私たちは神を畏れ、罪を罪としているだろうか。また、罪に対する神の赦しの恵みを恵みとしているだろうか。今日のテーマは「罪を責めること」と「罪を赦すこと」である。責めることと赦すことは正反対のことのように思えるが、どちらも必要であると、キリストは教えておられる。また著者マタイも、「罪を責めること」と「罪を赦すこと」のバランスの大切さを知って、この章でまとめているように思う。

では前半の「罪を責めること」を見よう(15~20節)。「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら」(15節)と、イエスさまはなぜ、このように話を始められるのか。直前の1~14節では、つまずきの問題が取り上げられていた。つまずきとは人に罪を犯させることだが、つまずきを与える者を放置しておいたらどうなるだろうか。本人にとっても良いことではないばかりか、そのまま放っておくと皆をつまずかせることになる。イエスさまは教会という共同体全体のことを視野に入れて勧告しておられるようである。悪いパン種をそのままにしていたらパン全体が腐敗してしまう。言うなればイエスさまはここで、教会の戒規について触れている。それは罪を犯した本人にとっても最善の処置となるものであるが、教会を思っての愛の処置である。これには四段階がある。

第一段階は、罪を犯した者を個人的に責めるということ(15節)。その目的は非難することではなくて、彼を悔い改めさせるためである。「責める」ということばは、ヨハネ16章18節において、「誤りを認めさせる」の「認めさせる」と訳されている。つまり、罪を認めなさいよと言って、悔い改めを勧めることである。まずこれを、二人だけの話合いの場でする。この第一段階の努力が実を結ばない場合は・・・

第二段階は、もう一人か二人の人を加えて、証人を増やして、事実関係確認の時と悔い改めの時を持つということ(16節)。二人から三人の証人を立てるというのは、旧約聖書でも教えられている原則である(申命記19章15節)。この世の裁判でも、事実のでっち上げを防ぐために証人が立てられるだろう。これでもダメな場合・・・

第三段階は、教会に告げ、罪を公けにすること(17節前半)。教会全体の問題として取り上げ、罪を教会に開示し、本人に勧告し、悔い改めを勧める。こうして自分の罪を悲しみ、悔いたらよし。しかし、この手段に出ても悔い改めない場合・・・

第四段階は、除名である(17節後半)。これは最終手段である。これは体から悪性の細胞を取り除くような、キリストのからだという生命体を守るための手段である。ど同時に、これは罪を犯した本人が、悔い改めて立ち返ることを願う愛のむちである(第一コリント5章2~5節)。罪を犯した者がこの厳しい処分で、最終的にはへりくだり、体は滅んでも霊が地獄に落ちずに済んでくれればという愛のむち。コリントの教会は罪を犯し続ける者を放置している問題があって、使徒パウロが介入したようである。

さて、罪を犯した者の中には、「わたしのしたことは、この世の裁判では無罪の範疇に入る程度のものなのに」とか、「やがて天の法廷での裁きもくつがえしてみせる」と、うそぶく者も出てくるかもしれない。しかしイエスさまは18節において、教会において与えられた権能というものを明確にしている。「つなぐ」「解く」というのはユダヤの慣用語で、「つなぐ」が禁止を、「解く」が許可を意味しているわけだが、つまり地上の教会は、罪の問題に関して、天の法廷の裁きの代理人としての権能を持っているということである。教会は悔い改めない者に対して、救いの外に置くかぎを持っている。また悔い改めた者に対しては、赦して、交わりに復帰させるかぎを持っている。その人が天の御国の外に置かれてしまうか、天の御国に入れるかというかぎを、教会は持っている。この世の裁判では六法全書などが、判断の基準となるわけだが、教会では、それが聖書のみことばとなる。それを思うときに、改めてみことばは真理であると気づかせられる。みことばは真理の法典である。この世が罪に定める基準は何かではなく、聖書のみことばは何と言っているのか、それがすべてとなる。

19,20節では、有名な祈りの約束が記されている。複数で祈るところにイエスさまはともにいるという約束である。しかも、そこでの心を一つにしての祈りはかなえられるという約束である。しかし、なぜ、この複数での祈りの約束がここでされているのだろうか。それは、16節の「ふたりか三人の証人」ということと関係している。複数の者たちで罪の問題を取り扱うとき、祈るということが当然ある。ユダヤでは裁判において、石打の刑にする前に、証人に立った複数の者たちが、まず祈りをささげ、それから刑を執行したと言われる。そして、今日の文脈では、この祈りには、赦しを願うことが当然入ってくるだろう。私たちは兄弟を得る祈りをすることができる。肉体は滅びても、霊は救われるようにと祈ることができる(第一ヨハネ5章16節)。19,20節は二人以上で、グループで祈るときに、いつも覚えておきたい箇所である。

20節について、一つだけコメントさせていただく。この箇所では不思議なことが言われている。ユダヤ教でも、二人、三人集まるところに神の臨在があることを告げている。しかし、イエスさまはここでご自身の臨在を告げている。すなわち、イエスさまは神であるということである。イエスさまは、ご自身のうちにとどまる兄弟姉妹が二人、三人集まるところにともにおられ、祈りを導き、祈りに耳を傾け、聞いてくださる。祈る側は、イエス・キリストが臨在しているという厳かな意識が求められるだろう。それは、礼拝の場でも同じである。

次に、後半の「罪を赦すこと」を見よう(21~35節)。ここでどのような罪が想定されているのかというと、それは私個人に対する罪である(21節)。ペテロは「私に対して罪を犯した場合」と言っている。ペテロはイエスさまが納得してくれるだろうと考えた赦しの回数を口にした。「七度まででしょうか」。当時のユダヤ教のラビは、赦しは三度までと言っていたので、もう十分すぎる回数と言ってよい。ところがイエスさまは490回までと答えられた(22節)。「七度を七十倍するまで」とは、限度なくという言い回しである。これが神のあわれみであり、恵みであり、神の赦しの愛なのだが、普通の人は、それでは赦しすぎではないの?と思ってしまう。私たちは、その赦しすぎの愛で神に赦されているわけだが、その事実を忘れてしまいがちである。そこでイエスさまは、赦しに富む王様のたとえ話を、23節以降、語られる。

王はしもべたちと清算したいと思う。このしもべは、政府の高官、地方長官、太守のような存在と思われる。ある地域を託され、そして貢物を納めることを課せられる。貢税である。おそらく、そういう物語の設定であると思われる。しかし、かなり誇張されている部分がある。しもべが王に対して借りをつくるということは古代文書にもあるのだが、この物語での借金額が余りにも莫大である。「1万タラント」である(24節)。脚注には「一タラントは6000デナリに相当する」とある。それでもピンと来ないので、賃金に幅をもたせて換算すると、3千万日から1億日分の賃金となる。平均すると6千万日分の賃金となろうか。また当時の貢税がどれくらいであったかお話すると、ガリラヤ地方とペレヤ地方が一つの課税地域とみなされていた時代、ヘロデ大王の死後で、200タラントの税を要求されたという文書が残っている。また、ユダヤ地方、サマリヤ地方、イドマヤ地方を合わせた貢物は600タラントであったという記録もある。だがこのしもべは1万タラント。イスラエル全土に課せられていた税額の総計よりもはるかに上回ることは誰にでもわかるような驚くべき負債額。

王様は、返せないというのなら、自分も妻子も、持ち物も全部売って返済するように命じる(25節)。当時の奴隷売買にあって、最も高額な奴隷でも1タラント。普通はその5分の1、20分の1で取引されたりしていた。たとい高額の一人1タラントで、家族10人と見積もったとしても、10タラントにしかならない。家財道具売り払っても、全然足らんと。負債総額は1万タラントである。

このしもべは、全額お支払しますから、どうかご猶予を、と願い出る(26節)。しかし、王様には、彼が一生かかっても返済できないことなど、見え見え。それで採った処置は「全額免除」。それは余りにも寛大すぎる処置であったわけである。このたとえ話を聞いてピンときた者は、王様とは神さまのことで、しもべとは私たち人間のことであると分かったであろう。そして莫大な借金とは神に対する罪を意味するわけである。主の祈りでは「私たちの負い目をお赦しください」とあり、私もこれを毎日お祈りしているが、「負い目」ということばは「借金」を意味することばである。罪は神に対する「借金」「負債」として理解されている。莫大な負債である1万タラントは、単に人間の罪の大きさを表しているだけではなく、それは神さまに対して償いきれないきれないほど莫大な負債であるのだということを示している。これを全額免除ということにおいて、神さまの深い恵み、すごすぎる恵み、法外な恵み、とんでもない恵みを伝えている。

私たちの罪の負債は莫大である。私たちが罪滅ぼしのためすることなど、返済の足しにもならない。身を粉にして奴隷となって働いても9,999タラントの負債がなおある。99,990,000日分の賃金に相当する負債がある。もう、赦してもらうほかはない、という世界である。その負債を神さまは赦してくださった。

さあ、莫大な負債を赦してもらったそのしもべは、その後、どういう行動に出たのだろうか(28節)。このしもべに「百デナリ」の借金があるものがあった。一日の労働者の賃金が1デナリと言われた時代であるが、その100倍の額。平均して100日分の賃金。決して小さな額ではない。この額だけに目をやると、大きなものに見える。この高額を返せないのは赦せない、となる。なんてやつだ、となる。首を絞めたくなるほど憎たらしい。当時、返済期限が来ても借金を返せない者を訴えて、牢獄にぶちこんでしまうことができた。彼はそれをした(30節)。彼は法的には全く問題がないふるまいをしている。彼自身も、100デナリという大きな額、これを返さない者を牢屋にぶちこむ権利は当然自分にあると思っている。怒るのは当然、赦せない思いになるのも当然と思っている。しかし彼は返してもらえない100デナリという額しか見ていないのだ。自分が赦してもらった1万タラントを忘れている。だから苦々しい思いから抜け切れない。計算すると、100デナリは1万タラントの60万分の1でしかない。だから、自分はどれだけの負債を赦されたのか、ちゃんと受け止めていさえすれば、100デナリはちっぽけな取るに足らない額となって、忘れてしまうことができる。受けた恵みを赦しで返すことができる。実にわかりやすいたとえ話である。

私たちも大きな罪の負債を赦された者たちであるが、この赦しには、イエス・キリストの十字架という犠牲が伴っているということを覚えておかなければならない。キリストは私たちの罪が赦されるために血の代価を支払ってくださった。この十字架の赦しの有り難さが本当に分かっているかどうかは、日ごろの人間関係でわかる。相手の非を指摘し、非難することはだれにでもできる。けれども、赦すことは、真に十字架を見上げた者にしかできない。35節では「心から兄弟を赦さないなら」と言われているが、心からの赦しは、十字架を見上げて、自分に対する法外な恵みをしっかり受け止めた者にしかできない。

私たちは人に対してだけではなく、神に対しても文句が多くなる。私たちは日常生活で、自分が思い描いていた筋書から大きくそれるとき、なぜ、どうして?となり、神への非難へと進む。でも私たちは、本来地獄に落ちるはずの者が救われて生かされているのだから、それだけで感謝しなければならない。もうすでに1万タラントが赦され、救われている、御国が約束されている、もうそれだけで十分としなければならない身である。それ以上、望む権利は本来はない。あとは、もしみこころなら、あのことを、このことをと、求めていくだけである。

また、私たちは理不尽だと思いたくなるとき、ではイエスさまはどうであったのかと、やはりキリストの十字架を仰がなければならない。何の罪もないお方が十字架の上で罪の裁きを受けなければならなかった。しかも、その苦しみは極限的な苦しみであった。私がなぜ、どうして?という前に、イエスさまがなぜあれほどの苦しみと恥を経験しなければならなかったのかを思い見なければならない。キリストの十字架ほど、理不尽なことはない。矛盾はない。それはいったい誰のためであったのだろうか。けれどもイエスさまは、このような苦しみと恥を負ったのはお前たちのせいだ、と私たちを非難したりはしない。私たちは自分の思い通りにならなくなったり、理不尽だと感じたとき、まず、イエスさまに降りかかった苦しみの意味を真っ先に考える者たちでありたい。このイエスさまは、私たちを見捨てたりはしないことも覚えておこう。

今日のたとえ話からは、イエスさまが十字架の上で、私たちの莫大な罪という負債を赦してくださったことを覚えよう。実はイエスさまこそ王の王、主の主である。私たちの王であり主人である神である。恵みとあわれみに富んでいるお方である。私たちは自分たちがパリサイ人のようになって、自分の正しさばかりを訴え、相手を赦さなくなってしまったらおしまいである。たとえ話のしもべは、最後に牢屋に入れられてしまった(34節)。赦さない者からは赦しが取り上げられる。あわれみのない者からはあわれみが取り上げられる。もともと、このしもべは牢屋に入れられる身であったわけだが、彼は、自分が囚人こそがふさわしい身であるということを忘れて、また、そのような自分に対する王のあわれみを忘れて、まちがって偉くなってしまい、自分の身に災いを招いた。

最後に、赦しについて、一つ付け加えて終わりたい。「わたしはあの人のことを、三回赦してやった、四回、五回・・・、いったい何回赦してやらなければならないんだ。いいかげんにしてくれ」。しかし、よく考えてみよう。神さまは何回、私たちの罪を赦してくれただろうか。七回?もっと多いはずである。490回?もっと多いはずである。「はず」ではなくて、絶対多い。1万回は楽に超えているだろう。主なる神の赦しの回数は果てしなく多い。そして、その赦しは十字架という血の犠牲に基づいている。私たちは普通、「神さま、あなたはわたしに対して赦しすぎです。赦しすぎておかしいです」とは言わない。しかし他人に対しては厳しくなる。たとえ話のしもべのように。あの人なんかどうにかなっちゃえとさえ思う。私たちは十字架の恵み、その法外な罪の赦しの恵みを知っているということを、日々の人間関係を通して表わしていきたいと思う。その人の霊性は、人を本当に赦せるのか、ということで問われる。