今日の結婚に関する教えを学ぶにあたり、幾つかの結婚に関するアンケートを比較検討してみた。対象は日本人限定である。特に興味深かったのは、すでに結婚した人たちが、今の結婚生活をどう考えているかということについて、男女で大きな開きがあったということである。「結婚生活とは忍耐である、今の結婚生活に満足していない、本当だったら離婚したい」このように考えているポイント数が、妻のほうが夫の約二倍高い。見えてくるのは妻の忍耐と我慢。そしてこれは、年齢が上がるほどにその傾向が強くなる。これが現代の実情である。また現代では、「婚活」ということばが生まれつつも、結婚に関して消極的傾向にある。結婚そのものの重みが軽くなってきているとも言えるし、家族の定義も緩いものになってきた。独身の男同志が同居していても家族とみなされうる時代になってきた。どんな生活形態でも容易に許されるような時代にあって、やはり私たちは、聖書のみことばは何と言っているのか、そこに立ちたい。今日は、婚活している人も、婚活を応援する側も、結婚経験のある人たちも、聖書から結婚について、基本的な教えを学ぶことにしたい。新たな発見があれば幸いである。

キリストの時代、社会的に低い扱いを受けてきた人々の範疇に、19章に記述されている妻と子どもが入る。今日の19章前半では、社会的弱者である女性を結婚の視点から取り上げて、当時の常識となっていた結婚観を正している。

今日の教えは、パリサイ人たちが、イエスさまをわなにはめようとして質問してきたのがきっかけである。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか」(3節)。これは古くて新しい質問である。この質問に対するイエスさまの教えを知ると、目からうろこが落ちる。それにしても、この質問がなぜ、わなの質問になるのだろうか。そのことをお話する前に、離婚の関する当時の考え方をお伝えしておく必要がある。

離婚にふれる律法は、申命記24章1節にある。開いてみよう。離婚できる理由として、「妻に何か恥ずべきことを発見したため」とあり、この「恥ずべきこと」とは何かで解釈が分かれていた。「恥ずべきこと」と訳されていることばは、直訳すると、「ことばの裸」あるいは「事がらの裸」という奇妙な表現になる。紀元前のこと、ラビのシャンマイは、「ことばの裸」の「裸」のほうに強調点を置いて、「恥ずべきこと」とは「不品行、姦淫」のことだと解釈した。順当な解釈に思える。ところが、当時、このシャンマイの解釈を取っていた者は少なかった。同時代のラビのヒレルは、「ことばの裸」「事がらの裸」の「ことば、事がら」のほうに強調点を置いて、「恥ずべきこと」とは、どんな小さなことばや事がらでも離婚の理由になるとした。身勝手な解釈に思える。例えば、妻が夫が食べるパンをこがした、それだけでも夫は妻を出せるとした。この解釈が、なんと多数派を占めていた。妻の姦淫と採るシャンマイ学派が少数派、妻の小さなことば、事がらの失敗も入ると採るヒレル学派が多数派だった。もっとひどいのは紀元2世紀のラビのアキバで、「好まなくなったらば」という言い方で力説して、今の妻よりも好ましい女が見つかっただけで離婚できる、と主張した。日本が合法的に離婚が許されるのは「配偶者の姦通」といった条項もあるが、「合意による離婚届出」があれば離婚できるので、事実上、どんな理由で別れても法律上はさしつかえない。

パリサイ人がこの離婚問題を選んでイエスさまをわなにはめようとしたのは、次のような意図があったからかもしれない。もしイエスさまが少数派のシャンマイ学派の「不品行、姦淫」の見解を選択すれば、多くのパリサイ人たちを敵に回すだろう。なぜならば、パリサイ人たちは、ささいな事でも離婚できるとするヒレル学派が多かったから。では、イエスさまが、ささいな事でも離婚できると答えたらどうなるのか。今度は、いいかげんなやつだとか、ではそのささいな事とは具体的にはどういう場合の事を指すと思っているのかとか、非難する口実を見つけることができた。また別の新たな解釈を示せば、モーセの律法に逆らうのかと責めることができる。わなというのはそういうものである。イエスさまは危険な立場に立たせられたわけである。

イエスさまは離婚の問題をとらえる上で、彼らの考え方の土台がずれていることを知っておられた。究極的問題は離婚の権利にあるのではなくて、神さまによる結婚の制定の意義である。それをないがしろにして彼らは議論していた。イエスさまは、ささいな事と採るヒレルの立場に立たないし、厳格に言うと、姦淫と採るシャンマイの立場にも立たない。両者とも、考え方に欠陥があった。彼らは「どうやったら離婚できるのか」という、どちらかと言うと離れるほうに重点を置いて考えていた。離婚の問題を正しくとらえるには、離婚の権利から考えるのではなくて、神さまが夫と妻に一心同体となることを願われたことから考えなければならない。結婚の制定にまで遡らなければならない(4,5節)。「それを、あなたがたは読んだことがないのですか」というイエスさまのことばに、パリサイ人たちの問題が暗示されている。私たちも、あなたがたは読んだことがないのですか、と言われてしまわないために、結婚の制定のみことばに注目しよう。イエスさまが引用されたみことばは創世記2章24節である。開いてみよう。「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」。「一体」「一心同体」と訳されている元のことばは「一つの肉」である。このことばは密着した最上の状態。これ以上ないという密着関係を表わすことばである。別れること、離れることは前提にないことばである。「一つの肉」であるから。もし二つに裂こうとするものなら、当然、血が流れるような痛みを負ってしまう。けれどもパリサイ人たちは、結婚とは組み合せたブロックか、弱い粘着関係にある二枚の板のように、組むも離れるも自由にできる形態であるかのような発言をしていた。残念ながら、現代の結婚観も似たり寄ったりである。

イエスさまは、結婚は神が定めたものであり、一つの肉になるということだから、引き離してはならないと明言する(6節)。これを聞いたパリサイ人たちは驚いたであろう。モーセの離婚の教えに基づいて、どのようなケースでは離婚ができるのかと質問しているのに、離婚完全否定派のような宣言をしたわけだから。そこで当然、ではなぜモーセは離婚を命じたのかと追求したくなる(7節)。イエスさまはモーセの立場に反対しているのだろうか。実は、パリサイ人たちこそ、モーセの離婚の教えを受け取り違いしている。彼らは7節で「命じる」ということばを使っているが、モーセは離婚を命じてはいない。申命記24章1~4節を見よ。これを読んでわかることは、1~3節が、「離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合」という条件文であり、ではその場合どうなるのかという規定文が4節に書いてあるという構造になっている。この4節が肝心。4節で言われていることは、離婚状を手渡した女を、先の夫はめとることはできないというもの。ここで言われていることは、離婚しなさいという命令ではなくて、離婚状を書いて手渡したら、二度と戻らせてはならないし、戻ってはいけないという規定である。離婚状の役目がポイントになる。離婚を考えるならば、二度と元のさやに納まることはできないことを知って、慎重に離婚状を書くということになり、離婚を抑制する効果がある。そしてもう一つ、離婚状は、罪が入ってきた時代にあって、女性の人権を守ることになる。それを次に説明しよう。

マタイ19章8節を見よ。イエスさまは、離婚は命令ではなく、モーセが「許した」という言葉使いをしている。一つの肉となるという結婚の制定は、人類に罪が入る前に制定された、普遍的定めであったわけである。しかし、結婚の制定後、人類に罪が入ってきた。「心がかたくな」になる状況が生まれたわけである。これを「男の女に対するかたくなさ」という側面から考えてみよう。男が女に対して夫婦の勤めを拒んでも、そのまま妻にしておいて、二人目、三人目の妻や妾を迎え入れる。女は事実上、男の奴隷か家財道具でしかない。しかし名目上は妻であることには変わりないので、元の家に帰ることも再婚もできない。浮かばれない人生である。また妻は夫の暴力に耐えていかなければならない事態もあっただろう。今でいうDVの被害に合うということである。しかし、離婚状が与えられれば自由の身となり、前夫の横暴な連れ戻しからも守られた。さらに再婚の道が備えられた。このように離婚状を渡しての離婚は、女を夫の横暴から守るものとなった。

今見てきたように、モーセの離婚に関する教えは、人類に罪が入った後の「許可する」という範疇のことでしかない。モーセは離婚を命じてはおらず、罪人のかたくなさを受けとめた上での譲歩でしかない。夫婦間のトラブルの対応策ということで、離婚するなら離婚状を渡しなさいと取り決め、この離婚状が安易な離婚を抑止し、また女性の側の人権を守るものとなった。

ユダヤ人たちは、こうした神の意図を汲み取ろうとせず、どうしたら離婚できるかの口実を、モーセの律法に求めようとしていた。自分勝手な意見を正当化するために聖書を用いる人たちはいつの世にもいる。一つの問題を考える場合に、何でもそうだが、聖書全体の構造の中で、その箇所を考えるということ。また文脈の中で考えるということ。そうしたことをせずに、その一節や、一つのことばだけに拘泥すると、パリサイ人たちと同じミスを犯すことになる。事実、異端やカルト集団がこれをよくやる。

イエスさまはユダヤ教徒たちの安易な離婚観に釘を刺すために厳しいことを言う(9節)。病弱だからとか、家事がちゃんとできないからとか、そうした安易な理由付けはもちろん許していない。イエスさまは当時のユダヤでの、男の横暴、女性への蔑視ということを意識して語っておられる。「不貞」ということばは、結婚関係以外の性関係をこの場合は指している。「一心同体」は「一つの肉」という意味であることを先に学んだが、「一つの肉」は性関係を含む。「一つの肉」という関係は夫婦の間だけであり、よって「不貞」は、夫婦以外の性関係を意味している。それは罪となる。

このイエスさまの発言を聞いて反論したのはパリサイ人ではなくて、なんと弟子たちだったというところがおもしろい。パリサイ人も納得しなかったと思うが、弟子たちも納得しない(10節)。「結婚しないほうがましです」なんて、随分と悲観的な発言である。これは当時の社会事情も関係しているだろう。親たちが結婚をとりまとめた。あの家の娘と結婚するんだよと。親たちの意思が強かった。そして結婚するまで、いいなずけの女性とだけ時間を過ごすというのは容易なことではなかった。ろくに相手を知ることもなく結婚させられた。それにまた、結婚を勧めた親たちも、もらう嫁のことをよく知らされないことが多かった。だから、相手のことがよくわからないまま、結婚に突入した。当たるといいなといった、宝くじを買うのといっしょのところがあった。それだから、弟子たちはイエスさまのことばに余計抵抗があっただろう。外れても、そのままずーっといっしょ?弟子たちは独身者が多かったわけである。イエスさまのことばを聞けば、結婚を考えるにあたり、親も当事者も、慎重に祈って、話し合って、というプロセスを経なければならないことに気づかせられる。当たるかもしれない、みたいな、ギャンブル的なことはお互いやめたほうがいい。当時は、外れれば、またくじを引き直し、といった感覚が無きにしもあらずだったわけである。多くは、女性が被害に合う。結婚は当たるまでやるくじ引きとは違う。そのような軽いものではない。イエスさまからすれば、結婚を軽く扱うユダヤ人男性を見て、「いいかげんにしなさい。あなたたちこそハズレだ」と思っていたのではないだろうか。

現代では女性がひどい手を使って、離婚を勝ち取るということも増えてきた。両者、みことばに聴かなければならない。

イエスさまは、弟子たちの発言、「結婚しないほうがましです」を受けて、独身にふれる(11節)。独身も「許し」の範疇で言われていることがわかる。しかし、離婚のように、人類に罪が入ったところから来る「許し」ではなくて、12節で見るように、神の国のための献身を認めての「許し」である。

独身には三種類あると、主は言われる(12節)。①「母の胎内から、そのように生れついた独身者」。医学的見地から言えば、遺伝的欠陥がある人。②「人から独身者にさせられた者」。「独身者」のことばの元の意味は「去勢された男」であるが、これには可能性として二つあり、刑罰によって去勢されたか、もしくは婦人部屋(後宮)などで仕えるために去勢されたということ。宦官と呼ばれる人たちがそうである。こうした去勢された人たちは実際に存在した。③「天の御国のために、自分から独身者になった者」。イエスさま自身がそうであったし、バプテスマのヨハネがそうであった。十二弟子の多くも独身を貫くことになる。しかし、イエスさまはこの文脈において、独身というスタイルが神に仕えるということにおいて、特別な献身の姿であるとは言っておられない。結婚が神の制定であることにふれておられるわけだから。

この文脈においては、結婚も独身も、すべて神の国のために、であろう。結婚を通して神に仕えることが召しであるならば、神はその恵みを与える。私たちの側では神が合わせたもう結婚だけを求め、そうすればよい。結婚後にクリスチャンになった方も、結婚という形態を尊ばなければならない。家族に子どもがいる場合は、5節が暗示しているように、結婚の絆は親子の絆より親密なものであることを覚えておかなければならない。独身の形態もりっぱな選択になる。神に仕えるという目当ての中で、自分はどうしたら良いか求めればよい。

最後に、今日の教えから、一つの適用として考えたいことがある。それは5節の教えを、パウロはキリストと信者の関係に適用しているということである。最後に、エペソ5章31,32節を開こう。結婚はするが、その後、信仰は捨ててキリストと離縁する人がいる。何の意味があるだろうか。私たちはキリストと一体とされている。キリストと離縁だけはしてはならないし、二心もまたしかりである。キリストは私たちを愛し、ご自身を献げ、契約の血をもって私たちを花嫁にしてくださったお方である。私たちは天の御国の王であり主であるキリストと合一して生きる人生に招かれている。まだこの感動が薄すぎると思う。自分の寂しさとか、生活のストレスを紛らわすために、この世の何かによって穴埋めしようとしたり、また、世の人々をうらやましがって生きているだけでは、たましいを暗くするだけである。主キリストに心の目を注ごう。私たちがキリストと一心同体とされていることを喜んで受けとめ、キリストとともなる生活を意識していくならば、私たちの生活はどう変わるだろうか。キリストの臨在から来る喜びと平安にあずかるばかりか、主人であるキリストの主権に従い、キリストのみこころを生きることを望むようになり、キリストの願いはわたしの願いとなり、キリストとの結びつきはさらに確かなものとなっていくだろう。独身か結婚か、どのようなライフスタイルを選択しようとも、キリストとの結びつきを解消してはならない。私たちのライフスタイルは時間の経過の中でも変化していく。結婚していても、また独りに帰っていく。子どもも自立していく。だが一つだけ変わらない現実がある。イエス・キリストは、きのうも今日も、いつまでも変わることのない現実である。その素晴らしい魅力も、お姿も、愛も変わることはない。私たちは、このお方の御名を恋い慕い、あがめ、このお方とともに歩んで行こう。またこのお方をともに見上げることによって、夫婦も家族も真の意味で一つになっていくことを覚えよう。