今、危険な教えとして流行している一つのものは、「スピリッチュアリズム」(ニューエイジムーブメントの教え)。この人たちの人間観は、人間はレベルが低い天使、レベルが低い神。人間はもともと神の一部で、神性を宿しているのだから、この世とあの世で霊的進化を遂げていけるとする。神観としては創造主という概念は希薄。人間と神の区別は希薄。人間は神という大海の一部。だから、神に対する罪も、罪に対する裁きという概念もない。罪は軽視されるので、悔い改めは説かれない。自分はすばらしい存在であることに目覚めよ、神のようになれるというアプローチに終始する。神秘的体験も容易に肯定され、ご利益も肯定される。

現在、聖書を教典としながら偽りを許している教会も多い。聖書に並ぶ権威を認めたり、聖書自体に誤りがあることを認めるキリスト教教師が多い。聖書の完全霊感を口にしながら、実際は、聖書に誤りを認める人たちも数多くいる。教会の看板を掲げながら、聖書という神のことばに泥を塗っている人たちが数多くいる実体が、今のキリスト教界の現状である。パウロは遺言に等しい、最後の手紙となるテモテ第二の手紙4章3節で、こう警告している。「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれていくような時代になるからです」(第二テモテ4章3,4節)。今がその時代である。

イエスさまの時代、聖書を本当の意味で信ぜず、ゆがめてしまっていたのは、ユダヤ教のパリサイ派とサドカイ派だった。今日は、パリサイ派とサドカイ派について詳しく扱い、現代の私たちへの警告としたいと思っている。

サドカイ派はどういう人たちで構成されていただろうか。彼らは上流階級に属していた。具体的には祭司階級に属し、世襲制だった。今でいう貴族のような身分。彼らは、自分たちの身分の高さを鼻にかけていた。彼らは裕福でもあった。というのは、エルサレムの神殿で、いけにえにする動物を売ったり、両替したりする特権を有していたからである。彼らは神殿の利益で財を築いていた。

パリサイ派は身分は高くない。彼らは手工業に従事する中流階級の者たちだった(もとパリサイ派の使徒パウロは天幕作りをしていた)。彼らはワーキングクラスだった。けれども彼らは、学識の高さと徳の高さで尊敬を勝ち得ていた。「パリサイ」という名称は「分離」から来ていて、彼らは汚れから分離することに神経を払った。

パリサイ派とサドカイ派は教えの違いで対立していたが、実は、聖書に不忠実ということでは同じだった。指導層がこうであったので、民衆も偽りに引き込まれていた。これが、キリスト出現時の現状であった。次に、彼らの教えの違いを述べよう。

パリサイ派の教えの特徴は①律法主義。彼らは律法を厳格に解釈し、それを字義通り、細心の注意を払って守ろうとした。けれどもそれは人間の教えにすぎなかった。聖書そのものは「成文律法」という。聖書をユダヤ人の先祖たちが解釈したものを「口伝律法」と言う。15章2節の「言い伝え」がそれである。この聖書の解釈に基づいた教えが、いつしか聖書と同等の、いや聖書の上に君臨する権威をもつようになってしまった。「口伝律法」を守らない者は神のことばを犯す者とされるようになった。イエスさまによって彼らの人間的解釈は非難される。聖書の教えと矛盾している、聖書の教えを破っている、愚かな人間の教えに過ぎない、と指摘される。けれども、彼らは、伝統的教えを保っていると自負し、今のことばで言えば、自分たちは正統派なのだ、保守主義、根本主義なのだと自負していた。

②外面主義・儀式主義。彼らの「言い伝え」「口伝律法」は、どのようにふるまうべきかという外面の行いに強調が置かれるようになり、動作の細かな規定が編み出され、それに基づいて人を裁くことになってしまった。どうふるまうかという外面に重きを置かれてしまうようになり、彼らは内面の汚れではなく、外面的汚れ、儀式的汚れに細心の注意を払うようになってしまった(手を洗う等々)。心の問題、心の汚れはなおざりにされることになった。そんな彼らを、イエスさまは「偽善者」と何度も呼んでいる。

続いて、サドカイ派の特徴を挙げよう。サドカイ派の教えの特徴は、①自由主義(リベラル)。旧約聖書の中で彼らが権威を認めたのはモーセ五書だけ。預言書等は認めなかった。そして解釈は実にリベラル。具体的には、復活を認めない、死後のいのちは認めない、天使の存在も、その他の霊的存在も認めない、死後に裁きがあることも認めない。彼らは聖書を字義通り解釈しようとするのではなく、霊的に解釈してしまう。結果、聖書の重要な意味を見失ってしまった。彼らの解釈は今で言うところの異端の範疇に完全に入る。にもかかわらず、彼らは祭司の家系として、イスラエルに君臨する宗教指導者たちだった。異端が神殿を司っていたから驚きである。

②世俗主義。彼らは上流階級であることを利用して、その時代の政治的権力と結びついて、政治的影響力を行使しようとした。彼らの関心はあくまで現世のこと。彼らは富を崇拝していた便宜主義者たち、世俗主義者たち。彼らは富と特権を維持するために、この時代、進んでローマ政府に奉仕し、協力する人たちであった。この点においてもパリサイ人たちと異なっている。パリサイ人たちはローマ政府に対抗していた。パリサイ人たちが願っていたことは、メシヤが異邦人の支配を打ち破り、イスラエルから異邦人を追放し、イスラエルを神の国として回復してくれること。ローマ政府の手から解き放ってくれること。彼らはユダヤ民族の独立を願っていたナショナリスト(民族主義者、国粋主義者)たちであった。だがサドカイ人は権力に媚いる人たち。

さて、今日の本文に移ろう。パリサイ人やサドカイ人たちが、キリストを試みるために、みもとにやってきた。彼らは普段は仲のいい者たちではない。けれども、キリストに敵対し、キリストを殺したいということでは一致していた。「天からのしるしを見せてみよ」(1節)。ユダヤ人はしるしを求める民族性がある。彼らが望んだ天からのしるしとはちょっとした奇跡ではなく、メシヤしか行えないような驚くべき奇跡のこと。天から火が下るとか、天使群が突如現れるとか。イエスさまはこの申し出を拒み、しるしに関して二つのことを語った。一つは「時のしるしを見分けよ」ということである(2,3節)。天候に敏感な彼らだった。日本人もそうかもしれない。しかし彼らは時代の見分けに関しては鈍感だった。イエスさまはおっしゃりたい。「今までわたしのことばを聞き、わたしの数々のみわざを見ただろう。それで十分なはずだ。わたしの出現はメシヤ時代の到来の幕開けなのだ。旧約聖書のメシヤ預言に通じているのならば、わたしのしていることはメシヤのわざであることがわかるはずだ」。イエスさまの出現は天候に例えれば、夜明けの光、あけぼのの光の出現である。本来ならユダヤ人たちは、私たちが待ち望んでいた救いの夜明けが訪れた、と喜んで良かった。だが共通して、パリサイ人もサドカイ人も、イエスさまをメシヤであると認めようとしない。現代の人々も、それなりに時代の分析をする。コンピューターを駆使し、多くの情報を処理して。商業、経済、政治、教育、社会の傾向性・・・。けれども、霊的には鈍感で、キリストに心を向けず、時の見分けはできていない。

イエスさまがしるしに関して語ったもう一つのことは、「ヨナのしるしのほかには与えられない」ということ(4節)。ヨナについて詳しくは、旧約聖書のヨナ書を見よ。彼は海に投げ込まれ、大魚の腹の中で三日三晩過ごした男。死んだと思われていた。その男がニネベという都市に忽然と現れ、神からのメッセージを語った。イエスさまが話す「ヨナのしるし」とは、これから数カ月後の死に続く三日後の「復活」のことである。イエスさまが復活をメシヤのしるしとして語っておられることに心を留めたい。

場面は変わる。パリサイ人、サドカイ人を残して去っていかれたイエスさまは、弟子たちとだけ一緒になる場面を迎える。弟子たちはその時、パンについての議論を始めることになる(5~7節)。弟子たちは、あわてんぼうで食糧のパンを持ってくるのを忘れた。パリサイ人、サドカイ人を意識して早く去ろうと思ったからであろうか。イエスさまがパン種の話をした後、議論が始まった。でも何の議論をしていたのだろうか。忘れたのは誰の責任?どこからパンを手に入れる?そういうことも入っていただろうが、パリサイ人、サドカイ人のパン種の話も入っていただろう。「パリサイ人が焼いたパンは食べるなということなのかな。サドカイ人からパンをもらうなということなのかな」。もし、こういう会話をしていたら、弟子たちはみごとな勘違いをしていたことになる。パンがパリサイ人から来ようとサドカイ人から来ようと、異邦人から来ようと、そんなの関係ない。実は、この時代、ユダヤ人が警戒していたのは、異邦人の汚れがパンに移ることであった。ユダヤ人は旅をするとき、異邦人の汚れがついたパンを食べないように、パンを持ち歩く習慣があった。またかごにも工夫を施した。先週、ユダヤ人と異邦人が使うかごの区別について少しお話したが、もう少し詳しく話すと、五つのパンと二匹の魚の時に使用された14章20節の「かご」<コフィノス>は、枝編みのかごなのだが、口の小さいものが一般的であった。それには理由があり、異邦人の汚れがかごの中の食物に移らないようにと、わざと口を小さくした。ユダヤ人は異邦人の汚れにものすごく敏感であった。けれどもイエスさまはこの時、異邦人の汚れではなく、ユダヤ人のパリサイ人とサドカイ人のパン種に警戒するように告げている。新鮮な教えである。同時に、汚れはユダヤ教の指導者たちから受けるというわけだから、驚きの教えである。

イエスさまはこの時、パンを忘れたあわてんぼうは誰だとか、パンを入手するときはパンの製造元や販売元にこだわれとか、出先で手に入れるパンは汚れが移っているかもしれないから気をつけろとか、そういう次元のことを言いたいわけではない。イエスさまはとんちんかんな議論を続けている弟子たちに、ご自分のことばの意味を分からせようとしている(8~11節)。先ず、パンが有る無いのこだわりから議論が始まっていること自体、幼いということ。イエスさまは彼らを「信仰の薄い人たち」(8節)とまで呼んでいる。彼らはその年、主のあわれみにより、大群衆が二度にわたり、わずかのパンと魚で養われるという奇跡を目の当たりにした。主のあわれみ、養う力は変わらない。主は弟子たちを見捨てたりされない。養ってくださる。

弟子たちは、11節のイエスさまのおことば、「わたしが言ったのは、パンのことなどではない」で、「なぁ~んだ、俺たちの勘違い。イエスさまは、たとえて言われたのか」とようやく気づいた。

パリサイ人とサドカイ人のパン種の意味を探る前に、心に留めておきたい表現がある。イエスさまは11節後半で「パリサイ人やサドカイ人のパン種に気をつけることです」と、6節とほぼ同じことばを繰り返されている。6節では「注意して」ということばが加えられている。これは「良~く良く目を開けて」というニュアンスのことばである。パン種は小さくとも、練り粉に入ると、それを大きく膨らまし、影響力は大である。だから、変なパン種が入らないように注意深くなければならない。細心の注意を払わなければならない。奇妙な教えは少しでも教会に入れてはいけない。

では、細心の注意を払って入れるべきではない「パリサイ人とサドカイ人のパン種」は何かということだが、一般的に言われてきたことは、パリサイ人のパン種は「偽善」のパン種、サドカイ人のパン種は「世俗」のパン種ということである。そう受け取っていいだろう。ただ、マタイの文脈では、12節にあるように、「パリサイ人やサドカイ人の教え」と言われている。マタイの文脈では、彼らの「教え」に強調が置かれているようである。「教え」という観点からすれば、パリサイ人は一言で言えば「律法主義」となり、サドカイ人は「自由主義」となろうか。律法主義は「・・・すべからず」の人間が作った規則で人を縛り、それを守っていれば良し、と皮相的である。自由主義は「すべからず」ではなく、「何でもよし」で、世俗的幸福を求める。いずれにしろ、彼らの教えは共通して聖書から外れていた。そこが問題である。聖書の教えにかなっていない。弟子たちは生けるみことばであるイエスさまの教えに絶えず触れていたので、「彼らの教えに気をつけよ」と言われた時、パリサイ人、サドカイ人の教えのどこが異質か、ピンと来ただろう。

私たちはホンモノとニセモノを見分け、惑わされないために、ホンモノにいつも触れておくことが必要である。昨年、お札の印刷工場に潜入する番組を放映していた。職人さんのインタビューを聞いていると、やはり、本物のお札に触れていると、偽札はすぐわかるそうである。イエスさまの時代、パリサイ人を通して人間の教えに過ぎない口伝律法ばかりが強調され、それを教え込まされる風潮があった。それが神の掟であると言わんばかりに。今も、人の考えに過ぎない歪んだ神学を押しつけてくる人たちがいる。また聖書ではっきり啓示されていないことを教理として教え込む人たちもいる。それを教会で語り、本や雑誌やネットで流している。また、サドカイ人のように、復活も、死後のいのちも、天使などの霊的存在も信じないといった、合理的解釈を主張するリベラルな人たちも多い。さらに、当時のユダヤ人が全般的にそうであったように、しるし、不思議を求めたがる人たちがいる。光の幻を見た、天使を見た、奇跡を体験した、神の声を聞いたと、霊的体験を神の啓示と同じレベルまで引き上げ、体験に心奪われてしまい、一度体験するとクセになり、体験とそれに伴う心の陶酔を追求し、それがみことばと相反するかどうか、それが本当に神から来たものなのかどうかと、そこに心が向かなくなってしまう。判断能力を喪失してしまう。

イエスさまの荒野の誘惑の記事を思い起こすが、悪魔はイエスさまを誘惑する際、聖書の前後の文脈を無視して、しかもみことばを部分的に削って、イエスさまに突きつけてきた。これに従えと。悪魔も聖書を用いる。聖書の教えの歪曲である。聖書の教えの歪曲は、イエスさまの時代、イスラエル国内に蔓延していた。初代教会時代も、偽教師たちが多く教会に入り込んできた。ローマ人への手紙の終わりには偽教師への警告がある。コリント人への手紙第二には偽使徒への警告がある。「サタンさえ光の御使いに変装するのです」と言われている(11章14節)。ガラテヤ人への手紙では、ユダヤ主義者の偽教師にだまされないようにということが執筆の目的である。エペソ人への手紙の執筆するきっかけも偽りの教えが横行してきたからだと言われている。6章は霊的戦いを教える有名な章がある。ピリピ人への手紙3章にはユダヤ主義への警告がある。コロサイ人への手紙は神秘主義的な偽りの教えにだまされないようにということが執筆の目的である。テサロニケ人への手紙は再臨に関する偽りの教えへの警告が記されているが、世の終わりには「背教が起こる」ことが警告されている(第二テサロニケ2章2節)。「背教」とはキリスト教の堕落である。テモテへの手紙は偽教師の問題への対応が主な執筆事情である。テモテへの手紙第二はパウロの最期の書簡であり、パウロの遺言の書と言ってよいが、彼は最期の最期まで、偽教師に警戒するように諭している。ペテロの手紙第二も偽教師に警戒するために執筆されている。ヨハネの手紙は、ニューエイジムーブメントの源流であるグノーシス主義を反駁するために執筆された。ユダの手紙の執筆事情は偽信仰者の侵入である。新約の手紙のほとんどが偽りの教えにだまされないようにという目的で執筆されている。にもかかわらず、多くのクリスチャンが、多くの教会が、偽りの教えにだまされている。なぜ?

今も悪魔は、聖書のみことばを水増ししたり、削ったり、歪曲して誘惑してくる。そうした教えは、聖書の教えに似ている。しかし、似ているから恐い。似ているからだまされる。この似ているという事実の中に、実は大きな隔たりが隠されている。似ているでは済まされない毒が潜んでいる。聖書に注意深い人は、その不実な部分に、不純、偽りに気づくことができる。真理の大海に垂らされる一滴の毒を見分けることができる。

私たちはだまされないために、本物に日々触れて、注意深く、丁寧に読むことである。それを、デボーションというかたちで、また聖書通読というかたちでする。聖霊の助けをいただきながら、注意深い心で読む。神さまは何を言わんとしているのかと。イエスさまの時代、聖書をもっている人はわずかだった。印刷技術がなかった時代だから当然である。人々は朗読される聖書を拝聴する以外なかった。中世の時代もそうである。グーテンベルグの印刷技術によって聖書が印刷される前は、司祭レベルでさえ、聖書を読んだことがない人が多かったと言われる。そして教皇が権威づけた教えとか伝承といった人の教えを教え込まされた。また聖書はラテン語以外の翻訳は許されないというばかばかしい決まりをもうけられていて、自国語で翻訳しようとしたら極刑などという時代もあった。ラテン語を読める人は一部しかいない。民衆の識字率がきわめて低かったということもわざわいして、キリスト教国でありながら、聖書を知らないという人がほとんどだった。彼らは「神」「キリスト」ということばを口にしながらも、偽りの教えにたぶらかされ、また中世時代の迷信的な世界観にしばられ生きていた。だが、私たちは今、ひとり一冊を、自国語で読める。自分で聖書を読み、聖書を道しるべ、灯台とすることができる。生活の中で聖書を読むことに優先権を置こう。毎日、必ず、教えられようとする心で、祈り心で読もう。みことばは何と言っているのかと、みことばに聴くことである。時代の流行の教え、自分に都合の良い教えにではない。多数決で受け入れられている教えにでもない。それは滅びに至る大きい門に誘う教えかもしれない。世界大戦の前後は、聖書に誤りがあるとする神学が世界中の教会を席巻し、クリスチャンたちをぼろぼろにした。聖書をトッピングしただけの危険な教え、偽りを隠し味にしたホンモノに見まがう教えはいつの時代もある。ただ、純粋なみことばに聴くことである。そうすれば、危険な教え、偽りの教えは違和感をもって見抜くことができる。みことばがすべてである。みことばがいのちである。みことばが真理である。こののみことばをひたすらに慕い求めよう。

最後に、フランスの盲目の少女の話をしよう。彼女はマルコの福音書の点字本をいただいた。彼女は繰り返し繰り返し指でそれを読み、信仰をもった。彼女は聖書を熱心に読み続けたので、指が固くなっていった。それがわざわいして隆起した点字の小穴を感じる感覚が鈍っていった。けれども彼女はみことばを慕い求め続ける。やがて指先の皮がむけてしまい、神経がダメージを受けて全く読み取れなくなってしまった。彼女は、もう聖書を読むことができないと打ちのめされてしまった。彼女は点字の聖書に別れを告げる意味で、聖書を取り上げキスした。その時、彼女は、指先よりも唇のほうが鋭敏であることに気づいた。彼女の心は明るさを取り戻した。唇での聖書通読がこうして始まったのである。ハレルヤ!