皆さんは宝というと何を思い浮かべられるだろうか。宝石箱を思い浮かべられる方もおられるかもしれない。神さまにとっての宝は私たち。「宝」という漢字の意味を調べてみたら、「比喩的には、かけがえのない人」となっていた。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43章4節)。神は私たちを宝であると思ってくださっている。ほんとうにそれが宝であると思っているなら、宝を得るためにはどんな犠牲もいとわない。今日の箇所でも「持ち物を全部売り払って」という犠牲が書かれている。神さまが私たちのために払ってくださった犠牲は、イエス・キリストの十字架である。キリストは、天より降り、尊い犠牲を払ってくださった。キリストは鞭打たれ、殴打、痛ましい傷、呪いのことば、茨の冠という恥辱と痛みを偲び、唾せられ、葦で叩かれ、十字架を負わされ、釘打たれ、その苦しみに耐えに耐えた。肉体は悲鳴を上げ、血を流し、そのたましいは裁きで押しつぶされた。キリストが成し遂げられたことは、私たちを救い出すために贖いの代価を払われたということ。その贖いの代価とは、ご自分のいのち。「持ち物を全部売り払って」以上の姿である。ご自分のいのちを差し出したわけだから。神は私たちを宝のようにみなし、尊きひとり子を犠牲にし、救い出してくださった。では、私たちは何を、誰を宝にしたらよいのか?

今日は二つのたとえを見るが、最初は「畑に隠された宝」である(44節)。貴重品を地面に埋めるという行為は、当時、一般的であった。というのは、当時、銀行があるわけではないし、その他の公けの保管所があるわけでもなかったからである。多くの人は自分の貴重品を守るために、土地に秘密のスポットがあった。お金が必要になったり、宝石類の売買、交換の必要が生じた時、人々は夜中、それらを埋めている場所に出かけ、壺や箱を掘りだして、必要なものを取り出して、また戻した。パレスチナは数百年間にわたり戦場であったので、敵軍の略奪から守るために、食糧や衣服といったものまでも地面に隠したりした。ユダヤ人の歴史家ヨセフスは、「ユダヤ人が所有していた金、銀、その他の高価な家財道具は、地下に貯蔵され、戦争に耐える宿命にあった」と語っている。長年にわたってパレスチナの地面は、他からの貯蔵庫であった。

宝を埋めた所有者が死んだり、強制的に他国へ連れ去られたりしたとき、その埋めた宝は、誰かが偶然発見しない限り、そのままとされた。

「人はその宝を見つけると、それを隠しておいて」。この人は歩いていたら、地面に突き出ている宝の箱につまずいたのかもしれない。もしくは、その人は雇用労働者で、耕したり刈り取りをしているとき、地面が掘れて、偶然に見つけてしまったのかもしれない。彼は、この発見を人には教えないで、誰にも取られないように隠してしまう。埋戻しのようなことをしたのだろう。

彼は「大喜びで帰り」、そのあと、どうしたのか。「持ち物を全部売り払って、その畑を買います」。持ち物を全部売り払っても、十二分におつりが来る。だから、持ち物を全部売り払って買うという犠牲は少しも惜しくない。ところが、多くのクリスチャンは、この行為は倫理的とは思えないと、当惑させられる。というのは、宝はその地所に属する。ということは、その宝はその土地の所有者のもの。そのことを黙って畑を買っていいものかと。ずるいにもほどがあるのではないかと。

このたとえのポイントは倫理的要素にはなく、あらゆる犠牲を払っても宝を得るということにポイントがある。そして、実は、44節の行為は、当時にあって正当化されるものである。その理由は第一に、埋められた宝は、現在の土地の所有者が埋めたものではないということ。というのは土地の所有者は、自分の土地に宝があるということに気づいている節はない。売買によって自分のものとした土地だとしても、畑の相場の値段で取引したにすぎないだろう。第二に、当時のユダヤのラビの律法では、「もし散らされた果実や散らされた金を見つける人がいるならば、それは見つけた人のものである」と規定されていた。見つけた者勝ちであった。第三に、この人は宝をこっそりと持ち出し、自分のものにしようとしなかった。宝が埋められている畑を、持ち物を全部売り払って買おうとした。不正な行為は一切していない。

さて、私たちは、このたとえを積極的にとらえたい。宝を得るためにはどんな犠牲を払っても惜しくないのだから、そうすべきであるということ。では私たちにとっての宝とは何か。それは様々な言い方が許されるだろう。永遠のいのち、朽ちない天の富、天の御国、そしてこの宝をキリストご自身と言い換えてもいいだろう。なぜなら御国という概念において王が意識されているからである。キリストは天の御国の王である。キリストのうちにすべての宝が隠されているといって良い。

私たちはキリストのすばらしさをどれだけわかっているのだろうか。小さい子どもの前に、お金とともに、ビンのふたや牛乳ビンのふたを置くと、ビンのふたの方を選んでしまうことがある。同じような価値観で、キリスト以外のものに強く心を寄せてしまう私たちがいる。けれども、キリストにまさる宝はない。

次は「すばらしい値打ちの真珠のたとえ」を見よう(45~46節)。「商人」とは、物を売ったり買ったり、転売している卸売商人のことである。商人は価値の高い物品を捜して国々を旅していた。この商人は良い真珠を捜していた。真珠はご存じのように、海に潜って獲るものであるが、多くのダイバーはこれで命を失い、健康を損ねたという。しかし、そうした危険を冒しても、真珠を獲ろうとした。なぜならば、真珠は高く売れたからである。

真珠は古代世界にあって、最も価値のある宝石であった。それは今日のダイヤモンドに匹敵する。真珠は大きさ的には小さい。しかし良い真珠には莫大な価値がついて回る。エジプトやローマでは礼拝の対象と言っていいくらいあがめられた。そして、ユダヤ人、異邦人の女性に共通して、装飾品として好まれた。その証拠にテモテへの手紙第一2章8節では、派手な装飾を戒めるために、「同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、」と言われている。キリストがマタイ7章6節で「豚の前に真珠を投げてはいけません」と言われたとき、真珠は非常に高価なものであるということを前提として語っておられる。この場合、真珠とは福音の比喩である。

ローマ皇帝カリギュラの妻は、真珠に莫大な財をつぎ込んだという。彼女は真珠を髪の毛に、耳に首に手首に指に飾った。クレオパトラは、今日の値段で数百万ドルに値する非常に高価な真珠を2個所有していたという。当時の富の象徴は真珠であった。「すばらしい値打ちの真珠のたとえ」と先の「畑に隠された宝のたとえ」の違いは、畑に隠された宝のほうは、日常生活の中で偶然に発見したということだが、しかし、このたとえでは、捜し求めて、探求して見出したということ。真珠の求道者であった。

このような寓話がある。ある人が船に乗っていて、海に真珠を落としてしまった。この人は船が陸地に着くや否や大きな器で海の水を汲んで捨て始めた。彼が三日間粘り強く水を汲み出し続けたとき、亀が出て来て質問した。「あなたは何のために水を汲み出していますか」。「海に落とした真珠を捜すためです」。「あなたはいつまでこの水を汲み出すつもりですか」。「むろん、海の水を全部汲み出すまでやるよ」。これを聞いてびっくりした亀は、海の中に急いで潜って行って、真珠を捜し出して彼に与えたそうである。海の水を全部汲み出すまで、と迷うことなく言うくらいの探究心、追求心があればすばらしい。

二つのたとえで共通していることは、「持ち物を全部売り払って」それを買ったということである。キリストにある救いというものは小さなものに見えるかもしれないけれども、そこに含まれている天の御国の富、栄光、それらは計り知れない価値がある。では、この世の宝と天の御国の宝を、聖書箇所をいくつか開きながら比較してみよう。

「また、朽ちることも汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらはあなたがたのために天にたくわえられているのです。」(第一ペテロ1章4節)。真珠は価値があるといっても、強い酸をかければ溶けてしまう。しかし永遠不変の不滅の資産というものがある。

「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります」(第一ペテロ1章7節)。信仰の試練と金が比較されている。御国のために払う犠牲自体、朽ちて行く金よりも尊い。金メダルより価値がある。

「・・・それどころか、私の主であるキリストを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」(ピリピ3章5~8節)。これは使徒パウロのことばであるが、パウロの血筋、家系、学歴、肩書、人物評価はどれも一級品であった。しかし、それらをキリストと比較するならば「ちりあくた」、別の言い方をするならば糞尿と思えるほどとなった。パウロはキリストに最大の価値を与えている。

「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」(コロサイ2章3節)。このことばは、少数の人しか持ちえないとされていた知恵や知識を宝として誇る人たちがいたことが前提としてある。だが真の知恵と知識はキリストのうちにあるということを言いたい。

人は目に見えるもの、目に見えないもの、様々なものを宝とするわけだが、次のように表現する人もいる。「人々が最も好む財産は、彼らのもろもろの罪である」。人々は罪を恋い慕っている。罪を宝としている。そんなことがあっていいのか。しかし、これが世界の現状ではないだろうか。人々は罪を恋い慕い、そこから離れられない。しかし、罪がもたらす報酬は永遠の死である。しかし、まちがった宝の奴隷となっているのが人間なので、こうしたまちがった宝から救ってくれる救い主が必要である。

チャールズ・スポルジョンというイギリスの有名なバプテスト派の牧師がいた。彼はクリスチャンホームに育った。彼は特に不道徳な少年でもなく、自分の生き方は基本的にこれでいいと思っていた。彼が15歳になった1月のある朝、なぜか教会の礼拝に出席しなければならないと思った。その日の雪と寒風はひどかった。でも彼は家を出た。無意識のうちにほんとうの宝を求めて。彼は、この寒さはたまらんとばかりに、小さな教会に入り込んだ。そこは小さなメソジスト教会。説教者がこの悪天候で礼拝が遅れてはならないとばかり、指揮し、礼拝が始まった。会衆は15人。説教者はさえない人に見えた。説教箇所はイザヤ45章22節。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」。説教者は何も言わないで、ただこれを繰り返したという。説教者の目がスポルジョンを捕えた。「若者よ。あなたはみじめに見える。もし、あなたが、この聖書のことばに従わないならば、人生においてみじめになり、死においてみじめになるだろう」。そして、その説教者は叫んだ。「若者よ。イエスを見よ!見よ!見よ!」。スポルジョンは言っている。「わたしは見た。たちどころに雲は消え、暗闇は過ぎ去った。その瞬間、わたしは御子を見た」。それは不思議な朝であった。「イエスを見よ!」と言われ、彼は見たのである。彼は宝を発見してしまったのである。

使徒の働き8章には、馬車の上で聖書を読んでいるときに、この宝を発見した宦官の物語がある(使徒8章26~29節)。

日本でもキリスト発見の様々なドラマがある。宗教を遍歴して最終的にキリストを発見した人、試練を通してキリストを発見した人、様々である。キリストはかつてこう言われたわけである。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすればみつかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7章7節)。キリストはポケモンゴーではみつからない。キリストは教会を通し、聖書を通してみつけることができる。キリストだけが私たちのたましいの飢え渇きを満たし、キリストだけが死に打ち勝ついのちと永遠の祝福をもたらしてくださる。

最後にクリスチャンの方々にお話したいが、さらにキリストを知ることに努めよう。キリストの臨在のすばらしさは、普段の生活の場で、祈り心で生きている時に知ることができる。ある有名なことばに次のようなものがある。「石を持ち上げなさい。そうすればあなたはわたしを見いだすであろう。木を割りなさい。私はそこにいるだろう」。これは、石工が石を刻むとき、キリストはそこにおられる、木工が木でものを造るとき、キリストはそこにおられる、ということばである。普段の生活の場でキリストを見いだすようにということばである。ブラザー・ローレンスという有名な聖徒は、台所でよごれた皿を洗っているときのことを次のように語っている。「わたしは聖餐にあずかる時のように、台所でイエス・キリストを近く感じた」。日常生活の場で、私たちはキリストの臨在を喜ぶことができる。キリストを王として花婿として知っていこう。キリストは私たちの誉れ、宝、喜び、すべてのすべてなのである。