弟子道を学ぶ上で、最大の山場の箇所に来た。前回、ほんものの救い主は、苦しみと死を通らなければならないことを見た(21節)。神が人となって苦しみ十字架にかかり、全人類の身代わりにならなければならない。救い主は苦しみを味わい、自分のいのちを丸ごと差し出さなければならない。けれども、ペテロにはそのような理解はできない。ペテロは救い主が苦しみと死を味わうことなどあってはならないと、人間的思いでイエスさまをいさめてしまう(22節)。反対にイエスさまはペテロを叱責する(23節)。「下がれ。サタン」と、悪魔の誘惑を意識されているが、「ペテロに言われた」とあるので、ペテロも意識されている。「下がれ」の文字通りの訳は、「わたしの後ろに行きなさい」。ペテロは霊的に弟子としてポジションを見失っていた。出過ぎてしまった。弟子は師の後ろに行かなければならない。そして師と同じ精神で、師に従わなければならない。それが24節以降につながっている。

24節を読もう。「だれでもわたしについてきたいと思うなら」と、イエスさまは弟子たちの自発的服従を望んでいる。弟子たちの自由意志に期待している。これが重要である。強制されて、いやいやながらの服従では意味がない。私たちはキリストの権威に引き寄せられ、またキリストの愛にほだされて、自発的にキリストに従いたい。「だれでもわたしについてきたいと思うなら」の直訳は、「誰でもわたしの後ろから来ることを望むなら」である。23節の「下がれ」の直訳は「わたしの後ろに行きなさい」であった。「誰でもわたしの後ろから来ることを望むなら」は、「わたしの後ろに行きなさい」を実践しようとする者たちがとるべきポジションである。

そのあと、イエスさまは「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい」と、弟子たちの肉の思いと反することを告げられる。弟子たちは、神のことを思わないで人のことを思っていた。「救い主はローマの支配と国主ヘロデの圧制から我々を解放し、地上に栄光の神の国を打ち立てられる。イスラエル王国を再建される。我々十二弟子たちは、救い主とともに栄光の座に着き、国を治める」とシュミレーションしていた。だから、「救い主が拒絶され、苦しめられ、むごい死を遂げることなどあってはならない。救い主に従う者もしかり」と思っていた。イエスさまはこのような都合のよい人間的考えを改めさせなければならなかった。すでに弟子が払う犠牲については、10章37~39節で告げている。開いてみよう。ここでも自分の十字架を負ってついてくることを語っておられる。けれども、まだ彼らの耳は閉じている。イエスさまはくり返しくり返し、御国の弟子道を教えなければならなかった。

16章24節には、弟子への三つの命令がある。原文では三つの命令文で構成されている。第一は「自分を捨てなさい」。「捨てる」と訳されている<アパルネオマイ>は、「関係を否認する」という意味がある。だから「自分を捨てる」は、「自分自身を否む」また「自己を否定する」と訳せる。自己肯定の時代にあって、古めかしいと思われるかもしれない。実は「関係を否認する」という意味をもつ<アパルネオマイ>は、ペテロがイエスさまを否認するのに用いられている。「あなたは三度わたしを知らないと言います。別訳:あなたは三度わたしを<否認します>」(マタイ26章34節)。私たちはイエスさまを否認してはならない。イエスさまなんか知らない、ではいけない。イエスさまの命令は自分との関係を否認すること。その自分とは古い自分のことであり、自己中心の性質をもつ自分のことである(ローマ6章6節参照)。「古い自分は十字架で死んだ。古い自分の興味、願い、欲望、それらとはもう何の関係もない」とすること。古い自分にふさわしい場は十字架しかない。ペテロはこの転換をやがて迎えるが、今はそうではない。古い自分を栄誉の座に押し上げようとしていた。古い自分を喜ばせようとしていた。古い自分とは決別しなければならない。

弟子への第二の命令は、「自分の十字架を負いなさい」。キリストの時代、十字架は強烈な現実であった。十字架はローマに反逆する重罪人を死刑にする道具だった。それは拷問と死のシンボルであった。また公開処刑ということにおいて恥のシンボルであった。イエスさまはこの時、ピリポカイザリヤ(13節)で語っておられるが、少し前、この地域で千人のユダヤ人が十字架につけられた。1世紀には、反逆罪に問われた八百人のユダヤ人がエルサレムで十字架につけられた。それから間もなくしてヘロデ大王に従った革命家たち二千人が、ローマ総督の手で十字架につけられた。少人数規模ではしょっちゅうあった。キリスト在世当時、概算で三万人の人々がローマの権威者の手によって十字架につけられたと言われている。

十字架刑が確定した者は、鞭打ちなどの拷問の後、自分がはりつけになる十字架の横棒を刑場までかつがせられた。皆の面前でさらし者になりながらである。それが「十字架を負う」ということである。十字架を負った時、死の行進が始まる。

普通の場合、死にたくないので、むりやり負わせられる感がある。しかし、イエスさまの命令は、自発的に負うことが言われている。文字通り、自分を捨てる覚悟がなければできない。生々しい十字架刑を目にしてきた者たちにとって、聞きたくない命令であったと思う。

イエスさまがここで語る十字架は、人生で被る困難や苦難のことではない。十字架とは肉体的ハンデキャップをもっていることだ、ではない。十字架とは切れやすい夫がいることだ、癇癪持ちの妻がいることだ、言うことを聞かない息子、娘がいることだ、でもない。十字架は会社経営がうまくいっていないことだ、でもない。十字架を負うとは、自発的意志から、キリストのために犠牲を払うことである。それはかたちとして恥を負うこと、非難されること、安全を失うこと、富を失うこと、仕事を失うこと、究極においては殉教という結果にもなろう。

多くの人は十字架なしの弟子道を希望する。けれどもイエスさまはそうした選択は許さない。キリストが私の身代わりとなり十字架についてくださった、という真理がある。そうであると、もう自分には負うべき十字架はないではないか、と言ってしまうこともできる。しかし、まだ負うべき十字架はある。それは罪赦されるための十字架ではなくて、キリストのために負う十字架である。これは、自分を捨てるのを拒み、自己保身に走りやすい私たちにとってチャレンジとなる。

弟子への第三の命令は、服従である。「わたしについてきなさい」は「わたしに従いなさい」とも訳せる。従うことへの要求である。先の「自分を捨て」と「自分の十字架を負って」の二つは、原文において、きっぱりとした決断を要求する命令形となっている。それに対して、「わたしについてきなさい」は、「ずっとついてきなさい」「従い続けなさい」という、継続の命令形となっている。忠誠、服従を継続すること。これが課題である。エペソ教会は、「あなたははじめの愛から離れてしまった」とキリストご自身から非難を受けた(黙示録2章4節)。そして、「あなたは、どこから落ちたかを思いだし、悔い改めて、はじめの行いをしなさい」(2章5節)と戒められている。正統的信仰を保っていたエペソ教会の人々。けれどもキリストの花嫁として愛が冷えつつあった。エペソの教会の人々は「人知を越えたキリストの愛を知ることができますように」(エペソ3章19節)で言われているが、愛が彼らの課題だった。知識でキリストに結びつくだけでは足りない。愛で結びつかなければならない。キリストの愛を再発見して、キリストに従うのである。キリストは私たちの前を歩み、十字架を負っている。それは私たちの罪のために。また私たちの模範として。そしてその御苦しみ、流される血は、私たちへの愛の証。キリストの愛のうちにとどまることを常に選び取りたいと思ったのならば、自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従うポジションを選び取る以外にない。この場を離れたら、キリストを見失う。キリストのそば近くいることができない。そればかりか、次節で見るように、自分のいのちを失うことなる。なぜなら、キリストがまことのいのちだからである。迷い続けるのではなく、決断して、自分を捨て、自分の十字架を負って、キリストに従い続けたい。

24節のまとめとして、原文の意を酌んで、直訳的かつ詳訳的に訳しておく。「誰でもわたしの後ろから来ることを望むなら、自分を潔く捨てなさい。そして自分の十字架を迷わず負いなさい。そしてわたしに従い続けなさい」。最初の二つがきっぱりとした決断を要求する命令形で、最後は継続を要求する命令形である。継続は力なり。

25節を読もう。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」。「いのちを救おうと思う」という表現は、前節の「自分の十字架を負う」ことと反対の精神である。さらに気がつくことは、イエスさまへのペテロを通しての誘惑は「あなたのいのちを救いなさい」であったことがわかる。イエスさまはこの誘惑を退けられた。「あなたのいのちを救いなさい」という誘惑は、キリストに従おうとする者にもある。だからイエスさまは自分の十字架を負うことを弟子たちに命じている。「いのちを救いなさい」という誘惑は、保身に走る誘惑である。保身に走る者は、実は自分に対して一番冷たいことをしている。それは自分のいのちを失うことだからである。イエスさまのために生きるということは、一見、損になるように思えて、一番自分のためになるという、逆説的真理がある。「キリストに従うことを選択したら、あの楽しみ、この楽しみができなくなる。色んな犠牲を払わなければならなくなる」。このように思い巡らしてしまう私たち。だから、今日のことばに聞かなければならない。誘惑に対しては「下がれ。サタン」と抗い、みことばにかない、キリストに従う弟子のポジションを選び取りたい。

イエスさまは26節以降、ご自身に従う者たちへの報いに言及し、励ましを与えておられる。わたしに従う者は、まことのいのち、永遠のいのちを得るのだと。また、その行いには報いがあるのだと。

26節を読もう。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」。これを思えば、イエスさまに従うこと、また従い続けることを止めてはならないと思わせられる。この地上が与える最大の報いは、ありえない話だがMAXで、「全世界」となろう。世界中の土地、お金、宝石、石油、豪邸、ビル、自家用飛行機、ビューが素晴らしい観光名所、名声、地位、美女、イケメン、自分の生活を支える最高スタッフ、それをすべて手に入れても、それらは、「まことのいのち」と比較したら、紙くずにすぎなくなる。「まことのいのち」とは、キリストご自身と言ってもよい。なぜなら、まことのいのちの本質はキリストであるから。「わたしはいのちのパンです」(ヨハネ6章48節)。「わたしは、よみがえりです。いのちです」(ヨハネ11章25節)。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14章6節)。「この方こそ、まことの神、永遠のいのちなのです」(第一ヨハネ5章20節)。「御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちをもつためである」(ヨハネ3章16節)。主イエス・キリストが、イコールまことのいのち、永遠のいのちである。

27節を読もう。「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします」。イエスさまは21節において、十字架の死と復活を預言され、そして、ここで再臨を預言されている。イエスさまはこれからご自身に起こる三つの重要な事柄を弟子たちに告げておられる。死と復活は二千年前に成就したが、2017年の今日の時点で、まだ再臨は起きていない。イエスさまは再臨の時に、おのおのの行いに応じて報いがあることも告げられる。

28節を読もう。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人がいます」。この時がいつの時なのかということについては七つから八つの解釈がある。再臨の時という解釈もあるが、「ここに立っている人々の中には」と言われているので、弟子たちの生存中に限定した期間という解釈も広く受入れられている。具体的な時期は、続く17章の高い山での変貌の時、復活と昇天の時、ペンテコステの時、AD70年のエルサレム滅亡の時など。実際いつの時を指すのか断定できない。これ以上、深入りはしないでおく。28節をどう解釈しようとも、イエスさまはご自身が再臨されるとき、豊かな報いを与えてくださることはまちがいない。

私たちは、今しばし、この地上に留まるのだが、この地上では「忍従」という苦さだけがあるのではない。最後に、この地上でイエスさまに従う喜びがあることを語って終わりたい。

いつも幸福な顔をして歌を口ずさんでいた植民地奴隷の話がある。彼に何が起こっても、つらい時でも、彼はいつも喜びにあふれていた。ある日、彼の主人が尋ねた。あなたをしあわせそうにさせているものは何なのか?」(皆様ならわかるだろう)。奴隷は答えた。「わたしは主イエス・キリストを愛しています。主はわたしの罪を赦してくださり、わたしの心に歌をくださったのです」。主人は尋ねた。「そうか。どうしたら、おまえがもっているものをわたしも得ることができるのだ?」奴隷は答えた。「行って、一番よい背広を着て、ここに下りて、私たちといっしょにになって、泥まみれになって働いてください。そうすれば、それを得ることができます」。主人はむっとして馬に乗って、怒って言い返した。「そんなこと、できるわけがないだろう」。数週間後のこと、主人は同じ質問をしてきて、奴隷は同じ返答をした。それから二~三週間後、主人は三回目に来て、言った。「さあ、わたしにはっきり言ってくれ。どうしたらおまえがもっているものを、わたしも得ることができるのかを?」奴隷は答えた。「お聞きになりたいそのことは、他の機会にも言ってきたはずです」。主人はやけくそになって言った。「わかった。それをやればいいんだろう」。ところが奴隷は言った。「今、それをしてはなりません。あなた様がそれを望んだ時だけ、したほうが良いのです」。

泥まみれになったり、苦しむこと自体に意味があるのではない。自分の意志でキリストをいのちとして選び取り、自由意志に基づいて、自発的に従うということに意味がある。イエスさまはかたちだけの心は何も変わっていないパフォーマンスを望んではおられない。自分の自由意志に基づいて自分の人生を明け渡し、従うことを望んでおられる。その時にすることはすべてキリストへの奉仕となり、キリスト礼拝となる。台所での仕事も、草むしりも、雪かきも、泥まみれになって働くことも。すべてがキリストへの行為となる。キリストは従う者にはご自身を現してくださる。キリストに従う者は、いつでもキリストの臨在を喜び、楽しむことができる。キリストとともなる人生、キリストに従う人生、私たちはいつもそれを選び取り、キリストを我が喜び、我が誉れとしていきたい。

まだイエス・キリストを信じ、受け入れていない方にもお話したい。26節に今一度心を留めていただきたい。人は何を望んでいるのか?富を手に入れることなのか?ある意味そうである。しかし、無神論、富の公平な分配を教える共産国や社会主義国家で、なぜなおも人は神を求めるのか?また、誰でも富を追求できる自由市場の原理をもつ資本主義国家で、なぜ人は神を求めるのだろうか?それは富ではほんとうの意味で心の満たしを得ることはできないし、永遠のいのちも買えないと知っているからである。キリストはまことの神、まことのいのち、永遠のいのちである。このお方を受け入れるのに、お金は必要ない。世界中を旅して捜す必要もない。心の中で信じるだけでいい。キリストは十字架にかかり、私たちの罪の代価をすべて、ご自分のいのちで支払ってくださったお方である。そして死よりよみがえり、天の栄光の御座に着座された。このお方を私の救い主として信じ受け入れよう。