私たちの人生を、時間を支配しておられる。神さまが私たちに与えられた使命をやり抜く時間を奪い取るものは何もない。だから何も恐れる必要はない。」ということなのである。そして実は、ここでキリストはご自身が神であることをほのめかせ、「わたしがあなたがたとともにいる。だから、あなたがたがするべきことをする時間を奪い取ることができるものは何もない。わたしにまかせて、わたしについて来なさい」ということである。弟子たちの緊張を解きほぐす一言だった。邪魔するものから守られるのだなと。必要なことは妨げなくできるんだなと。将来を思い緊張状態にある方は、このことばから慰めを得てください。キリストにゆだね生きていきことができるのだと。

この後、キリストはラザロの死について、弟子たちも勘違いする不可思議な表現をとられる(11節)。キリストはラザロは眠っていると言われる。弟子たちは、文字どおり、肉体の眠りのことであると受け取った(12節)。キリストはラザロは肉体的に死んでいることを知っておられた(14節)。ではなぜ「眠り」という表現をとられたのかということだが、眠りの後は目を覚ますわけである。そこに、キリストの意識はあった。キリストを信じる者の死が「眠り」といわれる所以はここにある。

さて、ラザロが目を覚ます時、すなわち、よみがえりの時は近づいていた。けれども、人間的には絶望的状態にあった時だった。それは17節の「四日」という数字が暗示している(17節)。古代ユダヤでは、死者は亡くなるとその日のうちに横穴に埋葬された。当時の民間信仰では、死後、三日目まで、死者のたましいは死者の上に漂っていて、元の古巣(肉体)に戻ろうとしていると信じられていた。そして四日目からたましいは去っていくと信じられていた。というのは、三日も経つと死体の腐敗が始まって様子が変わって行く。そして四日目になると、死体の腐敗を見たたましいは、諦めて去って行くと考えたからである(39節)。だから、最初の三日間が一区切りになる。この三日間、防腐剤の役目を果たす香料を死体に塗り続ける。四日目は、もうたましいも諦めて死体を離れてしまう腐敗した状態になる時であり、別の言い方をすれば、死体は腐り、もうたましいが肉体に戻りたくても戻れない、つまりは、よみがえりが不可能になってしまった時であるということである。端的に言うと、四日目は絶望の日である。ラザロの姉のマルタは、到着したキリストに嘆きを言い表す(21節)妹マリヤも同じ嘆きを言い表している(32節)。この絶望の日に、キリストは、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と宣言される(25節)。ラザロはキリストを神の救い主として信じていた男性である。けれども死んでしまった。この後、「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」ということを実体験することになる。文字通り、もう人間的には何の望みもないという絶望の淵からよみがえる。再生の恵みにあずかる。象徴的に述べると、自分は四日目の状態にあると言われる方がおられるかもしれない。心のエネルギーが枯渇してしまっている。人生行き詰まりである。人間的には絶望である。何の望みもないように思える。けれども、再生の恵みにあずかる希望がある。そして、キリストを信じるならば、すべての人に永遠のいのちの恵みがある。「また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(26節)。このことばは、まだ死を経験していないマルタたちのことが直接的には意識されていると思う。それにしても不思議なことばである。いのちは死で終わる、それが常識とされている。仏教哲学では、死は自然なものとしてとらえるように教えられている。そのようにして、死に対する恐怖を乗り越えさせようとしてきた。ところが、聖書では、死を自然なものとしてとらえていない。死は人間の罪がもたらした不自然な姿だとする。そして、死で終わるいのちを、ほんとうのいのちとしてはみなさない。死を飲み込んでしまういのちこそ、ほんとうのいのちだとみなす。そして、それは永遠のいのちである。それは時間の長さが問題にされているいのちのことではなく、いのちの質が問題にされている。死に打ち勝ついのちこそ、ほんとうのいのちである。キリストはそのような意味で、「わたしは、よみがえりです。いのちです」と宣言されている。

キリストはこの後、憤りという感情を二回、見せられる(33.38節)。この憤りの意味について、詳しくは機会を改めて説明したいが、悲しみを引き起こすところの死を意識してのものであったことはまちがいない。ということは、キリストご自身、死を異常なものとして、許しがたいものとして、認識されていたということになる。この憤りには、死に打ち負かされてしまって、それ以上のことを期待できないでいる人間に対する憤りも含まれている可能性も大である。キリストの希望のことばに人々の心の耳は閉じていた。完全に絶望していると、人はどんな希望のニュースにも心の耳は閉じてしまっていて、信じられないという。私たちの心の耳はどうだろうか。

35節でキリストは涙を流されている。ラザロの死を悼んでという単純な解釈は当てはまらない。キリストはラザロの死という悲報を聞いてびっくりして涙を流されたのではない。死んでいることはすでにわかっていた。また、ラザロの墓の前に行ってのタイミングで涙を流されたのでもない。その前に流されている。時間的には憤りと憤りの間に挟まっている涙である。よって、悲憤の涙と言えよう。人類の敵と言える死を意識されての涙である。この死が打ち破られる瞬間が近づいていた。

キリストは墓に到着すると、一言の祈りの後、43節を見ると、命令のことばを発し、ラザロをよみがえらそうとされたことがわかる。聖書は、神のことばで世界が創造されたことが記されてある(創世記1章)。「光があれ」の命令で、世界の創造が始まった。そして今、「ラザロよ。出でよ」という命令で、よみがえらせる。

このラザロのよみがえりは、キリストご自身がやがて、十字架についた後、三日後によみがえることを暗示させているみわざでもある。だからこそ、「わたしは、よみがえりです。いのちです」と宣言された。こんな宣言は、ペテン師か神か、どちらかしかできない。キリストはよみがえりのいのち、永遠のいのちをもっておられることを、最終的には、ご自身の復活で証明されるわけである。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」。この宣言は本物であることをご自身の復活によって証明された。私たちは、このキリストに永遠のいのちの希望を抱こう。日本には死んで終わっただけの人間が神々として祀られている事例が五万とある(事例~鼠小僧次郎吉 盗み先に入る…会社に入る、学校に入る)。私たちは永遠のいのちの希望を誰に抱くのであろうか。いろいろな方に、死んで復活したなんて、そんなこと信じられないと言われた。けれども、そうして、死んで終わっただけのたましいや、架空の神々に願をかける。それはどうなのだろうか。どうぞ、キリストに永遠のいのちの希望を見いだしてください。「天国」ということばが日本で定着しているが、これは、聖書から生まれた用語である(新改訳では「天の御国」「神の国」)。聖書は、はっきりと、天国とはキリストを信じることによって入る世界であることを告げている(ヨハネ14章6節参照)。けれども、キリストという救い主は忘れ去られ、何を信じても、信じなくても、誰でも彼でも天国へ入れるかのように風説がまかり通ってしまっている。皆さまには、救い主キリストと向き合っていただきたい。

また繰り返し述べるが、キリストはあえて死後四日目という絶望の時に、みわざをしてくださった。だから、これは気絶していたのに意識を取り戻したとか、心肺停止していたのに蘇生したとか、その程度のことではない。まがいもなく、死からいのちへのみわざであった。死に打ち勝つキリストのいのちのみわざであった。このキリストのいのちは、単に皆さまを天国に連れていくというだけではない。この人生においてもキリストのいのちは働いてくださるだろう。精神の衰えや人生の行き詰まり、そして、みこころにかなうならば肉体の問題等においても。再生の恵みをキリストはくださる。春は死んでいたと思っていた草花がよみがえる時期であるが、私たちはそれを表象として、自分にキリストのいのちが働くことを期待できる。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と言われたキリストのいのちに各々が期待しよう。