今日のテーマは誘惑である。甘いものへの誘惑に弱い、その手のお話はお茶の時間に譲るとして、イエスさまが誘惑に会うというお話である。ペテロからの誘惑である。ペテロはまじめに諭しているという意識しかないのに、実際は、それが誘惑となっている。事は単純ではない。

13節以降、二週に渡り、ペテロの信仰告白の記事を見た。ペテロは16節で「あなたは生ける神の御子キリストです(すなわち神の救い主です)」と、イエスさまは誰かということにおいて正しい信仰告白をしている。イエスさまは正しい信仰告白をしたペテロに対して18節で「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」と、ご自身の教会を弟子たちに対して託されることを宣言される。その上で、これからご自身に起こることを明らかにされる。それが21節である。「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえられなければならないことを弟子たちに示し始められた」。イエスさまはここで、死からよみがえる復活についても言及しておられる。イエスさまは18節で、わたしの教会はハデスの門も打ち勝てないと、死に対する勝利ということを語っておられた。教会の礎石でありかしらであるイエスさまが死で終わるわけはない。イエスさまはご自身が死よりよみがえり、ハデスの門を最初に打ち砕く。それを預言された。ところが、ペテロの反応は芳しくない(22節)。イエスさまを引き寄せて、いさめ始めた。なんてことを言うのですかと。イエスさまのことばの中で、ペテロが一番強く印象に残ってしまったのは、おそらく「殺され」ということばである。イエスさまにとってこれはもちろん、公式な刑罰である十字架刑を意味していたわけだが、しかし、それは正当性のない殺人にすぎないわけである。死刑制度を悪用した殺人である。「殺され」ということばは、「死刑にする」ということばではなく、文字通り「殺す」こと、「殺人」である。ペテロはこのことばを聞いてショックを受けてしまった。「我が主が殺される。キリストである方が殺される。とんでもない!あってはならない!」心情としてはわかる。殺人を口にされたわけだから。

この時ペテロが取ってしまった行動、「イエスを引き寄せて、いさめ始めた」ということであるが、当時、弟子が師をいさめるというのはまれな行為であった。普通に考えると、弟子としての領分を越えてしまった行為ということになる。ちょっとペテロの問題が見えてきた。

21節のイエスさまのことばはショッキングなものであったが、別の意味でショッキングなことばを、後ろを振り向いてペテロに投げつける(23節)。「下がれ。サタン。」という叱責は17節とは対照的である。ペテロに対して「イエスはキリスト、救い主」と示されたのは「天の父なる神」であったことが告げられている。しかし、天の父なる神の働きを受けたペテロは、あっという間に、サタンの使いに転落してしまっている。人間とは実に不安定な存在である。神の働きを受け、りっぱな信仰告白をしたペテロ。その彼が、短い間にサタンの思惑にはまり、「神のことを思わないで人のことを思っている」存在に落ちてしまった。誰にでも起こりうることである。「下がれ」という命令はサタンに対する命令であるが、「ペテロに言われた」とあるので、ペテロも意識されている。この点を見のがしてはならない。さて、「下がれ」とは、どちら側に行きなさいということなのだろうか。「下がれ」を直訳すると、「わたしの背後に行くのだ」「わたしの後ろに行きなさい」。「下がれ」「わたしの後ろに行きなさい」ということで、これは、霊的に出過ぎたペテロに対して、霊的に弟子としての本来のポジションにつくようにとの命令でもある。師の後ろが弟子のポジションである。次週学ぶ24節のイエスさまのことば「だれでもわたしについて来たいと思うなら」も直訳は、「だれでもわたしの後ろから来ることを望むなら」である。ペテロは出過ぎていた。ペテロは弟子のポジション、服従のポジションに立ち返らなければならない。これを忘れて、とんでもない、そんなことはあってはいけない、自分は絶対いやだ、認めない、考えを変えなさい、わたしはあなたを阻止する、わたしの言うこと聞いて、とやっていることは、主であり師であるイエスさまの邪魔をすることでしかない。

「あなたはわたしの邪魔をするものだ」も間接的にはペテロに言われている。「あなたはわたしの邪魔をするものだ」を直訳すると、「あなたはわたしのつまずきの石だ」。ペテロはもともとの名前はシモンであったが、イエスさまによってケパ(訳すとペテロ)という名前を与えられたことを前回詳しく見た。その名前の意味は「岩」であった。そのペテロは18節で「この岩の上に」と言われたと思ったら、有頂天になる暇もなく、今度は「つまずきの石だ」と言われている。ペテロは良い石にも悪い石にもなってしまう。これも人間の不安定さを物語る。つまずきの石になるというのは他人事ではない。

ペテロは神から来たことばを信仰告白として語ったが、その口が渇くか渇かないうちに、悪魔の知恵を語っている。私たちもペテロと同じ弱さの中にある。自戒したいと思う。私たちもイエスさまは神の救い主であると信じている。それを告白している。けれども、普段の生活の中での判断や生き方などが、見えるところは世間の人が納得するところで常識的に思えても、サタンを喜ばせるものでしかないということが起きる。

イエスさまは「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われる。「神のことを思わない」とは、「神の側には立たない」ということである。サタンはそういう存在である。サタンは神の敵である。「サタン」のことばの意味自体が「敵対者」である。神に敵対し「神の側には立たない」。では「人のことを思っている」とはどういうことだろうか。サタンは人間の幸福を常に考えてくれているのだろうか。いや、これっぽっちも考えていない。考えているように見えたら、それは見せかけにすぎない。サタンは人間を、自分が裁かれ投げ込まれる場所、底知れぬ所へ一緒に引きずり込もうとして、日夜活動している。甘いことばで誘い、人間のことを親身に考えているようなフリをする。しかし、それは人間を欺いているにすぎない。人間の幸せなんて、これっぽっちも考えていない。詐欺師と一緒である。サタンは霊の詐欺師である。人間を誘惑し、だまし、神に逆らわせ、人間を罪と滅びに引き込むのがサタンの働きである。次の「人のことを思っている」とは、神に敵対してしまう「罪人の側に立つ」ということであろう。罪とは神にそむくこと、神に逆らうことを意味するが、それが罪人のスタイルである。そっちの側にサタンは立つということである。

人間のレベルで考えるときに、神のご計画、神のみこころ、神のご意志よりも、自分の思惑がなればいいと考えるのが人間である。ペテロはイエスさまが早くイスラエル王国を確立して、自分はその右大臣か左大臣になれればと願っていた。だから、「救い主が拒絶され、苦しめられ、むごい死を遂げるようなことがあってはならない。救い主に従う者もしかり」と思っていた。ペテロは自分の思惑にイエスさまを合せようとしたかっただろう。けれども神のご計画、神のみこころ、神のご意志は、人間の理解を越えている。ほんものの救い主は苦しみと死を通らなければならなかった。

人間は理解が足りないばかりか、肉と血をもっている弱さも手伝って、自己犠牲を嫌い、安楽な道を求める。そのことは、次回見る24節の「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を追い、そしてわたしについて来なさい」という命令が暗示している。サタンは私たちが神のために自己犠牲を払わないように誘惑してくる。サタンは私たちが、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢で、霊的に眠ってくれていることが一番である。私たちは神のためと思っても、合理的で、楽で、平坦で、最短のコース選び取りたくなるものである。イエスさまは、そうした人間の弱さを念頭に話している。自分の十字架を負う弟子道については、次回、詳しく見る。

ペテロのことばは、イエスさまにとっても、ただ神のご計画にそむかせるというものではなく、自己犠牲を避けさせる誘惑となっていることがわかる。ホンモノの救い主は苦しみと死を通らなければならない。苦しみと死は大きな自己犠牲を伴う。十字架刑はその最大のものであった。かつてサタンは、荒野の誘惑のときに、十字架なしで御国の王となるよう誘惑してきた。サタンは今、ペテロを通して、同じ誘惑を与えている。十字架なしで神の国を築けと。ペテロは人間的価値観で語っているが、この考えはサタンに通じるものである。十字架を回避させようという誘惑は、やがて宗教家のリーダーたちからもあった。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから」(マタイ27章42節)。十字架は計り知れない痛みが肉体とたましいに伴う極刑である。地上の歩みの中で避けたい最大のものであっただろう。しかし、イエスさまは一連の誘惑に打ち勝ち、十字架での贖いのみわざを全うし、勝利者となられた。

ここで、今日の記事から引き出される教えを三つにまとめて語ろう。第一は、私たちは十字架のメッセージを語らなければならないということ。ペテロの誘惑は、イエスさまに対して十字架を避けさせようとする誘惑となった。だがイエスさまはこの誘惑に打ち勝ち、十字架につかれた。十字架なしには罪人の贖いはないからである。私たちの福音のメッセージは十字架なしには成立しない。サタンが昔も今も恐れているのは十字架のメッセージである。サタンはイエスさまが十字架についたことを取り消すことはできない。今、サタンができることは、十字架のメッセージを封じることであろう。私たちは十字架のことばを語らなければならない。社会問題を語ることならどこでもやっている。心理学を語ることもしかり。教会は十字架による救いを語らなければならない。

第二に、弟子の位置に立ち、主のみこころを生きるということである。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と、みこころを求めて生きるということである。ペテロのように出過ぎたポジションに立って、イエスさまをいさめたり、自分のやりたいことを押しつけようとすることは、考え物になる。弟子のポジション、服従のポジションに立とう。つらい事でも主のみこころであるならば、それを受け入れる信仰が必要である。「下がれ」「わたしの背後に行くのだ」「わたしの後ろに行きなさい」という命令を受け入れ、弟子のポジションにつき、イエスさまのみこころに従う姿勢を選び取らなければならない。

第三に、イエスさまのための自己犠牲をいとわないということである。この点については、次週、24節以降から詳しく見たいと思うが、周囲から、そんなことがあってはなりません、やめなさい、と言われようが何しようが、主に示されたこと、するべきことは本当にしなければならない。海外宣教師の伝記でよく出て来る文章は、海外宣教に召されたと確信し、それを家族なり、周囲の人たちに話したとき、反対されたというもの。内的な戦いが生まれる。そんな犠牲が多く、苦労が多いことをしなくともいいじゃないか。こちらにとどまっていたら、安定した生活を送れる。家族も喜ぶ・・・。イエスさまは十字架にかかる少し前、ゲッセマネの園で血の汗を流す葛藤の祈りをささげた。嫌だけれども従わなければならない、従う力をくださいと。わたしも横手で開拓を始める前に大きな葛藤があった。払う犠牲を数え上げ、神との問答、自己問答の末、最終的には、神さまが御手で支えてくださるのだと、気持ちの中で崖から飛び降りた。けれども、いつでも犠牲を払いたくないという誘惑は来る。おっくうになってしまうことも出て来る。別の表現を採ると、自分の十字架を負いたくなくなる誘惑が来る。私たちはそうした度ごとに、イエス・キリストがまず十字架を負って私たちを救うために大きな犠牲を払われたその姿を仰がなければならない。

今日の箇所から、最期に、私たちが受ける誘惑について一言付け加えたい。私たちにも人を介してのサタンの誘惑というものがあるだろう。身近な人からこうした誘惑はあるかもしれない。あなたのためを思って言っているんだからね、と言って。そして中途半端な献身を勧めてくるかもしれない。「心の中で信じていればいいでしょう。洗礼を受けなくても」などと言うのは常套手段で多くの人が経験するものであるが、クリスチャンになってからも様々誘惑はある。同じクリスチャンから誘惑も経験する。単なる親切心で言っている場合もある。いずれ、そうした時には、神の側に立つということを心がけたい。そのためには、私たちはみことばを尊び、みことばに細心の注意を払って、祈り心で神に聴くということが基本姿勢として大切であろう。私たちは自分に都合のいいことを言ってもらいたいという傾向性がある。自分に都合のいいことを言ってくれる人が出て来るまで人に聞きまくる。または自分に都合のいいみことばを探し、こじつける。だから、本当の意味で神の側に立つ気持ちで、好き嫌いの問題は棚上げにして、みことばに聴かなければならない。また、神さまのみこころと違うことを言ってくる相手に対しては、あくまで隣人として、兄弟姉妹として愛さなければならない。イエスさまはペテロから誘惑に会った後、ペテロに三度裏切られるということまでも経験する。それでもペテロを愛し通した。ペテロはその主の愛に応える者となる。イエスさまは誘惑を退け父なる神のご意志に従ったというだけでなく、誘惑した相手を愛し続けたという意味でも、私たちはイエスさまに倣いたいものである。