イエスさまは私たちに「どれぐらいありますか」と問われる。私たちは今日の箇所を通して、可能性ということを信仰によって考えてみたい。今日の箇所は五つのパンと二匹の魚による五千人の給食の物語と良く似ている(14章13~21節)。似ているが、異なっている事がらもある。その辺りにも心に留めながら、今日の箇所を見ていこう。

この前の記事は、異邦人の地ツロとシドンでの物語(21節)。イエスさまはそこで、ユダヤ人とは犬猿の仲にあるカナン人女性にあわれみを示した。イエスさまは今日の箇所でも、引き続いて、異邦人にあわれみを示している。イエスさまはツロとシドンの地方を去って、ガリラヤ湖付近に戻って来られた(29節)。場所はどこかというなら、並行箇所マルコ7章31節から「デカポリス地方」であることがわかる。この地方はガリラヤ湖の東にあり、現代のゴラン高原の南にあたる。イエスさまの主な活動舞台であったガリラヤ地方とは湖を挟んで反対側。デカポリスは移民の町で、ユダヤ人もいたが、ギリシャ語を話す移民が多い。つまり異教徒の多い地域。ユダヤ人よりも異邦人が多い。五つのパンと二匹の魚による奇跡が行われた場所は、ガリラヤ湖の北でユダヤ人の地域。しかし、ここは東で異邦人の地域。場所、対象が異なっている。しかし、これから見ていくように、イエスさまのあわれみと御力は変わらない。

先のカナン人の娘のいやしと、今日の記事は、距離的なことからして、約1ヶ月の期間は開いていたと考えられる。もう少し短かったかもしれない。イエスさまはこの空白の期間、弟子訓練と祈りに専念しておられたのだろう。そして先の五つのパンと二匹の魚による奇跡の時からは、半年が過ぎていたとも考えられる。一年一昔と言われるが、弟子たちにとって、半年一昔となっていたかもしれない。

イエスさまはこの時、山に登り、この寂しい場所に座っておられた。でもイエスさまのうわさは広範囲に広がっていたので、誰かがイエスさまを見つけ、イエスさまがあそこにおられるぞ、ということばが伝わると、いっせいに広まり、イエスさまの周りにみるみる人が群がった。デカポリス近辺のあらゆるところから人がやってきた。遠い村からやってきた人もいるだろう。皆、急いで集まった。といっても、30節にあるように身体障害者も多かったので、彼らを連れて来るにはある程度の時間は要したはずである。30節で、「彼らをイエスの足もとに置いた」とある。「置いた」という原語の意味は「投げ出す」である。急いで投げ出すこと、けれどもぞんざいにではなく。投げ出すが乱暴にではなく。想像すると、大群衆で込み合っていて、イエスさまの前に障害ある人を連れていくのはたいへん。人の山をかき分けかき分け、イエスさまの前になんとか近づき、この人をお願いしますと、置くのがやっと、という雰囲気が伝わってくる。その障害者、病人の数は数百人が見込まれる。千人を超えていたことも考えられる。群衆の数自体は、38節の「女と子どもを除いて、男四千人」から、少なくとも1万人はいたと思われる。2万人と見積もることも可能である。そうした中に、障害者、病人が大勢いたわけである。いやされた彼らの喜びも想像してみると良い。足が動かなかった人はジャンプして喜んだだろう。目の見えなかった人は、目に映る新世界に感動して、そしてイエスさまを見て満面の笑みを浮かべただろう。口の利けなかった人は舌がほどけて、神を喜び、賛美しただろう。この場面において、助けてください、という願いの声と、喜びの声が交錯していただろう。また一般の人間の間でも、驚きの声と賛美の声が絶え間なく上がり、寂しいはずの場所はすごい事になっていた。

31節で、神をたたえるのに、わざわざ「イスラエルの神をあがめた」という表現になっているのは、この地は異邦人が多い地域で、集まっていた人も異邦人が多かったということを暗示している。イエスさまは無限に与えられる聖霊の力でいやしのみわざを行ったわけだが、イエスさまが行ったのはメシヤとしてのしるしであった。しかし、今日の場面で強調されているのは、イエスさまのあわれみの心である。

イエスさまのあわれみの心は32節にあるように、群衆全体に向けられている。集まってきた人々は一応、弁当はもってきていただろうか、おそらく予定より滞在が長くなってしまったのだろう。「この群衆は三日間もわたしといっしょにいる」と言われているので。群衆の中には遠い所から来た人もいたはずである。この人たちを空腹のまま帰らせたらどうなるのか。「途中で動けなくなる」。これは衰弱して動けなくなるということ。その可能性が大きかった。イエスさまは彼らを見て「かわいそうに」と言われている。このことばを別訳すれば「腸がちぎれる想いにかられる」である。これは、苦しみを和らげてあげたい、それを引き起こしている原因を取り除いてあげたい、という強い願いをもつ「深いあわれみ」を意味する用語である。

マタイの福音書を観察すると、イエスさまはこのあわれみの心を、人間の三つの状態に対してもたれたことがわかる。第一は、神のもとから失われているという人々の霊的状態に対してである(9章36節)。イエスさまは肉体をまとっている人の外見というよりも、その人の本質であるたましいの状態を見ておられ、腸がちぎれる想いにかられた。第二は、人々の肉体の病に対して(14章14節)。イエスさまは彼らの霊的状態とともに、肉体の状態を見てあわれまれた。腸のちぎれる想いにかられた。第三は、今日の場面で、人々の飢えに対して(15章32節)。イエスさまは、罪人には救いを、病人にはいやしを、飢えた人にはパンを、と心揺さぶられる思いの中で、対処しようとされたわけである。

弟子たちは、イエスさまのあわれみの心から来る発言を受けて、どのように対処しようとしたのだろうか。33節で、「こんなへんぴな所で」と、消極的反応をする。この時、群衆の数は、五つのパンと二匹の魚の奇跡の時より少なかったかもしれないが、食糧調達的には、さらに悪い環境であったと思われる。こんなところでは・・・、荒涼とした地で、付近に何もないような場所。彼らは、無理だと、常識的な反応をした。でも、同じ奇跡を期待しなかったのだろうか。最初のほうで、五つのパンと二匹の魚による奇跡があったのは半年前と言った。マタイ14章19節を見よ。群衆が座ったのは「草の上」とあるが、これは「緑の草の上」。この地方は暑いので、草が緑なのは春だけである。草はやがて日に焼かれ、熱風に焼かれて枯れ、やがて土だけが露出する。では、今回はどこに座ったのだろうか。15章35節を見よ。「地面にすわる」と訳されているが、これは「土の上にすわる」と訳せる。五つのパンと二匹の魚による奇跡は早春で、七つのパンと少しの魚による奇跡は真夏と考えられる。だから余計、空腹のままで帰ったら大変だと思わせられる。いずれにしろ数カ月前、半年前ぐらいの出来事を忘れるはずはない。記憶としてはあっただろうが、それが学習し切れていなかった。

弟子たちを良く理解してあげようという人は、「弟子たちは当然、五つのパンの時と同じ奇跡を主に期待したのだ。ただ33節の表現は、主に期待していたけれども、自分たちの人間の限界を表明したものにすぎない」と言う。けれども、弟子たちは本当にイエスさまに期待していたのだろうか。また、ある人は、五つのパンと二匹の魚の奇跡の後に群衆がイエスさまを王としてかつごうとした動きを見て、弟子たちは、「結局、民衆というものは自分たちの腹を満たすことしか考えないから、もうこりごり。イエスさまに同じことをやってもらうのはもうやめよう」と考えたと言う。でも文脈から、それはあり得ない。さらにある人は、もっとシビアに考える。群衆の多くは異邦人ということから、弟子たちはイエスさまに対して異邦人を養うことを期待しなかったとする。確かにここは異邦人の地、デカポリス。けれども、異邦人たちはイエスさまに何かをしてもらうに及ばないと、そうした理由付けは文脈の中では出ていない。むしろ、イエスさまへの期待が見えてこないのは、単純に信仰の欠けから来るものであると判断できる。マタイ16章5~12節では、弟子たちの間でのパンがない論争の記事があるが、そこからもわかる。そこでは、弟子たちはイエスさまに「まだわからないのか。五つのパンの奇跡を見たのに、七つのパンの奇跡を見たのに」と叱責されている。人は何度、神のみわざを体験しても、前はそうだったかもしれないけれど、今回は、と思ってしまうもの。弟子たちといえども、一朝一夕では信仰が成長しなかった。

イエスさまは34節で「どれぐらいパンがありますか」と聞いておられる。「七つです。それに、小さい魚が少しあります」という答えが返ってくる。続いて、イエスさまは群衆を地面に座らせるよう指示する(35節)。一グループあたり100人構成でグループを作らせて座らせれば、十二弟子で、一人あたり10グループ程度担当すれば配給できる。そのようにグループを作らせ、配給をすみやかなものにしようとされたのであろう。

次に36節にあるように、イエスさまは全体の家長として、食前の感謝の祈りを捧げる。それはパンと魚を祝福する祈りでもあった。弟子たちは祝福されたパンと魚を配給する。それは37節にあるように、少しのをちぎって分け合うということではなく、皆が思う存分、満腹になるまで食べられるほどあった。さらに、「パン切れの余りを集めると、七つのかごにいっぱいあった」。「七」という聖書の完全数が何度も登場するのは意味深長である。人間の側としては、こんなわずかなもので、貧しいもので、と思ってしまう。しかし、主にとって、それで十分で、完全なみわざをされる。

小さなことだが、パンの配給に使った「かご」にも触れておく。かごは五つのパンの奇跡の時も使った。しかし、かごの種類が違っている。14章20節を見よ。ここで「かご」と訳されていることばは、原語で<コフィノス>。このかごは、小枝で編んである硬めの籠で、ある訳は「枝編み籠」と訳している。それに対して15章37節の「かご」は原語で<スピュリデス>。コフィノスより柔らかく、麻のようなものでできていて、ある訳は「手提げ籠」と訳している。人間が入るくらいの大きさで、異邦人が良く使っていたかごである。このように、場所も対象も、配給に使ったものも違っていた。けれども、イエスさまは、深いあわれみの心で、同様なみわざをされたのである。

今日、中心に置きたいみことばは34節である。イエスさまは弟子たちに尋ねられた。「どれぐらいありますか」。主はいつも「どれぐらいありますか」と聞かれる。私たちは無いものに目を留めてばかりいるのではなく、神さまが恵みによってすでに与えてくださっているものを数えあげ、感謝をもって「七つあります」と答えよう。みわざはそこから始まる。次に、それをイエスさまに期待して明け渡すことである。わずかなもの、取るに足りないものを使ってみわざをされる主の栄光を拝するためにである。

私たち自身がわずかなパンとわずかな魚である。私たちの持てる能力も、その他の資源も。けれども、それを明け渡し、祝福していただくときに、主の栄光を拝することができる。主は私たちに問われる。「どれぐらいありますか」と。本当にどれぐらいあるか、考えてみよう。それがわずかでも用いていただけるのである。それを主に明け渡し、祝福していただき、主のみわざを拝そう。今は荒野の時代と呼べる時代だが、荒野の時代でも、いや、荒野でこそ、主のみわざを拝することができる。主は私たちを通してみわざをなしてくださる。ご自身の栄光を現してくださる。 先週の「食卓の子犬」の物語同様、わずかなものを用いてみわざをされた今日の物語も、私たちの人生ストーリーに変えていただこう。