新年おめでとうございます。年の初めに、創造主である神をともに礼拝して新しい年をスタートできる幸いを感謝します。造られたすべてのものは神の御手の中にあり、すべてはこの神の恵みによって成り立ち、生かされている。イエスさまは、「空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれどもあなたがたの天の父が養っていてくださるのです」(マタイ6章26節)と言われた。小鳥一羽もこのお方のご支配からもれてしまうことはない。また旧約聖書の詩編には「神は雲で天をおおい、地のために雨を備え、また、山々に草を生えさせ、獣に、また、鳴く烏の子に食物を与える方」(詩編147篇8~9節)とある。神さまは生けるすべてのものに関心を注ぎ、私たちのことも覚えて、養い、導いてくださるお方である。今朝は創世記1章1節から、神さまの偉大さを見て、このお方はまことに信頼できるお方であることを学び、新しい年を踏み出したいと願っている。

聖書は旧約聖書と新約聖書から成り立っており、天地創造の記述で始まり、歴史の終焉と、新天新地の到来の記述で終わっている。創世記1章1節はその一番最初の記述である。「初めに、神は天と地を創造した」という短い一節だが、多くの情報を私たちに与えてくれる。今朝はこの一節に集中して、教えを受けたい。最初に、この一節から五つの否定できる事柄を見てみよう。第一に、物質の永遠性を否定している。この節は、物質に始まりがあったことを教えてくれる。古代から信じられ、東洋の宗教でも長らく言われてきたのは、物質は永遠の昔から存在していたというもの。ほとんどの人が近代になるまでそう信じてきた。でも、聖書のこの節から、物質に始まりがあったことを教えられる。科学の発達もそれを証明した。物理学等の発達によって、今や、宇宙には始まりがあり、物質は存在しない時があったというのが宇宙の起源の定説になった。科学の発達は聖書を否定するのではなく、逆に聖書が正しいことを証明してくれる。物質には始まりがあった。宇宙には始まりがあった。始まりもなく終わりがないのは神だけである。私は青年の時、宇宙が存在する以前に何があったのかなと思い巡らしていた事があったが、この節は永遠の神の存在を暗示している。永遠の昔からおられたのは神であり、この永遠の神が無から有を創造された。

第二に、無神論を否定している。聖書は、宇宙とその中にあるすべてのものが、何の意図もなしに偶然の連続で誕生したとは言っていない。神さまという偉大な人格者による創造を証している。神は無から有を創造されたお方である。日本人が得意とするのは、すでにあるものをどうやって再加工するのかということであるが、神は全く何も無いところから、天と地を創造された。「天と地」という表現であるが、これは旧約聖書の原語のヘブル語の用法で「メリスムス」と言い、対極にあるものを並べることで、その中のすべてのものを示す用法。天と地が対極関係にある。ここで言われていることは、宇宙とその中にあるすべてのものは神が創造されたということである。1章ではそのクライマックスとして人間の創造の記述がある。ニュートン、コペルニクスを始め、多くの科学者が宇宙を観察して、分析して、神の存在を信じる者となった。世界の成り立ちを研究すればするほど、偶然でこの世界ができたとは考えられなくなった。ある科学者たちは「神」という用語は使わないまでも、知性をもつ大いなる存在によらなければ、この世界は存在しえないと信じるようになった。創造主なる神を全知全能の神と表現することがあるが、計り知れない知性と能力をもったお方が全宇宙を造られたことを、聖書ははっきり証言している。私たち人間も神の創造のわざである。もし、無神論が真実で、人間も偶然の産物というのなら、人生の目的とは何か?とか、人の生きる意味は?という問い自体意味を為さない。もし偶然の産物なら、人生に意味などない。無意味、無目的に生きるしかない。けれども、神が目的をもって私たち人間を創造されたと知れば、私たちは神と人とのために生きるという目的が生まれ、互いの価値にも気づくようになる。同志社大学を創設した新島襄が、この聖書の最初に一節に感動して、「これだ!」と神を信じ、教育の道に進んだことは有名な話である。

第三に、多神教を否定している。「多神教」とは、多くの神々の存在を認める教えである。日本では古代から水を拝み、太陽を拝み、山を拝み、大木を拝み、岩を拝んできた。そして死人を神として祀り、拝んできた。そればかりか動物も祀って拝んできた。いわゆる八百万の神々を拝んできた。聖書は全宇宙を創造した神だけがまこと唯一の神であると教えている。確かに神々と呼ばれるものはたくさんあるが、それらは天と地を創造した存在ではない。「神」と訳されているヘブル語<エロヒーム>は、「力」ということばの複数形。<エロヒーム>は力に満ちておられる方ということで、全能の力を保有する創造主であることを伝えている。このお方だけが神である。

第四に、汎神論を否定している。「汎神論」とは、万物すべてが神であるとし、神と万物に区別を設けない教え。わかりやすく述べると、すべてを神とする教え。水の豊かな日本では、神は最初、水の姿を取られたと信じた。だから古来より日本人は「水神」を丁重に祀っている。そして山にも大木にも大岩にも神の霊が宿っていると信じた。だから礼拝の対象としてきた。汎神論の世界では神の数は無数に増えていく。神はすべて、すべては神とみなすからである。万物は神の化身とみなすので、動物も人間もみな神とみなされていく。そこには創造主と被造物を分けるという考えはない。仏教、神道に大きな影響を与えてきたインドの宗教にバラモン教がある。バラモン教は今のヒンズー教であるが、東洋の宗教の基本的な神観を有している。バラモン教は汎神論に立つが、神が世界を創造したのだという表現を一応使う。ブラフマン(梵天)が宇宙の創造神であり、宇宙の本源であり、絶対神であると主張している。しかし、この創造神は、聖書が説く創造主とは違っていて、創造神であるブラフマンから、分化していって色々なものができていったとする。つまり、世界はブラフマンの分身で、やはり神の一部となる。神と万物は一体であるという教えである。だからブラフマンの分身であるものは神々として信仰しようということになり、神々の数は一千万を越えていく。バラモン教は神道と同じく、水による清めを教える。皆さんもテレビ番組で、人々がガンジス川で沐浴している光景を見たことがあるだろう。あれはただ身体の穢れを洗い流しているだけではない。心の穢れや罪を清めようとしている。ガンジスの水そのものが信仰の対象なのである。水によって清まるとは神によって清まるという信仰なのである。また以前、北欧を紹介するテレビ番組を見ていたら、土着の民族の方が大地を崇拝していた。これも汎神論の神観から来ている。自然は神であり、神は自然という神観である。世界の宗教は、この汎神論に立つか創造論に立つかのどちらかとも言えるだろう。聖書では、この世界は神の分身ではなく、神の創造の作品であると教えている。私たちは造られたものではなく、造り主を礼拝しなければならないのではないだろうか?私たちは、このお方の恵みによって生かされている。それを一日たりとも忘れてはならないと思う。造られたものではなく、造り主こそ、とこしえにほめたたえられなければならない。

第五に、不可知論を否定している。「不可知論」というのは、この場合、神の存在など知ることができないというもの。果たして、神の存在を知ることはできないのだろうか。目に映る自然界を注意深く観察すれば、また人間のからだの成り立ちを観察するだけでも、創造主であり、造り主であるお方の存在を認めることができるはずである。最近、テレビで人工知能が話題になっている。人間の脳に近づいたコンピューターを生活に取り入れようという話題である。人口知能は数学的思考は強いけれども、まだ人間の脳と比べるとかなわないと報じられているが、このコンピューターを偶然の産物と信じる者がいるだろうか。ではコンピューターよりはるかに高性能な脳をもち、はるかに高性能な器官をもつ人間や、驚くべきメカニズムをもつ動植物等は、なぜ偶然の産物と言えるのだろうか。もし偶然でないとするなら、誰が働いているのだろうか。ローマ人への手紙1章20節では「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきり認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」と言われている。また同1章22,23節では「彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました」とある。神の存在は、被造物によって知られ、はっきり認められる。イザヤ書40章26節にはこうある。「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」。神は目に見えないから信じられないという方がおられるが、神は全宇宙を創造されたお方であるから、当然、その存在として宇宙より大きい。天も天の天もお入れできるお方ではない。存在において無限に大きい。存在において無限、だから見えない。ここからここまでというお方ではないから。しかし見えないからといって存在していないということにならない。見える被造物を通して、ご自身の存在を証しておられる。また神は見えるお方となって、人となって、約二千前、ご自身を啓示された。それが先週お祝いしたクリスマスであり、キリストの降誕である。その事実は聖書に記されている。私たちは聖書を通して、また自然界を通して神を知ることができる。私はクリスチャンになって、空に舞う鳥を見るだけで、生ける神の存在と愛を感じることができるようになった。野に咲く花を見るだけで、真の芸術家である神の存在を感じることができるようになった。また、この神が日ごとに自分を生かしてくださることを覚えるようになった。私たちは、「初めに、神が天と地を創造した」を本気で信じるなら、価値観、世界観は変わってくるはずである。国々はたくさんあって、そこでたくさんの神々が拝まれているが、神は天と地を造られたお方だけであると分かって、このお方にだけ寄り頼むようになる。この神とともに生きることを願うようになるだろう。また神が造られたすべてのものをいつくしむようになるだろう。被造物を正しく統治し管理する責任というものを覚えるはずである。さらには、この偉大な神の前に謙虚に生きようとするであろう。

最期に、天地創造の神の力が私たちの人生と心に働いてくださることを覚えよう。私たちは、自分の弱さをしばし覚えることがあるが、天地を創造された神のダイナミックなエネルギーに期待することができる。神には不可能はない。神の創造の力は目に見える世界から、目に見えない心の世界にまで及ぶ。人生の諸相にも及ぶであろう。私たちはちっぽけな存在だが、この神の力を待ち望み、期待していくことができる。

イザヤ書40章21~31節を朗読する。お開きください。創造主なる神は25節で「わたしを、だれになぞらえ、だれと比べようとするのか」と問いかけておられる。私たちは目を高くあげて、神が創造された世界を見渡そう。このお方は28節で「主は永遠の神、地の果てまで創造されたお方」と、力に満ち、エネルギーに満ちたお方であることが紹介されている。皆さん、どうぞ、地の果てまで創造されたと言われるこの神の力を待ち望み、新しい一年を歩んでください。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(31節)。「鷲」は鳥の王者で、強さと活力の象徴。私たち人間は走ると息切れし、歩く元気も失ってしまうことになりやすい。心も萎んで動けなくなってしまう。けれども主から新しい力を得、大空高く飛び立ち、目は鋭く遠くを見渡し、力強く羽ばたく鷲のようになることができると言う。カギは、創造主であり、全能者である主なる神を待ち望むことにある。私は自分が心も体も動かなくなってしまった時、その度にこのみことばを思い起こし、主を待ち望む祈りをした。そして新しい力をいただいた。どうぞ皆様も、主が下さる新しい力、それを年の初めに求め、また繰り返し求めていってください。主はご真実な方である。