13章に入り天の御国のたとえを学んでいる。今日の区分には二つのたとえがある。一つは「地引網のたとえ」である(47~50節)。キリストはこの箇所で、全人類が終わりの日に二分されることを告げている。この事を野菜の選別や果実の選別で言い表すこともできると思うが、キリストは魚の選別作業を用いている。キリストが活躍されたのは、イスラエルのガリラヤ地方であったが、ここは漁業が盛んだった。ガリラヤ湖があって、そこで漁業が営まれていた。湖畔には「塩水に漬ける」という意味のタリカエアという町がある。魚の塩漬けがされていたようである。キリストの弟子たちには漁師も多かった。キリストは彼らによく分かるたとえを用いられた。

当時の魚獲りの方法は基本的には二つだった。一つは釣り針と釣り糸を使う方法。なぜか釣竿は使われなかった。もう一つは網による捕獲。これには二種類あった。一つのタイプは、投げ網による捕獲。折りたたみ式の網をかついで浅瀬に入る。魚の群れを探して、片手で網の中央についている紐をつかみ、もう片手で網を投げる。網は傘状のテントのような形をしていて、パッと広がる。網の周囲には重りがついていて水底に沈む。魚たちは網に囲まれてしまう。漁師は紐をひっぱり、網をゆっくり手繰り寄せる。網は大袋となって、その中に魚が入ってしまう。

もう一つのタイプは引き網による捕獲。この場合の網は大きい。たとえ話で使われているのは、この引き網である。四角い大きい網を使い、船を漕ぎだして、二艘の船が協力して、網の片側ずつ担当して両側を固定させる。網の上方には浮がついている。下方には重りがついている。四角い網は水中で垂直に立つようになっている。船は弧を描き、だんだんと網の輪を小さくしていき、浅瀬までたぐっていった。網の内側にいたあらゆる生き物は一網打尽となって捕えられてしまう。こうして捕獲された魚は岸に引き上げられ、市場に送られる前に、選別され、種類分けされた。この選別は、49節からわかるように、「この世の終わり」に起こることをたとえるために語られた。聖書は、やがて神が定められた日に全人類に対する審判があることを告げている。この審判をまぬがれることができる人間は誰もいない。

たとえからわかるように、食用の魚とそうでない魚は最初、混在している。だが、いずれ選別される。選り分けられる。「御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け」(49節後半)。選り分けられ捨てられる魚は、罪を悔い改めない罪人たちを指している。その末路は実に厳しい。「火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです」(50節)。これは地獄に投げ入れられる描写である。神さまは人間を地獄に投げ込むことを喜ばれない。みことばは告げている。「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。神である主の御告げ。彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか」(エゼキエル18章23節)。「主は・・・あなたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(第二ペテロ3章9節)。神さまは人間の誰もが地獄に入るのを望んでおられないのに地獄は存在してしまう。それは私たちの罪ゆえである。神さまの義という性質のゆえである。罪ある者は、そのままでは天の御国に入ることは許されず、裁かれ地獄に向かう。これは神さまでも勝手に変えることはできない善と悪の法則なのである。

この地獄は楽しい所ではない。ある人がひとりの若い女性に、「あなたは生涯の終わりに何を楽しみに待ちますか」とインタビューした時、彼女はこう答えたという。「死ぬこと、死を楽しみに待つわ」。「どうしてですか?」「わたしは地獄に行きたい。地獄は楽しいにちがいないわ」。私も求道中、「地獄だって住めば都」とうそぶいたが、さすがに「楽しい」とまでは言えなかった。地獄は楽しいと描写できる場所ではない。

実は、私たちが今使用している聖書では「地獄」という訳はない。通常は「ゲヘナ」とカタカナで表記されることが多い。「ゲヘナに投げ込まれ・・・」(マタイ5章22,29節)。ゲヘナとはもともと、エルサレムの南西を巡る谷の地名から来ている。そこは町の廃棄物や動物の死体の焼却場として使われていた。火と煙の立ち込めるこの場所は、神の審判を思わせた。

では地獄の性格について、三つのことだけ見みよう。第一に、地獄の苦しみは絶え間なく続くということ。苦痛、苦悩、拷問的苦しみが際限なく続く。「こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです」(マタイ25章46節)。この永遠の刑罰の場所がどのような所なのかということだが、「火の燃える炉」として描写されている。「火の燃える炉」(13章50,42節)。茨城で牧師をしていた時、住友金属の製鉄所を見学に行ったことがある。大きな燃える炉を見させていただいた。鉄がどろどろに溶けて真っ赤な流動体となっていた。この中に落ちたらどうなるんだろうと恐怖の思いで見ていた時、案内人の方が、「この中に誤って落ちた人がいます。骨まで溶けました」とさらりと言われた。気の抜けない現場だと痛感させられた。火の中は苦痛でしかない。しかもキリストが言われる「火の燃える炉」では、意識があるままで、火の熱さと痛みにもだえ苦しみながら耐え続けるしかない。どこにも逃げ場はないし、いつ終わるともない苦しみ。死ねば楽になるだろうと考えている人は多いが、冗談ではない。黙示録19章20節では「火の池」とあるが、これもゲヘナの同意語である。

第二に、地獄の苦しみはたましいとからだの両方を含むということ。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10章28節)。「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けます」(ヨハネ5章29節)。やがての時、全人類がよみがえらされ、神の前で審判を受ける。そしてある者たちは、たましいも、からだも、ともに永遠の刑罰を受ける。

第三に、地獄の苦しみは、罪の程度によって異なるということである。「しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ」(マタイ11章22節)。地獄は苦しみの場所であるけれども、ある人の苦しみは他の人の苦しみよりも大きい。それは生前犯した罪に比例している。聖書では、殺人、強盗、そうした罪ももちろん大きいものとしているが、言葉の罪、偽善、不道徳といったものも大罪として扱う。いずれ一個の罪でも地獄に行くには十分と知らなければならない。神に隠されている罪など一つもない。やがて神の前に立たされる時、神の光の中で、すべての罪は暴かれ、走馬灯のように生涯のすべての罪を知らされ、審判を受ける。こうした罪は戒名、念仏でどうなるものでもない。また自分の善行や修行によって消えるものでもない。

ここで、仏教で罪からの救いについてどう教えているか、簡単に復習しておこう。インドで始まった原始仏教には天国や地獄の思想はなかった。仏教誕生以前にインドにもともとあったのは輪廻の思想である。人はその行いに応じて、輪廻の世界のどこかに生まれ変わると言う。畜生の世界や餓鬼の世界や人間や天人の世界に生まれ変わるとする。輪廻の世界での生存は苦痛と捉える。この輪廻という生存の輪からの解脱を救いと考えた。天人(天の住人、神々)といえども輪廻の世界に生きているわけだから、苦しみは少なからずあると考える。そして輪廻の世界に生きている限り死ももちろん訪れる。寿命がある。だから輪廻からの解脱が必要。解脱した人格を「仏」と呼ぶ。仏はもはや生まれ変わることがない存在とされる。

どうしたら仏になれるのかということが問題であった。これは自力仏教と他力仏教に分けられる。自力仏教は修行を説く。仏になるための修行期間は一番短く述べている仏典でも「129億6千万年」と気が遠くなる数字。名のある仏典では「約1兆年のさらに10の61乗倍」。もうこれは計算の領域を越えている天文学的な数字。それ位、輪廻の世界で修行を積まないと救われないということ。

これではあんまり長すぎる、もっと早く仏になれないかということで、密教が7世紀頃インドで登場した。密教は即身成仏を説く。この身のままで仏になれると。どうやってか?大日如来と合一することによって。身体と口と心を大日如来と合体させる術を学べば、生まれ変わらなくても、この身のままで仏になれると説いた。これは自力仏教の亜流で、仏教の神秘主義。

他力仏教は、いわゆる念仏を唱えれば仏になれると説く。阿弥陀仏の他力によって。阿弥陀仏はある仏典によると、648億年前に、ある一国の国王であったが、216億年間、輪廻の世界で修行を積んで仏になり、救い主となったとされる。阿弥陀仏による救いは原始仏教にはない。事実、阿弥陀仏の教義はインドで作られたものではない。また大日如来、弥勒菩薩といった神的存在、極楽の思想なども、もともと原始仏教にはなかった。さて、他力仏教といえども、実は修行が無視されたわけではない。念仏を唱えれば極楽浄土に行けるとされるが、その極楽浄土といえども、実は修行の場である。そこで心おきなく修行ができて、あとで仏になれるということ。考えさせられるのは、自力で、修行で罪から救われるのかということ。また、歴史に実在していたという記録のない仏様は本当に信頼できるのかということ。さらにまた、どこに罪の赦しの根拠を見いだせるのかということ。

聖書ではキリストはまことの神として啓示され、しかも、まことの人として歴史上の人物として実在されたお方である。キリストは西アジアのはずれに出現し、時至り、私たちの罪をご自分の罪として負い、十字架の上で罪人の代表として刑罰を受けてくださった。この十字架の上で私たちの罪の裁きは完了した。こうして神の義は満了し、救いの道は開かれた。私たち人間の側で必要なことは、自分はそのままでは地獄に行くべき罪人であることを認めること、これまで神を知らず、義なる神に背いて生きてきたことを認めること。そしてキリストの十字架は私の罪のためと信じ、十字架につけられたキリストをわたしの救い主と信じることである。人は善行、修行、努力によって救われるのではない。何をしても私たちの罪は残ってしまう。罪からの救いのために必要なみわざは、すべてキリストがしてくださった。

キリストを信じるだけで救われるなんて簡単すぎやしないかと人は言う。しかし、キリストが私たちの罪のためにしてくださったことは決して簡単なことではなかった。全人類の罪を背負って罪の審判を受けるということは簡単なことでなかった。すべての人の罪がキリストにのしかかり、キリストは血を流し、たましいは押しつぶされ、地獄の裁きを受けられた。これは簡単なことではなかった。通常、十字架につけられた者は1~2日間、生き延びる。だがキリストは6時間で果てた。それは私たちの罪の身代わりとなるということがどれほど過酷なものであったかを物語っている。キリストが私たちのために払われた犠牲は簡単なことではなかった。

私たちに必要なことは、悔い改めて、十字架を見上げ、キリストを信じる信仰。聖書は気が遠くなるほど長い間輪廻転生して修行をすれば救われるとは言わない。架空の仏様に祈り信頼すれば救われるとは言わない。私たちは誰を罪からの救い主と信じ信頼すべきだろうか。神であり、歴史上に実在してくださった救い主、私たちの罪のために身代わりとなってくださったお方、主なるイエス・キリスト。このお方を信頼し、信じていただきたい。信じた時に救われ、死は天国の扉に変わるのである。キリストは、死で終わったのではない。よみがえり、今も生きておられる救い主である。死んだ人を神さまにして拝んでいても希望はない。けれども、キリストは死からよみがえられ、天に昇られたお方である。

最後に、もう一つのたとえを見て終わろう。「倉のたとえ」である(51,52節)。キリストは13章から始まった天の御国のたとえの結論として、このたとえを語っている。キリストは一連のたとえを語られた後、「これらのことがみなわかりましたか」と弟子たちに問いかけ、彼らは「はい」と返答した。つまりは、彼らはキリストを通して、心の倉に、知恵、真理を蓄えたということになる。では、それらは蓄えただけでよいのだろうか。そこで52節のたとえが語られる。「自分の倉から取り出す」の「取り出す」ということばにポイントが置かれている。蓄えた知恵、真理というものは蓄えっぱなしにしておくのではない。独り占めにしているというのではない。宝の持ち腐れであってはならない。それらは、必要に応じ、状況に応じ、相手に応じ、取り出していくということである。それだけ豊富な内容のものを、主は私たちに与えてくださる。「新しいものでも、古いものでも」という表現が、その豊富さを暗示している。主は豊かな知恵を、真理を、みことばを通してくださる。私は聖書のみことばは、無尽蔵の知恵の宝庫と思っている。それを心の倉に蓄えよう。そしてそれを取りだし、人生のあらゆる場面、局面で生かし、人々のために用いていこう。