前回は山を移す信仰について見た(14~21節)。私たちは過去の出来事としてキリストの十字架と復活を信じている。また未来において御国に入ることができるということを信じている。ところが、今の生活において、神さまに信仰を働かすことができないということが起こりうる。何をしても現状は変わらないと思ってしまう。自分の願いと現実のギャップの狭間で、だましだましの信仰生活を送ることになる。全能の神が働いてくださることを期待せずに、現状に妥協した日々を送るだけになる。そうでありたくない。神にはできると信ずる信仰を発揮しよう。

今日のところでは、社会でどうふるまうかということが教えられている。場所はガリラヤに移っている。これまでイエスさま一行は異邦人の地に滞在してユダヤ人の民衆から身を引いた生活を送っていたが、ガリラヤに戻ってきた。いよいよ十字架の場面も近づいてきた。

22~23節を見ると、思いがけないことばがイエスさまから発せられる。高い山で栄光の御姿に変貌されても、悪霊を追い出しても、受難という定めは変わることがない。「彼らは非常に悲しんだ」という悲しみは、どれほどの悲しみだっただろうか。イエスさまは、はっきりと「三日目によみがえります」と言っているのだが、そこは耳に入っていない。人は信じられないことは耳に入らないことになっている。その他の希望に満ち溢れた聖書のことばも耳に入らない。結果、悲しみから抜け出せない。彼らは「三日目によみがえります」の前の「殺される」にショックを受けて、悲しみに浸った。彼らは悲しみをひきずりながら、イエスさまについていく。

こうしたどぎまぎした状況の中で、ひとつのエピソードが起こった。場所はガリラヤの町カペナウム。カペナウムは使徒ペテロの家がある場所である。イエスさまがペテロとともにいたとき、徴税係が来たように思われる(24節)。徴税係の質問はどことなく意地悪い。イエスさまがもし納税を拒否すれば、イエスさまを訴える口実をつくることができた。ペテロはそれを知ってか、即座に25節前半で「納めます」と答えている。この税金の種類「宮の納入金」(24節)を説明しておこう。これは神殿を維持するために納めることが義務づけられていた税金。年間1億円近い税金が神殿当局に集められ、それが神殿本体の維持に、また小羊その他のささげものの費用に、備品制作費に、祭司の衣服を作る費用などに充てられた。神殿当局には、納入の義務を怠った者の財産を差し押さえる権限も与えられていた。

「宮の納入金」とは、実は意訳で、直訳すると「2ドラクマ-2デナリ」。それは貨幣単位で、当時の労働者の二日分の賃金に価する。イスラエル通貨の単位で言えば、「半シェケルの銀」に相当した。律法の定めにより、20歳以上のイスラエルの男性は、毎年半シェケルを神殿に納めた(出エジプト30章13~15節)。

徴税の方法は極めて組織的で、3月上旬に、パレスチナの町や村には、納税の時期が訪れたことが告示され、月半ばになると、町や村に徴税所が設けられた。だいだい過越しの祭りの1ヶ月前である。よって十字架刑の一ヶ月前ということになる。徴税所が設けられている期間内に納税しなかった者は、直接エルサレム神殿に行き、納めなければならなかった。イエスさまは毎年、この税金を納めていた。徴収された税金は正しく使われていたかどうかは怪しいところがあった。着服の実態もあったようである。とにもかくにも、イエスさまは、いわゆる国民、市民としての義務を果たしていた。

さて、イエスさまは税金に関して、家の中に入ったとき、ユニークな質問をペテロにされた(25節後半)。これは、「王様は、王の家族、王子から税金や貢を取り立てますか」という質問。王様は自分の子どもから税金を取り立てるわけはない。イエスさまはここで、ご自分がどういう身分、立場のものであるのかを、暗にほのめかしておられる。ペテロはしばらく前、ピリポ・カイザリヤで、どういう信仰告白をしただろうか。「あなたは生ける神の御子(すなわち王子)キリストです」(16章16節)。イエスさまは王なる神のひとり子、御国のプリンスである。聖書で預言され、ユダヤ人が待ち望んでいたイスラエルの支配者であられる。イエスさまには税金を納める義務はない。また、イエスさまは本来、神殿であがめられるべきお方であることも覚えよう。イエスさまは以前、こう告白しておられる。「あなたがたに言いますが、この宮(神殿)より大きな者がいるのです」(12章6節)。イエスさまは人々から礼拝され、あらゆるささげもの、服従の貢を受けるにふさわしい神の救い主である。イエスさまは父なる神とともにあがめられ、民の貢を受け取る立場にある。また考えてみれば、この地球を造り、人間を造り、人間に豊かな恵みを与えておられる創造者が、なぜ人間に税金を納めなければならないのだろうか。神が人間に税金を納めなければならないのか。そんな義務はない。さらに考えておきたいことがある。イエスさまは1ヶ月後に十字架刑である。イエスさまを十字架につけようとした人たちは誰であろうか。神殿当局である。この不当な扱いを目の前にして、神殿当局から指示があった税金を納められる。

イエスさまはこの後、特徴的な奇跡を行う(27節)。「釣りをして」とあるが、以前述べたように、対竿で釣りはしない文化である。だから釣り糸を垂らすということである。浅瀬で釣り針を垂らしたのではないだろうか。獲れた魚はユダヤ人が口にしないナマズのような魚ではなかったかと言われている。なぜかというと、貨幣を飲み込むことができる大きな口の魚を想定すればそういうことになる。口に入っていた「スタテル1枚」とは、4ドラクマ、すなわち、二人分の納入額に相当する貨幣である。

この奇跡の性質をちょっと考えてみよう。イエスさまの奇跡は、これまで他人を救済するという性質があった。自分の楽しみや、自分を楽させるために奇跡を行ったことはない。荒野の誘惑の場面では、悪魔は「この石をパンに変えてみよ」とイエスさまを誘惑した。でもそれを拒絶した。イエスさまはこれまで、自分のために、自分を楽させるために、その御力を使うことは一度足りともなかった。それを思うときに、どうしてこんなことをしたのだろう?と思ってしまう奇跡ではある。このようなマジックショーのような奇跡はしないで、財布を弟子にあずけて生活していたわけだから、たかが半シェケルほどの税金なら、十分そこから出せたはずである。にもかかわらず、あえて奇跡に訴えられた。ご自分の税金を支払うために。いったいどうしてか。間違った奇跡の用い方にも見えてしまう。しかし、そう思うのは皮相的で、この奇跡には、ある種のメッセージが込められていたわけである。それはどういうことだろうか。つまり、ご自分の財布ならざる魚の口から取って納めることによって、ご自分は本来、納税の義務はないことを、税金を納入する立場にはないことを、弟子たちに明確に示されたということである。もっとはっきり述べると、ご自分がメシヤであることを弟子たちに示されたということである。そういう教育的な意味がある奇跡である。

そして、この奇跡そのものは徴税人たちには見えない。見せていない。彼らはただ、イエスが納税したという事実を見るだけである。だからこの奇跡は見世物ではない。徴税人は、イエスはちゃんと規定どおり納めたと、そこだけがわかる。

そして27節から、イエスさまが納める義務がない税金を納めるのは、世間の人に「つまずきを与えないため」であったことがわかる。イエスさまは他人につまずきを与えないために、ご自分の権利を制限され、ご自分の自由を制限された。この姿は私たちの模範である。イエスさまは当時のガリラヤ人と同じ服装をし、サンダルを履き、当時のガリラヤ男性がそうだったように顎鬚をたくわえていただろう。当時の一般民衆と同じ食生活をし、社会的義務もすべて果たされていった。物を購入する時はお金を払い、法律も遵守された。

私たちはイエスさまと同じような意味での神の子ではない。だが、別の意味で、神の子である。信仰によって、神の養子とされ、神の子とされている(ガラテヤ3章26節、他)。また私たちは、天に国籍をもつ神の民とされている(ピリピ3章20節、他)。イエスさまが26節後半で、「では、子どもたちにはその義務はないのです」と言われたときの「子どもたち」には、クリスチャンたちのことも入っている。とすると、この世が言ってくることに、私たちはハイハイと従わなくてもいいように思ってしまう。

以前、仕事もせずに、喫茶店でコーヒーを飲んで、つまらない社会批判のおしゃべりを日課にしていたクリスチャン男性がいた。なぜ、そんな自堕落な生活を送っているのか聞いてみたら、「もうすぐ世の終わりが来て、どうせこの世は滅びるんだから、またこの世は悪魔に支配されてしまっているのだから、この世に貢献するだの、この世への義務だの、気にすることはない」ということだった。彼は、誰にも相手にされていないようだった。また、カルト宗教の人たちは一歩進んで、義務を放棄するどころか、この世に対して悪を行うことを正当化する。その論理はこうである。物質世界は悪、天上の世界は善という二元論に立ち、この世は悪魔に支配されている悪の世界だから、この世界からだましとって詐欺を行おうと、それはかまわない、それは罪ではない、というわけである(オウム真理教、統一教会等)。この人たちは、この世は神が愛する世界であることを忘れている。

「つまずき」ということば、つまずかせて倒すという意味で用いられるわけである。昔、子どもの頃、田んぼのあぜ道で、草と草を結んで輪を作り、足をひっかけさせて倒すという遊びをよくしていた。「つまずき」<スカンダロン>の原語の意味は「わな」である。この原語は英語のスキャンダルの語源になっている。「イエスが納税しない!」それは、りっぱなスキャンダルになってしまう。私たちは社会を構成し、社会に生きる一員として、イエスさまだったらどうさされるだろうか、と考えてみるのが良い。

さて、イエスさまによって貴重な体験をしたペテロは、後にどう語っているだろうか。ペテロの手紙第一を開いてみよう。

  • 2章12節 ペテロは「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい」と命じている。古代の教会の記録を読むと、キリストの教えを非難していた人たちも、クリスチャンたちの良い行いを賞賛していたことがわかる。伝染病が流行したとき、積極的に市民の看護にあたったのはクリスチャンたちであり、それは驚きの目をもって見られていた。
  • 2章13~15節 この世の制度に従うことが命じられている。「制度」とは、法律、その他のルールである。良き市民であるようにとの勧めである。付言すると、その制度が神の戒めを破るような場合であるのみ、従わない自由がある。キリスト信仰を禁じられるとか、偶像崇拝の強要とか、不正のたぐい。ペテロは使徒の働きを見ると、「宣べ伝えてはならない教えを語っているではないか」と問われたとき、「人に従うより神に従うべきです」と答えている(使徒5章28節)。13節の「主権者である王」とは直接的にはローマ皇帝を指している。ペテロがこの手紙を執筆した時代は60年代だが、あの悪名高き皇帝ネロの治世の時である。ネロ皇帝は皇帝崇拝を強要し、キリストを告白する者たちを捜しだしては処刑し、ペテロもネロの治世に殉教するわけだが、クリスチャンたちは、使徒をはじめ、長老たちに教えられ、誠実な市民であり続けようとした。つまり、皇帝崇拝を拒否する以外は、義務をすべて果たし、良き市民であろうとした。皇帝崇拝を拒否しつつ、「王を尊びなさい」(17節後半)という姿勢を保つことを心がけた。王として、その立場のゆえに敬意を払うということ。これはダビデが自分の命を狙うサウル王に対して実践した。私たちの立場では、王とか14節の「総督」といった存在は、天皇、大統領、長官、首相、県知事、市長といった存在になってくるわけである。これらの人に対してバカにする態度はいけない。
  • 2章18~21節 働く世界において、上に立つ人に服従する。「横暴な主人」(18節)を別訳すると、「気むずかしい主人」「いじわるな主人」である。現代で言えばこの主人とは社長や上司ということになるだろう。苦手で愛せない上司がいる。上司の態度はことごとく自分の存在価値をみじめなものにしてしまう。そういう「主人」であっても、服従する。それは奴隷的に、指示されたことが不正や悪にかかわることでもやってしまうということではない。またご機嫌取りで、ハイハイと従っておいて、ベロッと舌を出すことでもなく、ここで言わんとしたいことは、主のゆえに、主のために従うことであり、18節にあるように「尊敬の心を込めて」という心の姿勢が問われる服従である。ペテロは主人が横暴なため、不当な苦しみを受けることも想定して語っているが、21節では、そうした場合の模範としてキリストを取り上げている。
  • 3章1~2節 家庭内での服従が命じられている。相手が「みことばに従わない夫であっても」(1節)である。ペテロはここで「無言のふるまい」という表現を用いているが、女性の弱さである口の問題を念頭においている可能性がある。

私たちは一国民、市民、社会人、家庭人として、キリストの証人、神の証人であることを覚えよう。私たちは、社会ルールと言ってもこれくらいやらなくとも、と思いたくなる時がある。また、自分の存在価値をみじめにする環境や人には仕えたくない、自分の存在が認められ、自分の価値が高められるところに行きたい、とそう思い、安易にそこから離れてしまうことがある。ただひたすら自己実現の世界を望んでしまう。そのほうが自分の本当の弱さや罪深さと直面しなくとも済む。困難な環境は自分の本当の姿をあぶり出すことになることは確かなのだが、これは、神の恵みのお取扱いを受ける機会ともなる。ただひたすらに楽な環境というものは神に拠り頼むことを忘れさせる。自己充足的になる。自分のうちに神が働き、相手との間にも神が働いてくださることを体験せずに終わってしまう。どうしても耐えられない時は、神は脱出の道を備えてくださる。しかし人は神の指示を待つことなく安易に現実逃避をしてしまうことが多い。しかし、それを逃避であるとは認めたくない。自分に都合のいいことを言ってくれる人が現れれば、なおバンバンザイである。ペテロの手紙は試練の中にある兄弟姉妹へのメッセージなのだが、ペテロのアドバイスは、この世のそれとはかけ離れていることにお気づきになられただろう。そこまで敬うの?そこまで仕えるの?そこまで耐えるの?という内容である。なぜそうするかというのなら、私たちの第一の関心は、キリストの御名があがめられること、神の栄光でなければならないからである。パウロも同じ立場に立っている。「私はすべてのことを福音のためにしています」(第一コリント9章23節)と告白し、「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」(第一コリント10章31節)と命じている。私たちも、今置かれたところでどうしなければならないのか、それぞれが立ち止まって自己吟味しよう。自分がどうあるべきなのか、何をしなければならないのか、主にお聞きし、主のみこころに従おう。置かれたところでキリストの香りを放とう。