今日、パンと魚を食べる予定の方はおられるだろうか。それはおそらく、今日の物語を形づくるパンと魚より、美味しいと思う。前回に引き続き、五つのパンと二匹の魚の物語を学ぼう。

物語の場所は「寂しい所」と言われている(15節)。イエスさまはひとりになることを必要としていた。一年後の十字架に向かう前に、父なる神との交わりに時間を費やすことが必要であった。弟子たちも食事する暇もないほどに忙しく動き回っていたので、休息を必要としていた。イエスさま一行は休息と祈りの時を持つために、ガリラヤ湖西岸のカペナウムから、おそらくは北岸のベツサイダに向かったと思われる(ルカ9章10節参照)。そこで待ち受けていたのは数えきれない群衆。「男五千人ほど」(21節)と言われているが、当時のガリラヤ地方の人口や過ぎ越しの祭りが近づいていたということを考え併せれば、女と子どもも合わせて、少なくとも1万人以上はいたと推測できる。彼らに対応しなければならない。休みたいと思っても休めない。一般の人間の心の傾向性として、こういう場合、心が重くなる心境にかられるはず。疲れているんだ、いいかげんにして欲しいと。でもイエスさまは14節にあるように、彼らを深くあわれみ、彼らに仕えられる。またイエスさまはこの時を、弟子たちの訓練の機会として用いられた。夕ご飯の時間帯になった時、大群衆を解散させることなく、「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べるものをあげなさい」と命じられた(16節)。それは全く無理な命令に思われたが、その解決は18節で言われているように、「それを、ここに持ってきなさい」と、五つのパンと二匹の魚というわずかなものを、イエスさまに明け渡すことであった。

前回は今見たように、イエスさまの深いあわれみの心にならうことと、簡単に不可能と決めつけることなく、わずかなものであってもそれをイエスさまに明け渡し、みわざを拝していくということを学んだ。今日は、イエスさまが私たちを養ってくださることを最初に学び、次に、わずかなものを明け渡すというチャレンジを再度受け、最後に、イエスさまが五つのパンと二匹の魚を祝福された姿から学びたい。

さて、この物語の設定の場所「寂しい所」であるが、それは「荒野」と言ってよい。聖書では「荒野」とは試みの場所であり、また、そこはイエスさまがご自身を救い主として示す場所でもある。実を言うと、ユダヤ人たちは、来るべきメシヤは荒野で再びマナを降らすと期待していた。エジプトを出たイスラエルの民は荒野の40年間、神によって養われた。天からのマナによって養われた。同じくこの物語においても、神は荒野において、ご自身の民を、愛の配慮をもって養うことを示しておられる。マタイは、この荒野での養いの記事の前に、国主ヘロデの酒宴を描いている(14章6~11節)。これは意図的な配置かもしれない。悪の支配者ヘロデ・アンティパスの酒宴、その後にイエスさまが主催者となっている「五千人の給食」とも呼ばれる会食。ヘロデのパーティに続いてイエスさまのパーティ。ヘロデのパーティには酒とごちそうがあるが、邪悪に満ち、そこにイエスさまはいない。イエスさまのパーティには安い食材しかないが、神さまの祝福がそこに注がれ、そこにイエスさまがいる。貧しい人や病人も招かれている。まさしく救い主の祝宴である。このコントラストは意図的かもしれない。イエスさまがおられるパーティのほうが断然いい。いずれにしろ、イエスさまは荒野のような環境でも、ご自分の民を養ってくださるお方である。

今、厳しい時代に突入した。経済的不安をかかえている神の民は数多くいる。あるクリスチャンの短い証を読んだ。その方は学者であり教師であった。仕事がない。彼は祈りに時間を費やし、この先一年間に必要な生活費や研究費の貯えを計算し、愕然として叫んだ。「もし奇跡が起きなければ、わたしは今年、路上生活者になってしまう!」だが、その叫びのあと、24時間経たないうちに、本の執筆の仕事が入ってきた。彼はこの経験を通し、神のご真実さを学んだという。皆さんも、荒野のような時代と思っても、神さまは変わらない方であることを覚え、信仰を働かせていただきたい。

15節を見ると、弟子たちはそれなりに群衆の食事のことを気遣っていることがわかる。でもイエスさまは、もっといい解決法を考えておられた。並行箇所のヨハネの福音書6章5節によると、イエスさまは弟子ピリポに、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」と聞いている。ピリポはベツサイダ出身なので、弟子たちの中ではこの辺りの地理に一番詳しい人物。イエスさまは意図的にピリポを選んで聞いた。ピリポは、町村の数、そこまでの距離、パンを調達できそうな所、よく知っていただろう。実は、近くには町村が少しあったが、みな小さい所ばかり。そこから大群衆の食糧調達は不可能。しかも、パンというものは夕方に食べ尽くされるもの。朝ならまだしも、食糧調達の時間としては良くない。買うお金もない。つけにしてもらったにしろ、たいした量は集まらないだろう。無駄足になる。荒野にあったのは五つのパンと二匹の魚だけ。ピリポはヨハネ6章9節によれば、「それが何になりましょう」と評価した。当然のような評価である。けれども、そう簡単に言ってはいけない歴史を彼らは背負ってきた。神は、モーセ、エリヤ、エリシャなどの預言者を通して、不可能を可能とされてきた。例えば、第二列王記4章42~44節を見よ。エリシャによってパンが増える奇跡が記されている。イエスさまはエリシャにまさるお方。イエスさまの弟子たちは、今、イエスさまが養ってくださることを期待する信仰が求められていた。私たちにもイエスさまの養いに期待する信仰が求められている。

次に、神さまは私たちが持っているわずかなもの、つまらないものを通してみわざをなされることを覚えよう。18節で、「それを、ここに持ってきなさい」と言われたものは、「五つのパンと二匹の魚」であった。ヨハネの福音書6章9節によれば、このパンは少年のお弁当で、大麦のパンであることがわかる。これはパンの中で最も安いものとして卑しめられていた。ユダヤ教のミシュナーには、姦淫を犯した女が捧げなければならない供え物の規定がある。普通は罪のためのいけにえに添えて、小麦粉を練ったものを捧げた。けれども姦淫を犯した女の場合、小麦でなくて大麦でなければならない、と規定されていた。なぜかといえば、大麦は動物の餌であり、その女の罪も動物に等しいとされていたからである。いずれにしろ、大麦のパンは安いパンで、貧しい人々の食糧であった。魚は塩漬けの魚で、ガリラヤ産の塩漬けの魚は、ローマ帝国中に知られていた。当時、生の新鮮な魚は贅沢品であった。ガリラヤ湖には鰯のような小さな魚が群棲していて、それが塩漬けにされた。その価値は、日本人の感覚ではメザシのようなものと思っていただければいいだろうか。

聖書を読めば、神はみわざを行われるのに、取るに足らないものを用いておられることを発見する。出エジプト記を見れば、神はパロの娘の心を動かすために、ナイルの岸で泣いていた赤ちゃんの声を用いられた。エジプトで偉大な数々の奇跡を行うのに、羊飼いの杖を用いられた。士師記を見れば、神はペリシテ人を倒すのにろばのあご骨を用いられた(士師記15章16節)。サムエル記を見れば、神は巨人ゴリアテを倒すのに、紅顔の少年と河原の石ころを用いられた(第一サムエル17章31~54節)。列王記を見れば、神はエリヤを養うために、一握りの粉と油が少ししかなく、それで最後のパンを作って死のうとしていた貧しいやもめをあえて選んだことがわかる(第一列王17章8~16節)。そして今、少年の貧しいお弁当でメシヤのみわざが行われる。

神は、ありふれたもの、平凡なもの、並以下とみなされているものをあえて用いられる。イエスさまが「それを、ここに持ってきなさい」と言われるものは、私たちにあてはめれば何だろうか。前回述べたように、それは私たち自身も入るのではないだろうか。第一コリント1章26~29節を見よ。私たちは平凡な者たち、取るに足らない者たちかもしれない。権力もなく、わずかの能力しかないかもしれない。裕福でもないかもしれない。しかし私たちは、ただのパンと魚でいるより、イエスさまに捧げたパンと魚になりたい。そしてイエスさまに祝福していただき、みわざを拝したい。

最後に、イエスさまが五つのパンと二匹の魚を祝福された姿から学ぼう。弟子たちが籠をもって配給の奉仕に携わる前に、イエスさまは五つのパンと二匹の魚を祝福された。19節には、「五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し」とある。イエスさまのふるまいは、ユダヤの家庭で食事の前に家長がやっていることである。食前に感謝の祈りをささげた。「祝福する」<エウロゲオー>ということばは、「感謝する」とも訳せる。実際、並行箇所のマルコ8章7節では、「また、魚が少しばかりあったので、そのために感謝をささげてから」と、「感謝する」と訳されている。いずれ、イエスさまの祈りは、パンと魚を感謝して、祝福してのことであることにはちがいない。この祝福があって、すばらしいみわざが起きた。この祝福の場面で、教会の家長はイエスさまであることが暗示されている。イエスさまはここで、わずかの、しかも安いパンと魚を感謝し、祝福された。祝福を受けたものは配給され、集まった人々を十二分に養うことができた。

私たちは十二使徒のように神の恵みを分かち合う「給仕係」であるとともに、用いていただける「五つのパンと二匹の魚」である。わたしは、この箇所を読んでいたときに、強く語りかけを受けたことがある。それは、私たちは互いを祝福しなければならないということである。私たちはお互いに欠点だらけである。いろんなことがうまくできるわけではない。気が良く回らないこともある。考え方が合わないと思うこともある。まちがいを犯すこともある。けれども、主に選ばれ、救われ、<主が祝福しようと思っているお互い>である。だから、私たちもまた、お互いに祝福し合わなければならない。だから、もしお互いの足りなさだけに目を注ぎ、堅すぎる、ぱさぱさしすぎている、大味だ、しょっぱすぎる、好みの味じゃない、とやっていたら、どうだろうか?「それが何になりましょう」とやっていたらどうだろうか。

以前、関東の海沿いの港町で牧会していた。隣町に出かけ実家に送るかつおを買いに行った時のこと、お店の男性が、こう言った。「自分らは朝に水揚げされたかつおしか食べないよ。昨日獲れたものは鮮度が落ちているから食べない。」漁港が近い町ならではの話しである。新鮮な魚をいつも食べられない内陸の地域では、甘露煮、塩漬け、酢漬けなどにして、貴重なタンパク源として、感謝して食べる。

農民画家ミレーの絵に「晩鐘」がある。夕暮れの時間帯、農民である一組の夫婦が、畑で祈りを捧げている絵である。当時は、教会で鐘を鳴らした時に祈りを捧げる習慣があった。絵を見ると、時間帯が夕日が沈む頃なので、夫婦は今日一日の感謝を捧げていることはまちがいない。絵を良く見ると、夫婦の足元には籠が置かれてあって、その中には、収穫したある作物が入っている。何だろうか?じゃがいもであるが、ただのじゃがいもではない。形が整っていない未成熟のじゃがいもである。今で言えば、売り物にはならないものである。けれども夫婦は敬虔に頭を垂れ、感謝の祈りを捧げている。

イエスさまはあえて美食家であったら目を向けないパンと魚を感謝されたのである。祝福されたのである。そして、それらを用いようとされたのである。私たちは主がくださる日ごとの糧を覚え感謝をささげるわけだが、それとともに、私たちは互いに祝福し合いたいと思う。

今年度の目標も思い起こそう。今年度の目標は、「人々に祝福を与え、平安の子を見いだす」である。イエスさまが弟子たちに「どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい」と命じた(ルカ10章5,6節)。「平安があるように」というのは当時の祝福のあいさつであることはお話した。平安には「幸福、救い」という意味が含まれている。私たちは人々の御救い、神にある幸いを願って、人々を祝福するのである。イエスさまは、こうも言われた。「あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6章28節)。イエスさまの薫陶を受けたペテロも言っている。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです」(第一ペテロ3章9節)。

私たちは、教会内部の人も外部の人も祝福するのである。もちろん、第一歴代誌4章10節に言及されているヤベツのように、主の栄光を願って「わたしを大いに祝福してください」と祈ってもいいのである。五つのパンと二匹の魚を祝福してくださった主は、私たちのことを祝福してくださる。私たちはいろいろな意味で、五つのパンと二匹の魚を目にすることになるだろう。その時、キリストの御名で祝福しよう。クリスマスが近づいてきたこの季節も、祝福することを実践しよう。クリスマス精神にかなっていることは、まさしく祝福することではないだろうか。