今日の箇所は、男女の罪が如実に描かれている箇所である。ヘロデ、ヘロデヤ、ヘロデヤの娘、この三人は家族であった。私たちは自分の人生に潜む罪、そして大勢の迷える人々の中に見られる罪、こうした罪の現実性に対処しなければならない。今日の社会学者や心理学者の語彙には「罪」ということばがないため、罪を深刻な問題として取り扱わない。それは聖書と反対の姿勢である。今日の物語から、罪の現実性、罪がもたらす力ということを教えられる。三人を順番に見ていこう。

一人目は「ヘロデ」。ヘロデは正式には「ヘロデ・アンティパス」。ヘロデ・アンティパスは、アラビヤのナバデヤ人の王の娘と結婚していた。ところが彼は腹違いの兄弟の妻を奪い、ナバデヤ人の王の娘とは離縁してしまう。腹違いの兄弟は同じヘロデという名前でローマに滞在していた。正式名は「ヘロデ・ピリポ」(3節)。ヘロデ・ピリポはローマにおいて王国はもたず、領主も務めず、一個人として裕福な生活を送っていた。ヘロデ・アンティパスはローマを訪れた際、ピリポの妻ヘロデヤを誘惑して、夫と別れて、自分の妻となるよう口説いた。そして自分の妻を離縁してしまった。

ヘロデ・アンティパスは明白に、二つの律法を破ったことになる。一つは、自分のわがまま勝手で、理由なくして妻を出してしまったということ。もう一つは、結婚を禁じられている義理の姉妹と結婚したこと。バプテスマのヨハネは、これを堂々と正面から非難した。考えてみれば、旧約時代の預言者も、王の不道徳、偶像崇拝を真正面から非難したわけだけれども、彼も同様なことをした。専制君主を非難するというのは実に危険で、自分の死刑執行状に署名するようなものであった。それは勇気が必要であった。ヨハネは自分がどうなるかある程度想像はついただろうけれども、大胆に罪を指摘した。

バプテスマのヨハネに糾弾されたヘロデは、「国主ヘロデ」(1節)と言われているが、「国主」とは国王のことではなく「領主」である。ローマ皇帝のもとにあって、一地方を治める権限を与えられていた領主である。大名のようなものであろうか。ヘロデはキリストが活動していたガリラヤ地方とサマリヤ地方の東側のペレヤ地方を治めていた。彼はヘロデヤを妻にする罪に加え、罪を糾弾したバプテスマのヨハネを捕え、死海の東側にある石牢に幽閉し、しまいには処刑するという罪を犯してしまう。無実の正義の人物の処刑である。ヘロデ・アンティパスはこれを機に没落していく。

ヘロデの心について二つのことを見よう。まず彼の罪悪感である(1,2節)。キリストが有名になった時、ヘロデはキリストがヨハネの生き返りだと思った。彼には罪悪感が働いていたのである。人は自分の罪を指摘した人を取り除いたとしても、罪悪感まで取り除くことはできない。ヘロデがその良い例である。人間には神から与えられた良心があるので、非難する人を取り除いても、良心を通しての神の声まで消し去ることはできない。環境を変えても何をしてもだめである。罪悪感に付きまとわれる。

もう一つは、彼の臆病についてである。彼は後に見るヘロデヤの娘の願いに安易に応えてしまった。「ほしいものは何でもあげよう」「ではヨハネの首を」。ヘロデは良心の声よりも、女性のいらだつ感情を恐れた。また客人の非難と嘲笑を恐れた。ヘロデはそうすることはよくないと知りながら、ズルズルと悪の声に負けていった。これは彼の弱さを示すものであった。彼は臆病であった。

この事件の後、ヘロデがどうなっていったか簡単に触れておこう。ナバデヤ人の正妻と離縁し、ヘロデヤを妻として迎えてしまったために、ナバデヤ人の王は激怒し、兵を起こしてヘロデを攻撃し、手痛い損害を与えた。この時のことを歴史家ヨセフスはこう記している。「ユダヤ人のある者は、ヘロデ軍の敗北は神が与えたもので、バプテスマのヨハネに対して行った罪に対する罰であると考えている」。ヘロデはローマ軍によってかろうじて救出されるが、ヘロデヤの言動が仇になっていく。ガリラヤに隣接している領土にテラコニテとイツリヤがあるが、その領土が、同じヘロデ家の家系のヘロデ・アグリッパに与えられることになった。ヘロデ・アグリッパはそれだけでなく、ローマ皇帝より王の称号も与えてもらう。激しく嫉妬したのはヘロデヤのほう。彼女は夫のヘロデをローマに上らせて、皇帝に懇願して王の称号を得させようと焚きつけた。「さあ、ローマへ行きましょう。どんな苦労をしても、また、金銀など、どんなに金を使っても惜しくはありません」。ヘロデは気が進まなかった。けれどもヘロデヤが余りにも執拗にせがむので、ヘロデはローマ行きをしぶしぶ決断した。けれどもこの計画は失敗に終わる。アグリッパは先回りしてローマに使者を送り、ヘロデがローマで謀反を起こそうとしていますと上訴した。むろん、それはうその情報であったが。しかし皇帝はアグリッパのことばを信じ込み、ヘロデの領地と財産を没収し、これを全てアグリッパに与えてしまった。ヘロデとヘロデヤは流刑の身となり、そこで生涯を閉じる。こうしたみじめな末路は、ヘロデがヘロデヤに手を出してしまったことに端を発していた。そして彼はヘロデヤの憎しみ、嫉妬、野望にずるずると引きずられ,身を滅ぼしていった。

二人目は、すでに触れたが、「ヘロデヤ」。彼女は悪女伝説で必ず取り上げられる女性。彼女は今日の聖書箇所からは、四重の罪を見ることができる。第一に、彼女はふしだらで不貞な女であったということ。第二に、彼女は復讐心からヨハネを殺そうとしたということ。彼女は反省の色ゼロで、罪の指摘を素直に受け止めることなく、怒りをいつまでもあたため、執念深く、復讐しようとした。復讐のためなら手段を選ばずで、自分の娘を利用するという悪辣なことをやってのけた。第三に、今述べたことと関係するが、娘にも重大な罪を犯させたということである。自分自身で復讐するだけで悪いのに、自分の邪悪な目的のために娘をも用い、娘を重大な罪の巻き添えにしたのだから、まさに言うことばもない(8節)。子どもをそそのかして罪を犯させる、というのは許しがたい。しかも、その罪は神のしもべの殺人である。第四は、夫を殺人の罪に引きずり込んだということ。ヘロデはヘロデヤの計略に乗せられ、バプテスマのヨハネを処刑してしまう。ヘロデヤの悪妻ぶりが際立つ事件である。ローマ総督ポンティオ・ピラトの妻はキリストを死刑にしないように夫に訴えたが、ヘロデヤにはそのような精神は全くない。逆に処刑をためらっていた夫を、処刑を決断せざるを得ない状況に追い込んだ。

三人目は、今触れたヘロデヤの娘。名前は「サロメ」と言って、映画にもなった。彼女はヘロデヤの最初の夫、ヘロデ・ピリポとの間にできた子どもである。「少女」(11節)と言われているが、年齢は15~16歳、あるいは17歳であったと言われている。彼はヘロデヤの影響が強い女性であることを窺わせる。客人の面前で、何か情欲をそそる妖艶な踊りを踊ったようである。そして臆面もなく、踊りの褒美として、「バプテスマのヨハネの首」と言った。これは少女の言うことばではない。そして11節では恐ろしい行動が記されている。褒美として、盆に乗せられたバプテスマのヨハネの首を、ハイと頂き、母親のところに持っていった。強心臓というか、普通の娘には取れない行動である。「サロメ」の名前の意味は「平和」である。しかし、平和と全く反対の精神が育っていた。

ヘロデは妻と娘に全く頭が上がらなかったようである。しかし、彼は自分の罪と没落の責任をヘロデヤたちの責任にすることはできない。ヘロデに必要であったのはバプテスマのヨハネが願っていた悔い改めである。罪を責める者を取り除くことではなかった。結局、彼は罪悪感から逃れられないばかりか、罪に罪を重ねていくはめになった。罪悪感から逃れるために、気心が知れた仲間を呼び集めてどんちゃん騒ぎをしたり、引っ越して環境を変えたり、ある場合は慈善事業に寄付したりして、気を紛らわそうとするかもしれない。自分のしていることを正当化してくれる人を見つけることかもしれない。けれども、どれも真の解決にはならない。正しい解決を取らなければ、罪悪感と恥とみじめさに嘆き、心はいつまでも晴れず、愚かな末路をたどり、ゲヘナの消えぬ火に投げ込まれるまでである。だから悔い改めて、罪の赦しを求めなければならない。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(第一ヨハネ1章9節)

私たちも自分の罪を認めなければならない。ヘロデは罪悪感を抱きこそすれ、自分の罪を素直に認めたわけではないだろう。私たちはヘロデのような罪を犯さないかもしれないが、神さまと同じ目線で罪を認めることが難しいことがあるだろう。「自分の罪を言い表すなら」の「言い表す」<ホモロゲオー>は「告白する、白状する」などと訳すことができるが、<ホモロゲオー>の原意は、「同じことを言う」である。それはこれまでも繰り返し述べてきた。誰と同じことを言うのか?もちろん、神と同じことを言うのである。義なる神の基準に合せて言うのである。罪とは神の基準から逸れることを意味する。神は私たちの行為ばかりではなく、私たちの心の奥深くも見ておられる。私たちがどのような動機で、どのような意図で、どのような感情で行ったかもご存じであられる。すべては神の前では裸である。神は私たちの心の思いまで罪に定める。私たちはこの神さまと同じことを、自分の罪に関して言わなければならない。「今、心に抱いた考えは罪かもしれませんが、そんなにたいしたことでも」ではなくて、「あなたのおっしゃる通りです。死罪に相当します。言い訳しません」「私が犯したこの罪がキリストへの鞭となり殴打となり釘となったのです。私の罪がキリストを殺したのです」。

私たちは「神と同じことを言う」ことができず、言い訳に逃れやすい者たちである。その言い訳で思い起こすのがイスラエルの初代王サウルである。サムエル記第一13章にサウル王の最初の失敗について記されている。預言者サムエルは、サウル王に対して、自分が定めた日に、ギルガルという地で、わたしが来るのを待つようにと命じていた。その時、あなたの為すべきことを示すと。私の指示を待たないで勝手な行動に出るなと。聖書における預言者とは、神のことばを預かって語る人のことを指すので、サムエルのことばは神のことばとして受け止めなければならない。サウルはギルガルの地でサムエルが来るのを待って、サムエルを通して与えられる神のことばに従って行動しなければならなかった。サムエルの到着が遅れたらどうするとかそういうことは関係がない。あくまでも神のことばを待つということ。王は預言者から発せられる神のことばに従って行動しなければならなかった。サムエル到着前に、ペリシテ人との戦いが繰り広げられた。ペリシテの兵は3万人を越える。それに対してイスラエルの兵はわずか3千人。劣勢は明らか。サウルはギルガルでサムエルを待っていたが、サムエルはなかなか現れない。そうこうしているうちに、イスラエル兵はペリシテの大軍におびえてサウルのもとから離れて散って行こうとした。サウルは慌てて、イスラエル兵を安心させるために、自分勝手な宗教行為に出てしまう。いけにえを捧げる行為に出る。そこにサムエルが到着する。サウルはサムエルの到着を待たずに、サムエルの指示を仰がないで勝手な行動に出たことについて、もっともらしい言い訳を並べ立てる。ちょっと言葉を付け足して述べると、「敵は大軍ですよ。ただでさえ劣勢なのに、イスラエル兵は私をおきざりにしてパァーッと散ろうとしていました。それを食い止めるためにしたんです。悪いのは私ではなく兵士たちですよ。それにあなた様の到着も遅かった。だから私は仕方なくやったんです。それに私のした行為は神さまに対する誓いであり礼拝行為です。どこが悪いんですか。私なりに考えて、せいいっぱいのことをしたんです」。サウルは、兵士たちのせい、サムエルのせい、状況のせいにして、自分は良いことをやったんだと、言い訳、自己弁護に終始する。それに対してサムエルはどう答えただろうか。「そうか、仕方がなかったね。あなたのしたことはもっともだ」と言っただろうか。いや違った。「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じたことを守らなかった」と答えている(13章13節)。実に真実を突いた単純な指摘である。サウルは神さまを恐れる心、神の命令に従う心が欠けていた。本質はそこにある。命令違反という事実は拭えない。けれども言い訳で取り繕った。私たちも自分の失敗を、周囲の人や、相手や、状況のせいにして、自分の責任を認めず、言い訳に終始するという過ちを犯す。言い訳はいくらでも生まれる。責任をなすりつける対象は、人でも物でも天気でも、何でもみつけられる。クリスチャンは悪魔のせいにまでしてしまうことがある。そして自分の罪を神のためにした行為として表現し、取り繕ってしまう。サウルはどう告白すべきだったのだろうか?「私は愚かなことをしました。主の命令を破りました」と告白すべきだった。それが<ホモロゲオー>である。その時に、罪の赦しはある。私たちは日々、神を恐れ、神の前に心を低くし、自分の罪を告白しなければならない。

最後に、バプテスマのヨハネの姿にならうことを考えてみたい。彼の使命は二つあった。一つは、罪を指摘し、人々を悔い改めに導くこと。そしてもう一つは、主イエス・キリストを指し示すこと。「贖いをもたらす会話」という表現がある。「贖いをもたらす会話」の目標は、人を悔い改めに導き、贖い主であるキリストを指し示すということである。会話において、聞くには早く語るには遅くという原則がある。じっくり聞くことをしないで語るに早くであったらまずいであろう。聞くには早く語るには遅くの原則を守りつつ、相手が自分の罪に気づくように会話する。贖いは罪に気づいてくれなければ始まらない。会話の中でその人が罪を自覚したら、贖い主であり救い主であるキリストを指し示すというステップへと進むのである。このクリスチャンにしかできない会話が「贖いをもたらす会話」である。もちろん、一回の会話で贖いまで行かないかもしれない。けれども、それを意識して会話することは必要ではないだろうか。私たちは人と話すとき、症状だけに対処し、慰めたり、同情するだけで終わってしまうかもしれない。確かに、試練に遭っている人に私たちは寄り添っていかなければならない。しかし、その人がまだキリストを知らないというのなら、その人にとって一番必要なことは、キリストにある罪の赦しであることはまちがいない。私たちは人々と会話をしていく中で、「贖いをもたらす会話」、そのような会話になるように、祈りつつ、チャレンジしてみたいと思う。