クリスマスおめでとうございます。先週あたりから、「良いお年を!」というあいさつが始まっている。でもその前に「メリークリスマス」である。今年はクリスマスの日が日曜日と重なった。「クリスマス」ということばの意味自体、「キリスト礼拝」なので、そういう意味では、毎週日曜日がクリスマスなのかもしれない。私は幼少の頃から、クリスマスと聞くと、意味はわからなくとも嬉しくなっていたことを思い出す。皆さんも、そうではなかっただろうか。
さて、さきほどお読みしたイザヤ書は、キリストの出現が数々預言されている書として知られている。キリストの誕生が今から約2000年前。この書物は、キリスト出現の約700年前に記された預言の書である。その頃、日本はまだ縄文時代。この時、預言者イザヤが、数々のキリスト預言をした。クリスマスは、キリストの誕生を祝う行事であるが、キリストの誕生は予測されていなかった以外な出来事というのではなく、預言の成就なのである。先週は、イザヤ7章から、キリストが処女から誕生するという預言を見た。このイザヤ書53章もキリスト預言の章であるが、そこにはキリストの姿と救い主としての働きについて預言されている。皆さんは、イザヤ書53章に描写されている人物について、どんな印象を持たれただろうか。無力で冴えないという印象を持たれたのではないだろうか。俗に言うヒーローの姿とはほど遠いと感じる。スター性のない姿と言ったよいだろうか。それどころか、卑しくて醜い賤民、汚らわしい人といった印象さえ抱く。しかも惨めな最期を遂げるという印象がある。「キリスト」ということばは、姓ではなく、王となる救い主を意味する称号であるわけだが、昔の人々は旧約聖書を研究して、救い主の出現の時期や、その場所、救い主の働きといったことを研究していた。聖書の預言から、キリストの誕生がイスラエルのベツレヘムであることも知られていた。ところが53章に描かれている人物は余りにもみじめなので、救い主のことを描いてはいないと受け取る人が多かったようである。人々が待ち望んでいた救い主とは、偉大な力をもつ威風堂々とした権力者、敵を打ち負かす力強い偉大な征服者、飢えや貧困を一気に解決してくれるような実力者、苦しみや圧政から救い出してくれる政治的解放者、地上にユートピアを一気にもたらしてくれるようなヒーロー。しかし、イザヤ53章で描かれている人物は、そうした姿とはほど遠い。偉大な征服者のイメージは、つゆほどもない。人々から邪けんに扱われ、捨てられて死んでいくというイメージである。実際に出現したキリストはどうであったのか?預言された通りであった。その誕生は家畜小屋の飼葉おけであったわけだが、誕生からして、救い主らしくなかった。
2節前半を見てみよう。「若枝」とは救い主のシンボルなのだが、「砂漠の地から出る根のように育った」は冴えない。これは、今にも枯れてしまいそうな様子の描写なのである。みすぼらしく、貧しくて無力というイメージがわく。生い立ちからしてそうだった。さきほど述べたように、キリストは家畜小屋の飼葉桶の中で生まれた。人としての両親ヨセフとマリヤは旅先のベツレヘムで宿屋を探したが、彼らを泊めてくれるような宿屋は一つもなかった。お金持ちであれば別であったかもしれないが、彼らは貧しかった。彼らにとっては家畜小屋がせいいっぱいの選択であった。こうして救い主は、人間の住居から占めだされた場所で誕生した。多くの人々の祝福の中ではなく、家畜の臭気がただよう所で、人としての人生をスタートされた。それからほどなくして、その土地を支配していた領主が、二歳以下の男の子を殺せ、と命令を発布した。その前にヨセフとマリヤは幼子を連れて、イスラエルの地からエジプトの地へと逃れ、一時、難民生活を強いられた。難民生活をあとにして、ヨセフの故郷のナザレに戻ることになるが、そこはガリラヤという田舎の地方の寒村で、人の目には卑しめられていた田舎の小さな村落にすぎなかった。そこでキリストは大工の子として育てられる。実は、この時代、世界を支配していたのはローマ帝国で、ローマ皇帝が文字通り神として崇められていた時代であった。ローマ皇帝を神として拝むことが法的にも強制されていた。この人間のおごり高ぶりの時代、ローマ皇帝を超越する神の救い主が、天の栄光をかなぐり捨てて、全くへりくだって、貧しくなって、卑しくなって、無になって、人間として最低の生まれ方を選び取られた。難民生活も経験され、一瞥も与えられないような寒村で貧しい家の子どもとして育てられた。まさしく、砂漠の地から出る根のように育っていく。国中の人から見守られながら、期待されながら、寵愛を受けながら、というのでは全くない。
2節後半を見てみよう。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」。ある人は、キリストは「特に人目をひくような身体的特徴があったわけでも、また後光が射すとか、体が光輝いていたというわけでもなく、外見上はごくありふれた感じだったのだろう」と言っているが、その通りだろう。キリストを十字架刑にするために捕えに来た者たちは、キリストの見分けがつかなくて、イスカリオテのユダに手引きをしてもらっているが、キリストの外見は普通の人と変わりなかったであろう。ただ気品は当然あっただろう。絵画では、後光が射しているものが多いが、あの後光というものは異教の影響にすぎない。また絵画ではあご髭を刈り込んでたくわえているものが多いが、当時のイスラエルのガリラヤ地方の男性は、あご髭をたくわえていたので、それはまちがいないだろうと思われている。この2節後半が言わんとしたいことは、キリストが実にへりくだった姿でこの地上に来られ、人に忌み嫌われるような受難の道を選択されたので、みんなが期待していたようなメシヤ像とはほど遠く、見栄えしないということである。「こいつが救い主なんて冗談じゃない。我らのイメージには当てはまらない」。人々は実際、そのように思ってしまった。それがどれくらいかと言えば・・・
3節を見てみよう。「彼はさげすまれ、人々からのけものにされ、・・・人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」。ここに、「人が顔をそむけるほど」とあるが、顔も見たくないと、それほど反感を買われてしまうということである。実際、故郷のナザレ村においてさえ嫌われ、崖から突き落とされそうになったというエピソードがルカの福音書にはある。これは一つの象徴的事件で、この後、こうした反感は続き、殺害計画が練られ、そしておまえなんか必要ではないと、最終的には十字架で捨てられることになる。十字架刑は当時にあって発音するのも忌み嫌われていた刑で、「不吉な木に架ける」といった婉曲的表現が取られていたりした。十字架刑に服するということは、「わたしは人間のクズです。存在悪です。生きている資格はありません。神ののろいのもとにあります」と証言するようなものであった。キリストは異臭を放つ真っ黒なゴミ同然に捨てられたということである。これが今、世界中で祝われている救い主である。
3節の中頃に「悲しみの人で病を知っていた」とあるが、これはキリストが病弱であったことを意味しているわけではなく、「病」ということばで人間の心の弱さを表わしていると思われる。キリストは、人間の罪に負けてしまう弱さを知って悲しんでいたと捉えることができる。また文字通り、人の病をご覧になって悲しんでいたという理解もある。新約聖書を見ると、キリストが悲しむ描写が多い。またキリストの伝説を扱った古文書でも、キリストは悲しみの表情を湛えていたことが記されている。キリストは世界に溢れる罪、病を思うと、笑えないでいた。
4節を見よう。ここでも「病」について言われているが、後半から必然的に「罪」との関係を読み込まなければならなくなる。キリストは救い主という意味であることは告げたが、キリストは私たちを罪とその結果である滅びから救ってくださる救い主なのである。御使いはかつて、ヨセフにこう言った。「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださるのです」(マタイ1章21節)。4節は明らかに、イエス・キリストが私たちの罪の身代わりに刑罰を受けることの預言となっている。それは、5節でも、6節でも、繰り返し描写されている。
5節を見よう。ここで「私たちのそむきの罪」「私たちの咎」という表現がある。私たちの社会では、罪とは法律違反を意味する。わたしが最初教会に行った動機は、罪から救われることを求めて、ではなかった。警察のごやっかいになったことはないので。自分に罪からの救いが必要であるなどと思っていなかった。むしろ、悪い連中を神さまが裁いてくれないかと他人事に思っていた。やがて聖書で説く罪について理解し信仰をもったとき、姉に話した。「罪から救われたくて信じたんだ」。そうしたら、「あんた、何か悪い事をやったのか」と問い返された。姉は私が社会犯罪でも犯したと思ったのだろう。「そむきの罪」とは人間に対するものではなくて、神に対する罪ということが言われている。神へのそむきである。神の目にかなわない思いや行いである。「咎」は「不法」とも訳せるが、人間の法律を破ることではなくて、神のまっすぐな律法を破ることである。あくまでも、聖書の罪とは神が意識されてのものである。神との関係はどうかと問われる。親不幸ならぬ、神不幸をしていないか。神を悲しませる視線、心、ことば、態度、それらが問われる。人の定めた法よりも、神の定めた法のほうが厳しい。
私たちは自分の罪が小さいもののように思えても、そうではないことは、キリストの十字架の苦しみからわかる。キリストが十字架上で流された血と、味わわれた深い苦悩、心臓が張り裂けてしまう恐ろしい苦しみを見る時に、罪の重大さというものを知り、同時に、私たちを罪から救わんとされた神の愛を見る。5節の「刺し通され」「砕かれ」という表現は、キリストが残酷な殺され方をしてしまうことの預言である。キリストがそこまでして私たちに与えようと思ったのは、「平安」であり、罪からの「いやし」であった。
6節を見よう。ここで人間が羊にたとえられている。羊は方向音痴で、目も悪くて、さまよいやすい愚かな動物だが、自分かってな道に向かってしまう人間が羊にたとえられている。聖書は人生を道にたとえているが、自分の人生これでいいんだと我が道を行く私たち。でもどこへ向かっているんだろうか。まず私たちは自分の人生を振り返ってどうだっただろうか。歩むべき道を歩んできたのだろうか。そしてこれからどこへ行こうとしているのだろうか。私たちは自分のしてきたこと、これからの歩む道をどう正当化しても、「しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に(すなわちキリストに)負わせた」という事実は変わらない。
7節を見よう。ここでキリストご自身が羊にたとえられている。実は、人々は救い主に百獣の王である獅子のような威厳に満ちた姿を期待していた。事実、聖書は救い主を獅子として描写している箇所がある。しかしキリストは獅子としての威厳を隠し、予想に反し、降誕において、弱く、従順な、殺されるのを待ついけにえとしての小羊として来られた。ここで救い主が羊にたとえられている背景には、ユダヤ人が神に対して罪の赦しを請うのに、羊を身代わりの犠牲としてほふったということがある。10節の「罪過のためのいけにえ」がそれである。罪を犯したと自覚した者は罪過のためのいけにえである羊を祭司の前に連れて行き、罪を告白し、羊が身代わりにいのちを断たれたのである。「口を開かない」と二度言われているが、小羊として従順に死のさばきに服する様が強調されている。キリストは十字架裁判で驚くほど寡黙であった。従順に死のさばきに服した。ここに強さは見られない。あるのは無力さである。キリストは皆になぶりものにされ、それに耐え、十字架刑に従順に服された。それまで人々をあわれみ、奇跡を行ってきた偉大な御手は釘付けにされ、何もできない無力な手となった。しかし、ここに本当の意味での愛の強さを見るわけである。キリストは自発的に、私たちの罪のために死のうとされた。
8節を見よう。キリストの十字架上の死が自分たちの罪の身代わりであったなどと、当時の人は当初、誰も思わなかった。こうしたことも預言されている。
9節を見よう。葬りについて言われている。通常、十字架刑によって死んだ者はゴミ同然の扱いで捨てられたり、穴に投げ込まれたり、獣や鳥の餌になって終わりだった。人並みに埋葬されることはなかったのである。ところがキリストはアリマタヤのヨセフという人物の申し出によって、丁重にりっぱな墓に葬られた(マタイ27章50節)。こうした埋葬の預言も成就している。
10節~12節を見よう。キリストが私たちの罪を負い、身代わりとなってくださることが繰り返し強調される。10節では「主のみこころ」という表現が二度使われており、キリストの十字架刑というのは、キリストの働きが失敗に終わった結果だとか、そういうことではなく、最初から神のご計画のうちにあったことであるということがわかる。わたしは信仰をもって数年を経た時、ある新興宗教を信じている方にこう言われた。「キリストは自分の活動が失敗して十字架につけられてしまった敗北者で、信じるに値しない」。だが十字架刑は失敗ではない。それは神のご計画のうちにあったことである。キリストは十字架につくためにお生れになったことを自覚しておられた。
12節に注目してみよう。3,4行目に「彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである」とあるが、この預言も成就した。キリストが十字架につけられた時、三本の十字架が処刑場に立ち、真ん中がキリスト、両側が強盗であった。キリストはこうした人たちとともに処刑されることをよしとされた。
続いて12節後半も見てみよう。「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」(12節後半)。「彼は多くの人たちの罪を負い」と、11節最後の行の「彼らの咎を彼がになう」と同じく、キリストは私たちの罪を自発的に負おうとされたことがわかる。別に、そうしてください、と私たちの側でお願いしたわけではない。愛からそうしてくださった。続く「そむいた人たちのためにとりなしをする」とはどういうことだろうか。先の「彼は多くの人の罪を負い」は、罪のためのいけにえの描写であるが、「とりなし」というのは、祭司の描写となっている。祭司は、神と人との間の仲介者、仲保者として、人の罪を赦してくださるようにと、神にとりなしをする職務であった。罪のためのいけにえを捧げたり、祈ったりすることによって、とりなした。キリストは罪のためのいけにえであり、同時に祭司である。「とりなしをする」という動詞は、原文では継続を意味する動詞となっており、つまり、キリストは今も生きていて、私たちのためにとりなしをしていてくださるということである。キリストは十字架につき、死で終わったのではない。よみがえられ、今も天で生きておられ、私たちのためにとりなしていてくださるお方である。「しかしキリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」(ヘブル7章24,25節)。キリストは今も天にて生きておられ、私たちのためにとりなしをしていてくださる。ですから教会では、キリストのお名前によってお祈りする。
今日は皆さんに、キリストは生ける神の救い主であることを覚えていただきたい。そして今日は、キリストが私たちを救うために、この地上に貧しい姿で来てくださり、権力や富とは無縁の生き方をされ、見栄えのしない姿で、周囲から尊ばれることなく、さげすまれ、受難の生涯を送られたこと、それもこれも私たち罪人と一つとなり、十字架について私たちを罪から救うためであったことを覚えていただきたい。
私たち人間は意識として、罪人扱いされたくないというところがある。わたしも最初はそうであった。しかし、今日、罪人扱いされてしまい、それをよしとされ、十字架に向われたキリストのことを考えていただきたい。キリストは罪のないお方である。ではなぜキリストは十字架刑に服することを選び取られたのだろうか。聖書を読むと分かるように、キリストは逃亡の果てに捕えられて十字架刑というのではない。逃げも隠れもせずに、十字架刑に服した。いったい何のため、誰のためであったのだろうか。なぜ罪も犯していないのに、これほど損な役回りを引き受けようとされたのだろうか?私たちはその意味をかみしめた上で、クリスマスを祝いたいと思う。クリスマスカラーの赤は、キリストが十字架の上に流された血の色に由来しているが、十字架刑という尊い救いのみわざに感謝して、クリスマスを祝いたいと思う。