今日のテーマは「教会」である。当教会はプロテスタント教会であるが、最初のプロテスタント教会第一号は、1972年(明治5年)3月に設立された、横浜の日本基督公会である。当時はまだ禁教下にあった。翌年、明治6年に信教の自由が認められる。

さて、そもそも「教会」とは何か。前回はシモン・ペテロが「あなたは生ける神の御子キリストです」(16節)と告白したその意味を詳しく見た。教会とは、「イエスはキリスト、すなわち神の救い主です」と告白した者たちの集まりである。今日は、この教会の性格と使命ということを、ご一緒に見てまいりたい。

中心となるみことばは18,19節である。ローマカトリックは、ここから一つの教義を作りだした。それはローマ教皇の至上権、首位権というものである。「『この岩の上に』というのはペテロの上に教会を建てるということなのだ。ペテロは最初の教会監督、教皇だ。『あなたに天の御国のかぎを上げます』とあるので、ペテロは地上で至高の権威をもつキリストの代理人だ。ペテロは天の御国のかぎを受けて、ローマ教会監督、すなわちローマ教皇にそのかぎを譲り渡してきた。だからローマ教皇が語ることばは正しく、聖書の権威に匹敵するのだ」。こうしてペテロ及びローマ教皇の権威を絶大なものにしてしまった。しかし、そもそも、ペテロが自分の至上権、首位権というものを主張した記録は聖書にない。むしろ彼は、自分を「長老のひとり」という呼び方しかしていない(第一ペテロ5章1節)。また彼はこの信仰告白の後すぐに、ことばで失敗を犯している。彼は信仰告白の後、無意識のうちにサタンの使いとなり、イエスさまから叱責を受けている(23節)。こうしたエピソードは、彼を神聖視しないようにとの神の配剤のように思える。また、教会誕生後のことであるが、ペテロは真理についてまっすぐ歩むことができない時があり、使徒パウロから抗議を受けている(ガラテヤ2章11~14節)。彼は救われるためには割礼というユダヤ教の儀式も必要であるとする割礼派の人々を恐れて、さも彼らの教理を認めるかのような妥協した行動を、一時取ってしまったことがあった。彼も過ちを犯しやすい弱さをもった一人の人間である。

さて、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」と言われている「岩」とは誰のこと、何のことなのだろうか。プロテスタントではローマカトリックの解釈を避けることに神経を注いだ。かつて、福音派で定番になっていた1972年出版「新聖書註解」(いのちのことば社)ではこう記す。岩とは「ペテロが告白した、啓示そのものである。それはとりもなおさず『生ける神の御子キリスト』であるイエスご自身である」と説明している。ところが、1995年出版「実用聖書註解」(いのちのことば社)では、「それは弟子団を代表する形でキリストを告白したペテロの上にということであろう。強調点はペテロ個人にあるのではなく、『イエスこそキリストである』という信仰の上になのである」と説明している。この二つの解釈はペテロの信仰告白の内容に強調を置くことにおいて共通しているが、「岩」の基本的解釈が違っている。先のものは「キリスト」、あとのものは弟子団を代表する「ペテロ」。これは一例である。プロテスタントではこれまで、「岩」とはキリストである、「岩」とはキリストの教えのことである、「岩」とはペテロが告白したところのイエスはキリストであるという真理である、「岩」とはペテロの信仰告白のことである、等の解釈をして、ペテロの存在そのものが岩になってしまわないようにと、ローマカトリックの解釈を避けようとしてきた。ところが、綿密に釈義をしていくと、イエスさまのことばは明らかにペテロが意識されていることから、近年では、岩をペテロの人格と関係づける解釈が一般的になってきた。これからそれを説明する。けれども、ペテロ及び教皇に至高の権威を与えてしまうようなカトリックの解釈は正しくない。

これからお話することを注意深く聞いていただきたい。18節を見ると、岩の用語が二つ使われている。「ペテロ」と「岩」に*マークが付いている。欄外註を参照せよ。「あなたはペトロスです。わたしはこのペトラの上に教会を建てます」。かつて、これまで、「ペトロス」と「ペトラ」の意味の違いが良く取り上げられてきた。「ペトロス」が石や小さな岩を意味し、「ペトラ」が岩山や岩盤を意味することができることから、石のペトロスが土台石とはならない、大きな岩であるペトラ、すなわちキリストが土台石なのだと解釈し、ペテロが土台石とならない根拠とされてきた。ところが、イエスさまの時代、「ペトロス」と「ペトラ」は交換して用いられることばであることがわかってきている。「ペトロス」と「ペトラ」の厳密な区別はできない。「ペトロス」「ペトラ」はごろ合わせになっている(ペトロスは「岩」を意味する女性名詞「ペトラ」を男性化した名前)。しかも原文の構造では、「ペテロ」という名前は「この岩の上に」の「岩」とは関係ないという文体にはなっていない。原文を直訳するとこうである。「あなたはペテロです。そして、わたしはこの岩の上に教会を建てます」。ペテロと岩が連動する文体になっている。さらに思い出していただきたいことがある。当時の日常会話用語はアラム語である。この時の会話もアラム語である。アラム語で岩は「ケパ」である(アラム語の正式発音は「ケーファー」)。「この岩の上に」はアラム語で「このケパの上に」となる。ご存じのように、ペテロのアラム語でのあだ名も「ケパ」である。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします(ヨハネ1章42節)。「ケパ」と「ペテロ」に*マークが付いていて、欄外註で、<*すなわち「岩」>と説明されている。覚えておきたいことは「ケパ」は「岩」しか意味し得ないことばであるということである。「ケパ」をギリシャ語化したのが「ペトロス」である。アラム語を当てはめてマタイ16章18節前半を訳すと、「あなたはケパです。そして、わたしはこのケパの上に教会を建てます」という文章になる。またイエスさまの会話の流れを見ても、17節で「バルヨナ・シモン」と呼びつつ、18節でわざわざ「あなたはペテロです」呼び変えて、岩の表現につなげている。様々なことを考慮すると、「この岩の上に」という場合、ペテロが告白した言葉の中身だけに限定して、本人のことを外してしまう解釈は難がある。ペテロの信仰告白とペテロの人格やペテロの使徒としての職務は切っても切れない関係にある。それを切ってしまうことに疑問を覚える。けれども、ローマカトリックが言うように、ペテロに独裁的権威、専制的権威を与えるのはまちがいである。

覚えておきたいことは、ペテロの16節の信仰告白は、15節からわかるように、十二使徒を代表してものであるということ。イエスさまは、「あなたがたは」と、十二使徒全員に質問している。では、十二使徒は教会ではどのような位置づけとされているだろうか。エペソ2章20,21節をご覧ください。使徒が教会の土台とされている。また参考まで述べると、黙示録21章14節では、完成した御国の城壁の土台石に十二使徒の名前が記されていることが書いてある。イエスさまが、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」と言われたときに、正しい信仰告白をもつ使徒たちを意識しておられる。教会はイエスはキリストと信じる使徒の宣教によって始まり、建て上げられていく。ペテロがクローズアップされているのは、ペテロは十二使徒の代表格、スポークスマンとして活動するからである。ペンテコステの日に、ペテロの説教によって教会が誕生したことは周知の事実である(使徒2章)。

強調するが、ペテロに至高の権威を与えてしまうのは間違いである。ペテロに与えられた権威が彼独特のものでないことは、マタイ16章19節と18章18節の対比でも明らかである。16章19節で「わたしはあなたに天の御国のかぎを上げます」とあるが、ローマカトリックはここから、天の御国のかぎはペテロだけに与えられたものと主張している。しかし18章18節をご覧ください。この節では「あなたがた」とあり、権威は他の使徒たちにも分け与えられたものであることがわかる。というよりも、この権威は教会に与えられたものである。このことは後で詳しくふれる。

16章18節に戻ろう。「この岩の上に」の「岩」とは何かを整理しよう。「この岩の上に」というとき、ペテロという人物を考えに入れないで済ますことはできないし、使徒という要素を切り離して見ることもできない。そして忘れてならないのは、使徒たちがどういう信仰告白をしたのか、ということ。イエスさまはそれを確認した上で、「この岩の上に」と言っておられる。「この岩の上に」というとき、使徒たちと彼らの信仰告白が結びついている。「イエスはキリストである」「イエスは神の救い主である」という告白がなければ、教会は成り立たない。整理すると、「この岩の上に」という場合、ペテロを代表する使徒たちとその告白した信仰の上に教会は建て上げられていくと言えるわけだが、この信仰告白が土台を揺るがないものにしているということを忘れてはならない。

次に、イエスさまが言われた「わたしの教会」という表現に心を留めよう。「わたしの」とは誰のことだろうか。教会とは、ペテロの教会ではない、ローマ教皇の教会ではない、「わたしの教会」である。だれか人間がオーナーとなるのが教会ではない。キリストが教会のオーナーであり、ビルダーであり、礎石であり、かしらなのである。「わたしの教会」、ここから「キリスト教会」と命名されるようになった。教会は人間が始めて人間が支配する組織ではない。教会はキリストの教会である。

「教会」という用語が新約聖書に登場するのは、実は、ここが初めてである。「教会」と訳されていることばは、ギリシャ語「エクレーシア」。ヘブル語は「カーハール」。それらは、「集まり、集会、会衆」を意味する用語。選民イスラエルは主の「会衆」<カーハール>と呼ばれてきた。また荒野で生活するユダヤ教の一派であるクムラン教団の人々は、自分たちこそが真のカーハールなのだと主張していた。しかしイエスさまは、新しいカーハール、すなわちエクレーシアを形成する。それは、イエスはキリスト、すなわち神の救い主と告白する者たちの集まりである。それが教会である。日本語訳の「教会」は、教える場所といったイメージを与えてしまい、良くない訳だったという話も聞く。何か勉強する塾といった印象を与えてしまう。「教会へ行ってくる」という使い方もするが、本来、教会は場所のことを意味していない。また「教会へ入る」というとき、教会を建物として認識しているが、教会とは建物ではない。教会とはイエスさまを神の救い主と信じる者たちの集まりを意味し、教会とは「私たち」なのである。私たちが教会を構成する一部である。だから、教会と自分を引き離し、教会のことをいろいろ言ってしまうとき、その人は教会のことを良くわかっていないと言われる。わたしが関東で牧会をしていたとき、自分を教会から引き離した態度で、教会はああだ、こうだと言って、皆がちょっと心配になった人がいた。ある時、わたしの隣にいた姉妹が、その人のことを意識してポツリとこう言った。「教会とは自分なのにね」。真実をついた一言だった。

教会は建物のことではないのだけれども、イエスさまは教会を建物にたとえて、「わたしの教会を建てます」と言っておられる。教会は今、建設途上である。だから、まだ未完成。壁、柱、窓、備品など、まだ足りないところがあるのは当たり前。建設途上でゴミも出る。建設途上の建物を見て、この建物、壁が無い、屋根がない、おかしい、と批判している人がいるだろうか。ペテロは教会の建築材料は私たちであると言っている。「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい」(第一ペテロ2章5節)。未完成の現状にあって、わたしが壁の一部になろう。わたしが窓になって光を入れよう、わたしが椅子になって落ち着きを出そう、わたしがごみを片付けよう。そのようにして建て上げていくのが教会である。

さて、教会は「キリストの教会」であるゆえに、力がある。「ハデスの門もそれに打ち勝てません」。「ハデス」とは「よみの世界、死の世界」を意味するが、死が教会を攻撃しても、教会には勝てないということ。教会の誕生日となるペンテコステの日に、使徒ペテロは、キリストは死に勝利されたことを語った。「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです」(使徒2章23,24節)。キリストを信じる者も死に勝利する。クリスチャンを殉教に追い込む者たちも、教会をハデスの囚人にすることはできない。教会、すなわち、私たちは、ハデスの囚人とはならず、天の御国の門をくぐり、キリストの花嫁となる。

では、この教会に与えられているものを19節から見よう。「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます」。「かぎ」とは多くの場合、日本の閂のような木で作られた物で、扉の開閉に使われた。「かぎ」は聖書において、扉を開ける人物の権威の象徴である。「わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない」(イザヤ22章22節)。閂のようなかぎは、肩に乗せて運んだが、そのかぎは家令や管理者の権威の象徴だった。19節から言えることは、キリストの権威は今、キリストの教会に託されているということ。ペテロやその他の使徒たちが死んでしまったら、このかぎは用をなさなくなったのではない。キリストの権威は、教会を通して行使される。具体的に言うと、「イエスはキリストです」と、ペテロとともに告白できる者たちは、人々を天の御国に入らしめるかぎをもっている、ということである。だからイエスさまは、大宣教命令において、「わたしは天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じられた(マタイ28章18,19節)。マタイ28章16節によると、この命令は使徒たちへの命令とされているが、もちろん、これは世々の教会が引き継いでいるわけである。

19節後半を見よう。「何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています」。天の御国のかぎを使うことが「つなぐ」「解く」ということばで説明されている。かぎを「かける」「外す」ではない。これはユダヤ教世界の術後で、「つなぐ」は「禁止」を、「解く」は「許可」を意味している。神の国に入ることを禁止したり許可したりする権威が与えられているということである。19節は明らかに、キリストの福音を伝えることによって神の国に入らしめるということが当然意識されている。現に、これを一番最初に実行したのがペテロである。ペンテコステの日にペテロは群衆に福音を伝え、現実のものとなった。

この19節から覚えておきたいことは、人々を神の国に入らしめる権威をもっているのは教会だけであるということである。教会は通常、いつの世も弱小団体のようである。世間の関心も低い。時代と場所によっては必要悪とされ、迫害もされてきた。けれども、天の御国のかぎは教会だけがもっている。これほど重要な存在はない。これほど世界にとって必要な存在はない。教会とはそういう存在である。私たちはこのことを覚えるときに、キリストの福音を伝えるという使命と責任がこの世に対してあることを自覚させられる。私たちの働きは小さなことではない。

20節は、教会の使命であるキリストの福音を伝えることと矛盾しているようにも見える。「ご自分がキリストであることを誰にも言ってはならない」。これは当時のキリスト観は、ユダヤ人の政治的リーダー、政治的解放者程度で、間違った理解に立っていたということがあるだろう。また弟子たちにしても、福音の中心は十字架にあるという理解には全く立てない段階にあった。まだ時を要した。この事については次週の21~23節の講解のときにお話したい。

今日、押さえておきたいことは、教会とはイエスはキリストと信じ、告白した者たちの集まりであり、それがキリストの教会であり、教会に対しては死も打ち勝てず、教会は天の御国のかぎを託されているということである。教会は世界に住む人々の命運を握っていると言っても過言ではない。私たちはその教会の一員である。神に選ばれた一人ひとりである。私たちはこの自覚に立って、主と教会に仕え、福音を宣べ伝え、人々を天の御国に招こう。