アドベント第四週を迎えた。本日は、キリスト降誕を待ち望ませるキリスト預言から教えられ、クリスマスを迎えたいと思う。14節の預言どおり、「インマヌエル」なるキリストは、処女から誕生された。「インマヌエル」の意味は「神が私たちとともに」(イン=ともに マヌ=私たち エル=神)。では今日の物語を追って行こう。場面はキリスト降誕約700年前のことである。1節で「ユダの王アハズの時のこと」と言われている。彼は若干20歳で王位に就いた(Ⅱ列王16章2節)。王位に就いたばかりの若い彼の耳に、恐れを引き起こすニュースが入ってきた。同盟を結んでいた二つの国が、挟み撃ちのようにして南王国ユダに進軍してくるというニュースである。その二つの国とは1節後半から、レツィンが率いるアラムと、ペカが率いる北王国イスラエル(イスラエルの十部族)。当時、脅威であった大国は、アッシリヤであった。アラムと北王国イスラエルと南王国ユダはアッシリヤの脅威にさらされていて、圧政に苦しんでいた。そこでアラムと北王国イスラエルは南王国ユダと三国同盟を結んで、アッシリヤから完全独立を果たそうと願っていた。反アッシリヤ同盟の結成である。ところが、ユダの王アハズは三国同盟結成を拒否した。そこで頭に来たアラムと北イスラエルの連合軍はユダを滅ぼして、アハズを退位させて、自分たちの言いなりになる傀儡政権をユダに作ることを謀った。1節は、7章の物語全体を包括する序文となっている。「アラムの王レツィンと、イスラエルの王ペカが、エルサレムに上って来て、これを攻めたが、戦いに勝てなかった」という戦いの結末は、時間的には、この後に見るアハズ王と預言者イザヤの出会いの後に来る。

では本論に入ろう。2節を見ると、アハズの耳に、アラムと北王国イスラエルの連合軍が攻め寄せて来るというニュースが伝わったことがわかる。国家存亡の危機である。当然のことながら、アハズは動揺し、国全体にも動揺が広がる。林の木々が風で揺らぐような動揺であることが記されている。みなさんも、そのような動揺を経験したことがあるだろうか。この危機と動揺の時に、神は預言者イザヤを彼の息子とともにアハズのもとに遣わす(3節前半)。場所はエルサレム場外にある水路の付近である(3節後半)。アハズがなぜ水路の付近に来たかというと、水の少ないエルサレムにとって、籠城して立て籠もるには、水源確保は絶対的に必要であったからである。そこでアハズは自ら実地調査に出向いた。けれども、まず彼が走って行かなければならない所は別にあったはずである。彼は不信仰な王であった。けれども、神は彼のもとにイザヤを遣わし、あわれみを見せる。4節のことばに、神の主権的あわれみを感じる。「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。・・・・心を弱らせてはなりません」。アハズは動揺して落ち着きを失っていた。だから、「静かにしていなさい」と言われている。敵を恐れ、おびえていた。だから「恐れてはなりません」と言われている。心は萎えて弱くなっていた。だから「心を弱らせてはなりません」と言われている。これらは無責任な励ましではない。7~9節において、アラムと北イスラエルの連合軍がユダを攻めるという企ては失敗に帰することが預言されている。この預言の数年後、アラムの王レツィンはアッシリヤによって殺され、北イスラエルの王ペカは同じ頃、暗殺されることになる(第二列王15章30節)。

アハズは、この救いの知らせをどう受け取ったのだろうか。アハズの応答の記事はない。神は応答のはっきりしないアハズに対して、イザヤを通して再び言われる。「あなたの神、主からしるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから」(11節)。アハズは答える。「私は求めません」(12節)。一見、敬虔に聞こえる彼の答は不信仰を隠すものでしかなかった。確かに聖書は、しるしを求めるのは幼稚なことであるとするし、「主を試みてはならない」と申命記律法でも言われている(6章16節)。しかし、先の申命記の聖書箇所は「あなたがたがマサで試みたように」と説明文がついている。かつて、マサという地で、イスラエルの民は、水に渇いて、主が私たちのうちにおられるのかおられないのかと試みた。主を信頼できなくなって、自分のわがままからしるしを要求するのは主を試みることでしかない。しかしこの場合、主が主権をもって、自らしるしを与えると宣言してくださっている。だから拒む理由はない。だがアハズにはこれを拒む隠れた理由があった。この時、彼はすでにアッシリヤの保護を求めていた。主が忌み嫌う国際勢力に頼っていた。彼が目を向け頼ろうとしていたのは、主ではなくて大国アッシリヤ。彼の信仰は全く形骸化していたのである。主の名あを口にしながら、実際の生活はこの世に頼る信仰者と同じである。

アハズ王は、列王記、歴代誌を見ると、ユダ王国屈指の悪王であることがわかる。バアルの神を始め、積極的に外国の神々を拝んだ。アハズ王の不信のゆえに、南王国ユダは北王国イスラエルによってめちゃくちゃにされ、すでに多くの民が殺されていた。アハズ王は大国アッシリヤに助けを求め、一時はそれで良かったように思えたが、やがてユダ王国にアッシリヤが攻め込むことになる(17節)。第二歴代誌28章を見ると、このアッシリヤについて「何の助けにもならなかった」「アッシリヤの王が彼を悩ました」といった表現が出て来る。アハズ王のアッシリヤ頼みはまちがっていた。アハズ王は最後まで悔い改めることなく、外国の神々を拝み続け、悪王として世を去る。

さて、このような不信仰な者に対して、それでも主はしるしを与えようとされる。なぜだろうか?それを知るキーワードは「ダビデの家」にある(2節)。「ダビデの家」という神が祝福された家系が存亡の危機なのである。神の国はダビデの家系を通して樹立されると神は約束されていた。13節では、呼びかけが「アハズよ」ではなく、「ダビデの家よ」とあり、14節で「キリスト預言」がある。ここで処女のみごもりと出産がしるしとして約束される。「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして、男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」。

この約束の究極的成就は、キリストの降誕によって成就した(マタイ1章23節)。しかし、イザヤの預言の文脈では、アハズの時代にもしるしとなる男の子が与えられるという内容である(15,16節)。預言された男の子が幼いうちに、善と悪を見きわめる責任能力をもたないうちに、「あなたが恐れている二人の王」、すなわちアラムの王レツィンと北イスラエルの王ペカが世を去るというのである。よって、イザヤの預言は二つの時代にまたがり、二重預言になっていることがわかる。

しかし、二重預言というときに、問題が二つ残る。一つは、処女からの出産はイエス・キリストだけのはずではないか、ということ。14節で「処女」と訳されていることばは<アルマー>である。旧約で計9回使用されている(リベカ~創世記24章43節「おとめ」、他)。このことばは処女そのものを意味することばではなくて、結婚適齢期の若い女性を意味し、「おとめ」と訳すのが一般的である。旧約の用法ではすべて、処女であるおとめに適用されている。<アルマー>は処女を暗示させる結婚適齢期の若い女性「おとめ」に使用されることばである。結婚適齢期の若い女性という意味ではなく、処女そのものを意味することばは<ベスーラー>である(リベカ~創世記24章16節「処女」)。イザヤの箇所の処女降誕預言には<ベスーラー>は使用されていない。<アルマー>が使用されている。聖書記者がこの場面で、より多様な意味をもつ<アルマー>のほうを使用したのは、おそらく、結婚適齢期の若い女性である「おとめ」と「処女」の両方に用いることができるこのことばによって、二重預言に対応しようとしたのだと思われる。つまり、アハズの時代、結婚適齢期の若い女性である「おとめ」が出産し、その子がユダ王国の救いのしるしとなり、そして時満ちて、「処女」から生まれたキリストが究極的しるしとなったということ。マタイ1章23節の「見よ。処女がみごもっている。そして、男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という引用は、旧約聖書のヘブル語ではなくギリシャ語で記されている。ギリシャ語で「処女」と訳されていることばは<パルセノス>で、それは「処女」しか意味しえないことばである。キリストはまがいもなく処女から誕生したのである。

もう一つの問題は、二重預言というときに、アハズの時代に生まれるしるしとなる男の子は誰であったのか、ということである。幾つかの解釈があるわけだが、有力視されているのは、アハズの子ヒゼキヤである。ヒゼキヤはお父さんと違って敬虔な王として知られることになる。調べると、ユダ王国の王の中で、ヒゼキヤ王ほどたくさんの章を割いて生涯の記録が記されている王はいない。第二列王記18章5節を見ると、「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった」とある。第二列王記18章7節では「主は彼とともにおられた」ある。また彼はアッシリヤとの戦いにおいて、大いなる方が私たちとともにおられるということを繰り返し語っている。「強くあれ。雄々しくあれ。アッシリヤの王に、彼とともにいるすべての大軍に、恐れをなしてはならない。おびえてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が私たちとともにおられるからである」(第二歴代誌32章7節)。しるしとなる子どもの名前「インマヌエル」の意味は「神が私たちとともに」。彼はしるしとなる子としてふさわしい。

私たちは今日の箇所から、キリスト預言、メシヤ預言の成就を喜ぶことができるが、受け止めることができるメッセージは他にもある。それは「インマヌエル」、神が私たちとともにおられるから、静かにしていることができる、恐れてはならない、心を弱らせてはならない、このお方に信頼を置きなさい、ということである。「静かにしていなさい」(4節)から思い出すみことばがある。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザヤ30章15節)。私たちは、心がざわめく、揺らぐ、心が波立つ、ということを経験する時、心静めて、落ち着いて神に信頼することを学ばせられる。続く「恐れてはなりません」という命令であるが、聖書でもっとも多い命令のことばであるとも言われている。裏を返せば、それだけ私たちは恐れやすいということである。ヨシュア記1章9節のみことばは有名である。「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所、どこにでも、あなたたとともにあるからである」。

「インマヌエル」(神が私たちとともに)という預言のことばは、私たちに神への信頼と落ち着きを与え、平静な行動へと導く。アハズ王とユダの民は深刻な事態に追い込まれていた。二つの国が、懲らしめてやろうと襲いつつあった。領土を併合して、アハズを退位させ、傀儡政権にしてしまうねらいがあった。彼らはアハズの代わりに誰に治めさせるか、そのあやつり人形も具体的に決めていた(6節)。彼らは本気であった。彼らは怒りに燃え、自分たちの計画を成功させようと迫ってきていた。不気味な足音が聞こえる。この時、アハズは実用的知識を働かせ、人間的手段に頼ることに奔走していた。だが不安は消えない。恐れはなくならない。悪いイメージばかりが行きかう。心象風景は黒雲が立ち込め、大風が吹くという有様。アハズはこの時、敵の手の中に自分を見るのではなくて、ともにいてくださるという神の手の中に自分を見ることができれば幸いだった。けれども、それはせず、大国アッシリヤに助けを求めることを選び取る。ユダは、神のあわれみによってアラムと北イスラエルの攻撃から救われることになる。だがユダはその後、自ら寄り頼んだアッシリヤによって滅亡寸前にまで至ることになる。そして、やがてそのアッシリヤも、神によって滅び消え去り、歴史上から姿を消す運命にあった。

今見てきたような事実は、私たちが本当の意味で信頼を置くべきお方は誰かということ。奔走して一時は人間的知恵でどうにかなったと思うかもしれない。しかし、相変わらず、神に心を向けないでいると、自分たちが頼ったものでダメージを受け、そして、その頼ったものそのものも姿を消していくという結末に。そしてもっとみじめな結末が自分たちに襲いかかる。ユダ王国にとって、それはバビロン捕囚であった。ユダ王国はアッシリヤやエジプトによって攻撃を受け、最終的にバビロンによって滅びる。

箴言の著者は言った。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かにするのは主である」(16章9節)。皆さん、心に自分の道を思い巡らす時、「インマンエル」なる主に信仰をもって応答しよう。先々週は、風を見てこわくなり、湖に沈みかけたペテロの記事を見たが(マタイ14章22~36節)、いつの時代でも、主なる神に対する確固たる信頼が求められている。順風満帆の時よりも試練の時にこそ、私たちの信仰が問われる。私たちは誰に信頼するのか、誰に頼るのか。あわてふためいて、目まぐるしく、この世の様々な助け先に心を向けてしまう前に、静まって、落ち着いて、主に信頼することこそ、神の子たちの本分である。