マタイの福音書の一つの山場が訪れた。16章13~28節は特別と言ってよい箇所である。なぜなら、イエスさまは十二弟子とだけ共にいる環境を用意して、彼らにのみ語っておられるからである。通常は民衆やパリサイ人たちもいるところで語っておられるが、16章13~28節は弟子限定である。ということは、キリストに従うことを願う弟子たちにとって、心して聞くべき大切な教えが語られる箇所であることを示している。弟子とはどういうもので、どうあるべきかを知る上で、マタイの福音書において最も大切な箇所と言っても過言ではない。よって、4回シリーズで、16章13~28節を丁寧に学んでいきたい。

今日、心に留めたいのは、15節のイエス・キリストの質問、「あなたがたはわたしをだれだと言いますか」である。この質問は、人生における最も大事な質問である。「イエスという人物は誰なのか、何者なのか」。この質問に対して、その答えは少なくとも10種類以上言われてきた。悪魔、天使、半神半人、人間、人間の中でも偉大な教師、預言者、ひどいのは、姦淫の罪を犯した男性、ペテン師。また近代に入ると、宇宙人。こうした空言に対して、聖書は、正しい一つの答えを指し示している。

聖書には私たちへの問いかけ、いろいろな質問が出てくる。それらはすべて、私たちに有益な質問である。私はまず、聖書において、人間に対する一番最初の質問は何かと考えてみた。そして確認した。聖書で一番最初の質問は、創世記3章9節に出て来る。「神である主は、人に呼びかけ、彼におおせられた。『あなたは、どこにいるのか』」。これが人間に対する最初の質問である。そして、これは、皆様一人ひとりに対する質問である。この後、聖書の各書では、「わたしに帰れ」という神のことばが何度も登場する。神さまは、「あなたはわたしのもとにいない。わたしから離れて生きている」と、そのことを問題にしている。神さまは、まず「あなたは、どこにいるのか」という質問を通し、人間としての自分の立ち位置を確認させようとしている。人間本来の生き方は、神とともに生きるということである。神から離れて生きるのは人間本来の生き方ではない。

けれども、私たちは神のもとに帰ろうとしても、神さまがどういうお方なのかを知らないでいては帰れない。人間は間違って、空想上の神や、石や木やきつねや蛇までも神さまにして拝んでいる。だから、まことの神とはどういうお方なのかを知らせてくださるお方が必要になってくる。それで、時至って、イエス・キリストが出現した。まことの人となられたまことの神としての出現である。

イエスさまは30歳になられてから、公けの働きを始められた。今日の場面まで、働きを始められてから約二年半が過ぎていた。約半年後に十字架に架けられることになる。イエスさまがこの時、滞在していた地は「ピリポ・カイザリヤ」(13節)。ピリポ・カイザリヤはガリラヤ湖北東40㌔メートルの地。そこはガリラヤ湖から520メートルも高い高地である。

イエスさまは、ここを滞在地の一つとして選ばれたのは、何よりも民衆から距離を保つために最適の地であったからである。ガリラヤ湖周辺では、どこに行っても群衆に取り囲まれる自体が発生した。ひと気の少ない所に行ったはずなのに、万の群衆に取り囲まれたことも二度ほどあった。さらに、敵対する宗教家たち、政治家たちが殺意に燃え、付け回していた。イエスさまには、時期的に、人々から身を引いて静まり、霊的に整えられることが必要であり、また弟子訓練に時間を費やす時が必要であった。天に帰られる時が近づいていたからである。そのような意味で、ここは最適の地であった。

イエスさまはこの地で、弟子たちに二つの質問をされたことが記されている。最初の質問は、「人々は人の子をだれだと言っていますか」(13節後半)。もちろん、イエスさまは、ご自分が一般民衆からどのようなことを言われていたかぐらい知っている。これは15節の「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」の置石となっている。イエスさまはまず「世評」を問うたわけである。イエスさまの人気をねたむ宗教家たちはひどいことを言っていたわけである。「ベルゼブル=悪魔」(12章24節)。でも一般民衆は好意をもって肯定的な評価を与えていた。それでも真実に達したわけではない。その評価、判断、意見というものが14節に記されている。まず第一に「バプテスマのヨハネ」。この人物はキリストより先に出現した預言者であるが、ガリラヤの領主ヘロデ・アグリッパによって殺され、この時点では生存していなかった。しかし、人々のうわさとして、イエスはバプテスマのヨハネのよみがえりだというものがあったようである。ヘロデ・アグリッパもそれを鵜呑みにしていたようである(14章1~2節)。

二番目は「エリヤ」。紀元前9世紀の預言者で、最後は生きたまま天に昇ったと言われている有名な預言者。預言書のマラキ4章5節では、メシヤが来臨する直前に、再びエリヤが遣わされるという預言がある。民衆もそれを知っていて、イエスさまがそのエリヤだと思った。実は、メシヤが来臨する直前に再び出現するエリヤとは、バプテスマのヨハネを指すわけだが、民衆はその理解までには至っていない。

三番目は「エレミヤ」。紀元前7世紀から6世紀にかけて活動した預言者。ある人たちはエリヤ以上にエレミヤを尊敬していた。聖書の外典である第二マカベア書2章にエレミヤの記述がある。イスラエルの国はバビロンの国によって壊滅状態になったわけだが、その際エレミヤは、モーセの十戒の板が入った契約の箱と香の祭壇を、ある山の洞窟に隠したという記述がある(大ヒット映画「失われたアーク」~失われた契約の箱を考古学者が探す物語の原型になっている)。こうした記述から、あるユダヤ人は、来るべきメシヤが来臨される前に、エレミヤが再び出現し、失われたアーク(契約の箱)を神殿に納めると期待していた。

四番目は「預言者のひとり」。これはイエスさまを新しい預言者と見ていたということではなくて、「昔の預言者のひとりが復活したのだ」という考え方である(ルカ9章8,18節)。これらの四種類の意見を統合してみると、民衆はイエスさまを、総じて、メシヤの先駆者とみなしていたということである。

実は、民衆は、イエスさまを、「この方こそ、預言されていたメシヤだ」と言って、イエスさまを祭り上げた時期もあった。けれども、自分たちの勝手なメシヤ観や宗教家たちの批評に影響されて、ちょっと期待していたメシヤとは違うなということで、イエスさまをメシヤの先駆者か立役者程度に格下げする者たちも出て来ていた。また、イエスさまの語ることばを誤解して、「これはひどいことばだ、こんなことばをだれが聞いていられよう」と言って、イエスさまのもとを離れる弟子たちも出てきていた(ヨハネ6章)。人々の評判はまちまち。好意的といっても、メシヤの先駆者止まりが多かった。そうした状況下での今日の場面。

イエスさまは、「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と、今度は弟子たちに問いかけられる(15節)。その答えと続くやりとりは20節まで続いているが、今日は16節の、十二弟子を代表してのペテロの答えまでを見る。「あなたは、生ける神の御子キリストです」。この答えが正解だった。「生ける神の御子キリスト」という表現について説明する。「キリスト」は名前ではなく、称号(タイトル)である。皇帝とか天皇も称号である。「キリスト」は「神の救い主」「メシヤ」を意味する称号である。「キリスト」という日本語訳は、聖書の原語ギリシャ語の「クリストス」の翻訳であるが、「クリストス」は、当時の日常用語であったアラム語「メシ-ハ-」のギリシャ語訳である。この「メシ-ハ-」から、「メシヤ」「メサイア」という、今日なじみのあることばが生まれた。もう少しことばの起源を遡ると、アラム語「メシ-ハ-」はヘブル語「マ-シ-アハ」の翻訳である。もともと、「メシ-ハ-」「マ-シ-アハ」は、「油注がれた者」を意味していた。旧約時代、神が人を王、祭司、預言者に召すときに、オリーブ油を注いで任職式が執り行われた。そして新約時代を迎える頃には、「油注がれた者」と言えば「来るべき救い主」を指すことばとして定着していた。そして来たるべき救い主こそ、真の王であり、預言者であり、祭司であるとされた。さらに、その救い主とは、彼らにとって神であることを意味していた。よって、「キリストです」という告白には「神の救い主です」という意味が込められている。

またペテロは、「キリスト」という称号の前に「生ける神の御子」と形容している。まず「生ける」ということだが、当時、ピリポ・カイザリヤでは、パンという名前の偶像の神が拝まれていた。よってこの地はもともと「パニアス」と呼ばれていた(今もこの地はアラビア語でパニアスと呼ばれている)。これは偶像崇拝の一例だが、こうした偶像の神々は死せる神にすぎない。これらと対比されるのが、「生ける神の御子キリスト」である。

「神の御子」という表現も説明しておこう。直訳は「神の子ども」である。ある人は「神の子ども」と聞いて、あれっ?と思われるかもしれない。なぜなら、聖書では、クリスチャンたちのことも「神の子ども」と呼んでいるからである。「しかし、この方(キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハネ1章12節)。私たち信者とイエスさまは何がどう違うのだろうか。実は、「子ども」を意味する用語は二種類ある。<ヒュイオス>と<テクナ>である。福音書ではすべて<ヒュイオス>をイエスさまのみに用い、信者にはより一般的なことばである<テクナ>を用いている(ヨハネ1章12節等)。私たち人間の場合は、男であれ女であれ、信仰によって養子とされることによって「神の子ども」なのである。この要点は、あらゆる信者が養子とされることによって相続権をもつということである。だが、イエスさまの場合は養子ではない。もともと永遠の昔から特別な独特の「神のひとり子」である、唯一の実子であるということである。すなわち、イエス・キリストは三位一体の第二位格の神であるということである。まことの神がまことの人となれた、それがイエス・キリストである。

しかし、キリストの人格を巡って、様々な偽りの教えが主張されるようになっていく。二世紀頃、仮現論と言われる見解が起こった。ドケチズム言うが、これは「~のように見える」という意味のギリシャ語「ドケオー」に由来している。仮現論は物質と肉体は悪、霊は善という二元論に基づいており、神さまが肉体をもつわけはない、肉体をもっているように見えただけだと主張した。この仮現論はグノーシス主義者の注目を集めた。またグノーシス主義者の中には、人間イエスにキリストの霊が宿ったのだと主張する者たちがいた。イエスとキリストを別々の存在にしてしまった。この見解は今の新興宗教の人たちやニューエイジムーブメントの人たちも唱えている。この見解に対して、使命をもって使徒ヨハネが手紙で反駁している。ほどなくしてアレイオスという人の見解が物議を醸しだすことになる。彼は、御子は存在しない時があった、御子はすべての万物に先だって造られた被造物であると主張した。これは異端として退けられた。未だにこの見解に立っているのがエホバの証人である。中世の初期にはアポリナリオスという人の見解が物議を醸しだすことになる。彼はキリストを神とする。またキリストは肉体をもっていたとする。では問題がないではないか。ところが彼は次のように主張する。「もしキリストが純粋に人間の精神をもっているとしたら、キリストは罪のないお方とはならなくなってしまう。人間の精神こそが、罪の源、神に対する反逆の源なのだから。キリストおいては人間のものである精神とたましいは、神の精神とたましいに置き換えられている」。彼はできるだけ、キリストから肉体以外の人間の性質を取り除こうとしてしまった。彼の見解について、ナジアンゾスのグレゴリオスは次のように述べている。グレゴリオスはキリストの神性と人性は結びついていることを述べた上で、「骨と神経と人間の容姿のみを救い主にまとわせるのは止めるがよい」と語っている。キリストは人間に扮装した神ではない。キリストは外側だけが人間ではない。キリストは人間の身代わりとなって贖いを成し遂げなければいけないわけだから、神であるとともに全く完全に人間でなければならないわけである。これとは正反対の、キリストを全く人間化してしまった誤った見方は、近代の自由主義神学に見られる。一例を挙げると、遠藤周作のキリスト観があげられる。キリシタン時代を扱った彼の代表作「沈黙」は今、映画化されて話題になっている。彼は聖書を誤りだらけとする自由主義神学に立つ。彼はイエスを奇跡など行えない無能な愛の人と捉える。イエスさまをただの人間にしているわけだから、もちろんキリストの復活も信じない。では、聖書のあの復活の記述をどう理解しているのかというと、イエスは死んで終わりだったけれども、弟子たちの心の中に復活したのだと理解する。今、死んだあの人はわたしの心の中で生きているという感覚。それを実際、復活したかのように記述したというのである。いずれ、キリストが神であることを認めないわけであるから、聖書の標準からすると異端である。その他にも、様々な誤ったキリスト観がある。イエス・キリストからは、神の性質も人の性質も、削ったり、取り除いたりしてはいけない。

もう一つ、キリスト教初期から中世まで広く受け入れられていたいびつなキリスト観をひとつ紹介しよう。キリストはまことの神にしてまことの人であることを否定はしていない。しかしながら、十字架において苦しまれたのは誰か?という問いに対して、おかしな主張がされてきた。十字架において苦しまれたのは人としてのキリストの部分であって、神としてのキリストではないという主張である。この主張が中世まで主流であった。キリストは神であると信じていた。にもかかわらず、十字架において神は苦しまないと主張していた。十字架の上で苦しんだのはキリストの人性だけだったと主張していた。なぜこうだったのか。神は苦しまないという異教の考えに影響されていたからである。「神は悲しんだり、苦しんだりしない。神は感情の産物ではない」。こうして神を超然とした堅い知性的な存在としてみなしていた。イエスさまは神を現す神として、目に見えるかたちでこの世に来てくださったのではないか。私たちはイエス・キリストを通して、神さまに対する偏見や、足りない見方、ゆがんだ見方を修正できる。キリストは神を現す神である。私たちの神観は大丈夫だろうか。まだ十分ではないと思う。苦しみに話を戻すが、神は苦しまないと言われ続けてきた時代ににあって、「苦しむ神」という表現をはっきり採ったのはルターが最初かもしれない。神は十字架の上で私たちを罪から贖うために苦しんでくださったのである。

今、ちょっぴり「キリスト論」について難しいことを述べてきたかもしれないが、イエス・キリストは神の救い主であるという告白に立っていだだきたいと思う。

私たちは、聖書のことばと真剣に向き合い、イエス・キリストとは誰であるのか、答えをもとう。この問いを中途にしておいてはならない。真剣に考えなければならない。世界中で話題となった「ナルニア国物語」の原作者、C.S.ルイスは次のように語っている。「わたしがこんなことを申し上げるのは、だれにせよ、キリストについてばかげたことを言うのをやめてもらいたいからである。ばかげたこととは、ほかでもない、世間の人々がよく口にする次のセリフである。『わたしはイエスを偉大な道徳的教師としてなら、喜んで受け入れるが、自分は神だという彼の主張を受け入れるわけにはいかないよ』。こういうことだけは言ってはならないのだ。単なる人間にすぎない者が、イエスが言ったようなことを言ったとしたら、そんな者は偉大な道徳的教師どころではない。彼は『おれはうで卵だ』と言ってきかない男と同類の精神障碍者か、さもなくば、地獄の悪魔か、そのいずれかであろう。ここであなたがたは、どっちを取るか決断しなければならない。この男は神の子であったし、今もそうだと考えるか、さもなければ、狂人もしくはもっと悪質なもの、と考えるか」。

イエス・キリストの言動は余りにも大胆であった。当時、神だけが許される宣言、あなたの罪は赦された、また、わたしを信じる者は永遠のいのちを受ける、わたしが道であり真理でありいのちである、そうした数々の言動は、もはや道徳教師の領域を飛び越えている。もしキリストが人間にすぎないのにこれらを語ったとしたら、キリストはうそつきのペテン師か、狂人か、それとも悪魔か、ということになるだろう。だが、そうでないとしたら、私たちはキリストをどう見なければならないのか。この問いに逃げてはいけない。キリストはわざにおいても、ご自身が誰であるのかを証明してきた。荒ぶる自然界を治める力、悪霊に対する権威、いやしのみわざ等を通して。

ユダヤ人たちがキリストを十字架刑に価すると判断したのは、キリストがご自分を神と等しい者であり、自分は神であるとしたからだった。自分を神とするものは死刑!それが当時のユダヤ社会の基準であった。けれども、キリストはこの十字架刑を人類を罪から救うための手段とされた。わたしは旧約聖書のヨブ記を読んでいたとき、「自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか」という神のことばを発見した(ヨブ40章8節)。人間は自己弁護によって、自分を正しいとするとき、それは神を罪に定めるようなものなのである。わたしが正しいか、神が正しいか、という問答の中で、わたしが正しいとするなら、神を罪に定めることである。けれども、これが世の常である。十字架でまさしく神のキリストは自分を正しいとする人間たちによって罪に定められてしまった。しかし、それを、おごり高ぶった私たち罪人を救うための手段と変えられた。キリストは私たちの罪の身代わりとなり、死のさばきを受けてくださった。ここに驚くべき神の愛を見るわけである。もちろん、罪に対する神の厳しさも見る。そしてキリストは三日目に死人のうちよりよみがえられた。それはご自身がメシヤであることの最大のしるしであった(16章4節)。キリストがメシヤであることの確証は他にもある。キリストのなした数々の奇跡、そして十字架の死と復活は、すべて旧約聖書に預言されていた。預言の成就という証拠は、キリストとは誰なのか、という問いをあいまいにさせない。

誰しもが、「わたしをだれだと言いますか」というキリストの問いに真剣に向き合わなければならない。「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白する者は幸いである。