今朝は、りっぱな信仰をもつ女性に光を当て、新しい年を歩んで行く上での模範としたい。「あなたの信仰はりっぱです」(28節)は、「あなたの信仰は偉大です」と訳すことができる。すばらしい評価をイエスさまにいただいた。この信仰は、薄い信仰に対して厚い信仰、弱い信仰に対して強い信仰、あきらめやすい信仰に対して粘り強い信仰、小さな信仰に対して大きな信仰、そうした要素をすべて含んでいると言えよう。彼女は聖書の表舞台から外れている異邦人の女性。だが、ユダヤ人も見せなかったような信仰を見せた。ペテロなどは14章31節で「信仰の薄い人だ」と言われてしまっているが、彼女の場合はベタほめである。実は、イエスさまに信仰をほめられたのは、彼女で二人目である。一人目はやはり異邦人で、百人隊長。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちだれにも、このような信仰は見たことがありません」(8章10節)。

では、今日の物語を見ていこう(21節)。イエスさまが立ち退かれたツロとシドンの地方とはカナンの地である。これは興味深い記録である。なぜなら、イエスさまがユダヤ人が住むパレスチナ地域以外に出られたのは、この一回だけだったからである。この行動をとられた理由は、十字架の最後の時を前にして、静まる時間と場所の確保である。前に見た五つのパンと二匹の魚の奇跡が行われた場所は、もともと寂しい所で、イエスさま一行が静まる場所として向かった地域だった。けれども、そこに万の群衆が待っていた(14章13節)。おそらく、ユダヤ人が住むパレスチナにいる限り、どこにいても群衆は追って来るはず。またこの時、政治的には、バプテスマのヨハネを殺した領主のヘロデの目も光っていた(14章1,2節)。宗教的には、エルサレムから、敵対心に燃えた律法学者やパリサイ人たちが派遣されているという状況(15章1節)。イエスさまが主に活動していたガリラヤ地方には静まれる環境はないし、その近辺のユダヤ地方も同じ。イエスさまは弟子たちのためにも静まる場所を求められた。十字架の時を前に、イエスさまが力を注ごうとされたのは、弟子たちを教えること。イエスさまはひとりになることも必要だったが、弟子たちを教えるために、弟子たちとだけ過ごす時間も必要だった。そこでイエスさま一行は、ガリラヤを通り抜けて、北にあるツロとシドンの地方に立ち退かれた。

ツロとシドンは、古代カナン人の子孫が住んでいる地。旧約聖書を見れば、カナン人は忌むべき偶像崇拝をしていたことと、イスラエルとは敵対関係にあって、イスラエルを堕落に引き込んだこともしばしばあったことが記されている。非常に印象の悪い地。ユダヤ人はカナンの地に足を踏み入れることを非常に嫌った。この地まで、ユダヤ人の群衆が来ることはありえないし、ましてや、律法学者やパリサイ人たちが来ようはずもない。汚れた地ということで、そこの土を踏むことさえ嫌った。

歴史書には、ツロの住民はユダヤ人に憎悪を抱いていた、という記録も残っている。ユダヤ人の歴史家ヨセフスは語る。「フェニキヤの中でもツロの住民は、我々に激しい憎悪を示している」。けれども、ツロとシドンというときに、良いイメージも脳裏に浮かんで来る。神さまは、シドンのやもめが預言者エリヤを養うように導かれた(Ⅰ列王記17章8~24節)。新約聖書はいよいよ異邦人の救いに積極的に光を当てる。ツロとシドンは、現代ではレバノンの南辺りに位置している。

この地方で、イエスさま一行は、叫び声をあげてついてくる母親と出会う(22節)。どうやら、イエスさまのうわさは、異邦人の地にまで流れていたようである。彼女の子どもは重病で、悪霊につかれていたようである。彼女は叫び声をあげて、また何度も叫び声をあげてついていったようであるが、彼女のふるまいは、現代からすれば、不作法にも見える。けれども、古代地中海沿岸の諸国ではそうでもない。当時の裁判などはいいかげんで、貧しい者が損をすることが多かった。法は自分たちを守ってくれない。そこで彼らは、執拗に、死にもの狂いで食い下がるという手段に出た。ルカ18章に登場する「やもめと裁判官のたとえ」のやもめもそうである。裁判以外の事でも、法や人に頼っていられない文化においては、食い下がるということが有体だった。私たちもそういう根性が必要なときがある。また、この場合の母親の必至さは、娘への愛を物語るものである。

イエスさまは、叫びながらついてくるこの母親に対して、無言の姿勢をとる。それは彼女の信仰をテストするという意味もあろうが、現実的な理由が24節に記されている。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。イエスさまの働きはこの段階でイスラエルだけに限られていた。まだ異邦人宣教の段階にはない。異邦人宣教の段階は、キリストがよみがえられ、天に挙げられてからである。キリストはよみがえられた時に、弟子たちに対して、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と大宣教命令を与えられた(マタイ28章19節)。イエスさまはこの時、地上におられる間のご自分の働きの範囲を告げておられる。でも彼女は、イエスさまのこのことばを聞いてもあきらめない。

彼女は作戦を変えた(25節)。彼女はイエスさまのあとから叫び声を上げてついてきたわけだが、あとからついて行ってもだめだと判断すると、今度は前に来て、とうせんぼして、ひれ伏して懇願した。するとイエスさまの応答は変わった。口を開かれる(26節)。イエスさまは、母親を非難することは言わない。けれども、願いを聞いてやろうとも言わない。はぐらかしているような返答である。彼女の求めに対して、しぶっているようにも思える。もちろん、これは、彼女の信仰をテストする要素はあるだろうが、イエスさまは彼女に対して、ご自分の働きの対象、範囲、制限というものを、まずちゃんと理解させようとしたことは事実である。理解させた上で、彼女が信仰を働かせる道を与えている。それが、イエスさまのことばからわかる。

イエスさまはここで、彼女にも理解できる比喩を用いている。「自分は<子どもたち>、すなわちユダヤ人を養うために働いているのだ」。そう言いながら、家でのペットである「子犬」に言及して、彼女の様子を見ることをされた。というのは、「子犬に投げてやることは良くないことです」という表現は、彼女の求めを100%拒絶した表現にも思えるが、そうではないということ。ここで「小犬」と訳されていることばは、ただの犬のことを意味しない。「犬」の場合は、侮辱することばにしかならない。「犬」というとき、それは、道に捨てたごみをあさり歩く不潔な動物で、気が荒く、病気持ちであることが多い「野犬」のことを指す。人を侮辱するときにこのことばを使った。イエスさまが使った「子犬」ということばは、「家で飼うペット犬」のことで、家族同様に扱われ、養われた。イエスさまはこのことばを使うことによって、「あなたは浮浪犬としては扱われない。あなたには可能性がある」ということを暗示させている。彼女がほんとうに信仰をもっているのならば、「子犬」という表現から、まだ自分にもチャンスはある、と気づいて、「子犬」ということばを恵みを受ける踏み台に変えてしまうことができた。そして彼女はみごとにそれをやってのけた。「子犬か~」ではなくて、「子犬なんだ」と受けとめて、まだチャンスはあると食い下がった。

「主よ。その通りです。ただ、子犬でも食卓から落ちるパンくずはいただきます」(27節)。彼女は、ユダヤ人が優先ということを理解した上で、子犬がもらえる恵みを待ち望んだ。彼女は思った。「わたしが子犬というのはその通り。そして子犬であるわたしの主人はイエスさま。わたしはイエスさまのペットでいい。イエスさまという主人はペットの子犬を大切に養ってくれるはず。見捨てない。子犬の恵みに与ろう。それがおこぼれのパンくず程度であったとしても、娘が救われるには十分なもの。わたしはイエスさまの愛と力を信じる」。彼女のことばには、イエスさまという人格と力への信頼の厚さがある。

カナン人は偶像崇拝、魔術を行っていたが、彼女はイエスさまを魔術師として見てはいない。悪霊につかれているなどというと、人は魔術師のところに連れていったものである。彼女はイエスさまを偉大な魔術師と見ていたのだろうか。そうではないことが、彼女のことば、一連の行動、あきらめない執拗さ、謙虚さ、信頼といったものに表わされている。彼女は22節で、イエスさまを「ダビデの子よ」と呼んでいる。これは来たるべきメシヤに対してユダヤ人が使う呼称で、「救い主」を意味をする。また世界に君臨する「王」を意味する。彼女はその認識に立って、ユダヤ人顔負けの信仰を見せた。

彼女の信仰は最終的に「子犬」ということばで試された。もし信仰が無かったり、不遜な者であったりしたら、「子犬」を悪いイメージにとって、いじけて、イエスさまに食い下がることをやめたであろう。「ああ、わかりました。二度と頼むもんか」と。けれども、彼女は「子犬」を家族同様にみなしてもらえる愛玩具、養ってもらえるペット、しかもイエスさまのペットなら嬉しい、イエスさまの子犬なら望みがあるという立ち位置で応答した。私たちは、子犬の主人がイエスさまなら、その子犬はどんなに幸せだろうという見方ができる。イエスさまはこの一年後、子犬である彼女のためにも十字架の上で命を捨てることになる。この十字架によって、罪の赦しと永遠のいのちと、神の子となる特権が与えられることになる。イエスさまが与えようとしたのはパンくずどころではない。彼女はもちろんこの段階で、イエスさまの十字架に考えが及んではいない。しかし、今日の場面にとどまって考えるだけでも、イエスさまの子犬であること自体、特権であり、恵みであると知る。私たちは自分たちが羊にたとえられようが、子犬にたとえられようが、そんなに大差はない。イエスさまが主人であることにおいて変わりはない。私たちは、日々すばらしい飼い主とともに生きることができる。

彼女の信仰に対するイエスさまの応答に目を落とそう。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願い通りになるように」(28節前半)。彼女のりっぱな信仰を整理してみよう。先ず彼女は、イエスさまがどういうお方なのかということについて、完全に知っていたわけではないけれども、イエスさまをメシヤとして信じる信仰があった。そして、自分は本来、イエスさまの恵みに与れるような者ではないという謙虚さがあった。しかし、イエスさまという主人は子犬を養ってくださるという偉大な信頼を見せた。もちろん、イエスさまには悪霊に打ち勝つパワーがある、イエスさまにはできるという意味での信じる力もあった。こうしたことが総合されて、彼女はあきらめない粘り強い信仰を発揮した。そしてパンくずをいただくことになる。

「すると、彼女の娘はその時から直った」(28節後半)。この受けた恵みは、実際はパンくず以上の恵みである。そして、時にこの節でコメントされるように、この母親自体が救いに与ったと思われる。

さて、私たちは、今日の物語を観察して終わりではもったいない。イエスさまは、マタイ7章7節において、「求めなさい。そうすれば与えられます」と言われているが、私たちも実践しよう。今日の物語を、皆さんの人生ストーリーに変えていただきたいと思う。そのために、この母親の信仰の大切なポイントを押さえて終わりたいと思う。このカナン人の女性が粘り強く食い下がることができたのは、娘を直してやりたいという親心が人一倍強かったから、ということでは済まされない。親心だけではここまで粘れない。また彼女の気性に帰してしまうこともできない。大切なポイントは、イエスさまの子犬の立場に自分の身を置いたということ。これが今日の物語のカギを握ると思う。主人を信頼し切っているペットのような信頼があった。南極に取り残された太郎と次郎の物語や、忠犬ハチコウの物語を思い出す。つまり、主人イエスさまという偉大な人格への信頼の厚さがすべてを生み出すと言って良い。

私は以前、この物語を読んでいた時は、ひたすらに、あきらめちゃいけない、がんばらなくちゃいけない、ねばらなくちゃいけない、と受け取っていた。私たちのあきらめない根性にすべてがかかっているかのように。そして、がんばれない自分は信仰が足りないと受け取ってしまう。でも、根性を越えたものがこの物語にはある。私たちは自分のがんばりではなく、その目を主人イエスさまに向けなければならない。主人に対して信頼があるならば、表現としては、遠慮のなさ、大胆さ、あつかましさになるかもしれない。逆に信頼がないのならば、それは、主人と距離を置くことになり、警戒心や遠慮、あきらめの早さにつながってしまう。イエスさまの子犬の立場に身を置こう。イエスさまの愛に、またその力に信頼を置こう。それが安定と安心をもたらす。動揺を消し去る。このイエスさまへの信頼は、私たちが求め続けるエネルギーとなり、時至って、その願いはかなえられることになる。