私たちは神の子としてプライドは必要だが、自分をりっぱに見せよう、賢くみせようと、自分を膨らませる肉的なプライドは捨てたいと思う。今日の記事は、「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか」という弟子たちの質問で始まっている(1節)。当時の感覚では、予想外の答えが返ってくる。この質問に対して、2節にあるように、見本として、当時にあって、無価値の代表とされた幼子を弟子たちの真ん中に立たせて、「この小さい子どものように自分を低くする者だ」と答えておられる(3,4節)。

ユダヤでは近代と違って、幼子はかわいい天使と、偶像視されていなかった。むしろ幼子は度々、つまらない者の比喩、無価値な存在の比喩として用いられた。子どもはちっぽけで無価値な存在だ、親に依存しなければ生きていけない無力な存在だ、つまらない者だ。自分の無価値さや無力さを悟っているというのは謙遜の証である。おごり高ぶりはそこにない。3節の「子どもたちのように」とは自分の無価値さ、無力さを認めて、謙遜になることである。4節でそれは「自分を低くする」として言い表されている。イエスさまは私たちに、悔い改めて、神の前に子どものようになること、自分を低くすること、そのことを求めておられる。子どものようになる者は自分の罪を素直に認めるであろうし、神への信頼も確かなものとなる。幼子は自分で食糧や衣服を買い、自分の力で生活を維持できないことを知って、親に百パーセントの信頼を寄せている。旅行する時も親が目的地まで無事に連れて行ってくれると信頼している。食糧は?切符は?宿の手配は?と心配したりしない。幼子は親に無類の信頼を寄せる。

私たちは幾つになっても、生涯、神さまに対して、幼子のような姿勢を取りたいと思う。4節では、幼子のような姿勢をもたなければ、「決して、天の御国に入れません」と言われている。イエスさまはかつて、同じ真理を、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5章3節)と表現している。今日の箇所では「心の貧しい者」ではなく、「小さい子ども・幼子」を用いて説明している。いずれも、自分が何者であるかのように思ってしまう私たちを戒めるために適した見本である。私たちは本来、罪深い者たちであり、かつ神さまの恵みで生かされている者にすぎない。私たちは神さまの恵みにすがって生きていかねばならない者たちである。神さまの恵みなしには罪の赦しはないし、神さまの恵みなしには一日たりとも生きていけない。私たちはへりくだらなければならない。神の恵みを恵みとしなければならない。自分のものは何もない。それはもともと自分のものであると思ってしまうから高ぶりが生まれるのであり、それを自分のものとして握りしめてしまうから、自分の思い通りにならないときに苛立ちを覚えてしまうわけである。

先の「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか」という質問を切り出した弟子たちは、自分はどのあたりにランクされているのだろうかと、ランク付けを気にしていたと思う。気持ちは上へ上へ。その弟子たちに対して、イエスさまは思いも拠らぬことを言われたわけである。自分で何もできないような無力な存在、ちっぽけで無価値な存在、つまらない愚か者の代表、この幼子のようになれ、と言われた。イエスさまは下へ下へと彼らの心を引っ張った。神は高ぶる者をしりぞけられるが、へりくだる者になお恵みを授けてくださるお方である。

イエスさまは弟子たちの質問に端を発し、「小さい者たち」の価値に心の目を開かせようとしている。それが5節以降の講話の内容である。「小さい者たち」と三回言及されている(6,10,14節)。先ず「小さい者たち」とは誰なのかを整理しておこう。それを文字通り、イエスさまのもとに来る「小さい子どもたち」と採ることができよう。だが、それがすべてではない。当時のユダヤ教の教師は弟子たちのことを「子どもたち」と呼んでいた。イエスさまはこの場合、ご自分のもとに来る子どもたちのことを意識していたことは確かであるが、それだけでなく、ご自分を信じて従おうとしていた大人たちのことも意識していたようである。つまり、弟子たちのことをである。私たちもイエスさまに従おうとしているのなら、私たちもまた小さい者たちである。これには肉体年齢は問われない。

次に、「小さい者たち」への接し方について、三つのことを見よう。第一は、キリストの名のゆえに受け入れるということ(5節)。「わたしの名のゆえに」ということは、見方を変えると、その人にはキリストの祝福の名が置かれているということ。ちっぽけに見えてしまう存在。しかし、イエスさまの目には高価で尊い。それは祝福すべき存在。イエスさまが安い大麦のパン五つと干し魚二匹を「それを持って来なさい」と言われ、祝福されたことも思い起こす。参考として、ローマ14章15節を見よ。ここでは言い換えると、小さい者たちとは、「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」ということになる。だから、当然受け入れるべき存在である。こうした見方ができないと、その人の外見や、接触した時の多少の心のざらつきから、拒んでしまうということが起こる。

第二に、小さい者たちにつまずきを与えないということ(6,7節)。「つまずき」はもともと「わな」という意味のことばであることを、以前も説明した。ここで「つまずきを与える」とは、罪を犯させ、滅びに至らしめることを言っている。その者に対する刑罰は重い。「大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです」(6節)。ユダヤ人は穀物を円形の石の間に入れて挽いた。どの家庭にも石臼はあって、臼の上の石は、下の石の上を回るようになっていて、それには引手がついていた。穀物を挽くのは主婦の仕事であったので、その石は女性が容易に回せる程度のものであった。しかし「大きい石臼」と訳されている碾き臼は、ロバが引かなければ回らないほどの大きさのものであった。この大きな碾き臼は刑罰の大きさを示している。また湖の深みで溺死ということが言われているが、溺死というのはユダヤ人にとって完全な破滅を意味していた。ユダヤ人歴史家ヨセフスによると、ガリラヤ人が反乱を起こした時、その反乱を起こしたガリラヤ人たちは、国主ヘロデの支持者たちを捕まえて、ガリラヤ湖の深みに沈めてしまったと言う。浮かばれない話である。大きい石臼と海の深みでおぼれるという表現を通して、小さい者たちに罪を犯させてしまうというのは、いかに重い刑罰に価するのかを自覚させようとしている。罪を犯させてしまうとは、道徳的に反する罪に誘うということもあるだろうが、イエスさまは律法学者やパリサイ人たちが偽りの教えで人々を罪に引き込んでいることも語っておられる。私たちも偽りの教えに注意深くなければならない(第二テモテ4章3,4節)。

イエスさまはつまずきの教えを敷衍していく。7節でイエスさまは、「つまずきが起こるのは避けられない」と語りつつ、無駄な努力はあきらめましょう、みたいなことは言われない。イエスさまは小さい者たちの前につまずきは置かないだけではなく、8,9節を見ると、自分の前にも置くなと言われている。しかしもそこでは、つまずきとなるものは自分の体の一部であっても、切って捨てるように命じられている。文字通り切ってしまったという人の話があるが、ここで言われていることは、文字通りそうする位の気持ちでつまずきに対処するようにということ。このように自分に対して厳しい姿勢を求める理由は、罪は恐ろしい結果をもたらすからである。「永遠の火に投げ入れられる」(8節)。ヨセフスは永遠に苦しまなければならないこの世界を「永遠の牢獄」と呼んでいる。そこから帰ることもできず、そこにいる時間は限りがない。イエスさまはまた「燃えるゲヘナの火に投げ入れられる」(9節)と描写している。ゲヘナはエルサレム郊外にあるヒンノムの谷のことで、エルサレムの廃物処理場のことである。この谷は一種の巨大なゴミ焼却場となって、火は絶えずくすぶり、煙がもうもうと立ち込めていた。そこには不用なものすべてが投げ込まれ、焼かれた。地獄を描写するにはもってこいの場所であった。イエスさまはゲヘナの火に投げ込まれないために、霊的外科手術をしなさいと言っておられるようである。

第三に、小さい者たちを見下げたりしないということ(10節)。イエスさまは小さい者たちの価値を「天の御使いが仕えている者たち」として描写している。天の御使いの働きは、聖書によると、救いを受け継ぐ人々に仕えることであると言われている。「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか」(ヘブル1章14節)。神さまは小さい者たちの救いのために、御使いを遣わし、守らせ、仕えさせている。私たちは、こういう現実に疎いだけである。10節ではこの御使いたちが「天におられるわたしの父の御顔をいつも見ている」と言われ、それが小さい者たちを見下げてはいけない理由とされているが、どういうことであろうか。御使いは神への忠実をモットーとしている。神の指示を仰ぐために、神の御顔を仰ぎ見る。御使いは神の御顔を仰ぎ見、どうしたらよいでしょうかと、神の指示を仰ぎながら、小さい者たちに仕えるのを常としているわけである。御使いたちはいいかげんに小さい者たちを取り扱わない。神の指示を仰ぎながら、小さい者たちに一生懸命仕えている。小さい者たちとはそれほどまでに大切にされている存在。そうであるならば、この小さい者たちを、私たち人間が軽んじていいわけはない。御使いのように、仕えるスタンスを採らなければならない。見下したり、つまずかせていいわけはない。御使いたちと同じような精神で仕えなければならない。

イエスさまは最後に、小さい者たちの価値を訴えるべく、迷った羊のたとえで教えられる(12~14節)。この箇所はルカの福音書15章のたとえと良く似ているが、ここでの強調は、迷った一匹の羊の価値である。ユダヤでは羊はよく迷ったと言われている。それはユダヤの羊だけが特に愚かであったということではなく、地形的な問題があった。ユダヤでは、牧草がまばらに生えている丘陵地帯が縦に走っているが、その幅は狭かった。そして一度高原の草地を離れてしまえば、両側は峡谷。草地とそうでないところを仕切る壁のようなものはない。両側の峡谷に落ち込めば、そのまま死んでしまう可能性が大きかった。パレスチナな羊飼いたちは迷った羊を捜しだす名人で、何キロも羊の足跡をたどり、ときには、岩や急な坂道を下って羊を連れ戻した。羊飼いたちは迷った羊を捜しだすために、進んで危険を冒し、どんな努力も惜しまなかったという。

実際の羊飼いの行動を追いながら、小さい者たちの価値について考えてみよう。一匹の羊がいなくなったことに気づく。するとその羊飼いは、仲間の羊飼いたちに残された羊の群れ、この場合は九十九匹の世話を頼んで捜しに行く。仲間の羊飼いたちは、夕方になると、残された羊の群れを村に連れ帰り、檻に入れる。彼らは村人に一匹の羊が迷子になったことを報告する。村人たちは捜しにいった羊飼いがいつ戻るのかと、山の方を気にかけている。すると、羊飼いが疲れ果てた羊を肩にかけて、無事に山道を下ってくる姿が見える。そして村中に歓声が上がる。村人はみんなでこの羊飼いを迎え、羊の発見を喜び、その話を聞こうとする。

羊飼いの捜索行動に焦点を当てると、羊飼いは迷った一匹の羊を百匹中の一匹ということで、百分の一の値打ちでは見ない。ましてや神は小さい者たちを数字や数で見ない。かけがえのない存在でとして関心を向けている。だから見捨てようとはしない。羊は愚かな動物の代表格と言われるが、同じように私たちも愚かで、同じ過ちを繰り返す。そういう場合、人は、「あれは馬鹿なやつだ。また同じことを繰り返して。自分で招いた災いだ。ほおっておけ」となりやすい。しかし、羊飼いは、羊が愚かであっても、その羊を見捨てず、その羊を救うためには命の危険も冒す。崖っぷちで、岩角にひっかかっているのを見捨てたりしない。羊飼いは羊を救うために、狼やその他の野獣と命を張って闘うこともあった。この一匹ぐらい犠牲になってもと、襲われるのを傍観してはいなかった。イエスさまは「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます」と言われた(ヨハネ10章11節)。

迷った羊はそう簡単に見つかるとは限らない。しかし、羊飼いには迷った羊を最期まであきらめないで捜し求める習慣があった。ちょっとグルッと見回って終わりではなかった。万が一、見つけることができなかった場合は、できるだけ羊の毛とか骨を持ち帰って、羊が死んだことを証明しなければならない決まりがあった。それほどまでに迷った羊を大切に思い、価値を置いていた。だから、ぜったい捜して連れ帰るという信念が羊飼いたちにあった。羊飼いは迷った羊を見つけると大喜びした。「その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです」とある通りである。

迷った羊のたとえはわかりやすい。私たちが小さい者たちをどのように見ていくべきかを教えてくれる。もし、本当に迷った羊に価値を置いているならば、捜しに出かける、見つけたら喜ぶ、という自然な流れになることも心に銘記させられる。

今日のお話の前半は、小さい子どものようにへりくだること、そして小さい者たちを受入れ、つまずきを与えず、見下したりしないことを見た。後半は小さい者たちの価値について迷った羊のたとえを通して教えられた。私たちは今日のイエスさまの教えを受入れ、心を低くして「小さい者たち」であり続けつつ、「小さい者たち」を主の心で見て尊び、「小さい者たち」の群を形成していきたいと思う。