1967年(昭和42年)、「大きいことはいいことだ」というキャッチフレーズが流行語になった。森永エールチョコレートのCMで流れたことばである。日本の高度経済成長のシンボルとなった一つのことばである。イエスさまは天の御国も大きくなると言う。けれども「大きいことはいいことだ」と、経済力や軍事力、大々的な宣伝広告で成し遂げようとはされない。天の御国は、この世の国とは性質が異なる。

13章から天の御国のたとえ話が始まっている。前回は「毒麦のたとえ」を学んだ。今日は「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」を学ぶ。この二つを見ていく前に、「天の御国」について触れておく。これを地上の上にある「天国」と解したらまちがいである。ユダヤ人は、神の名は神聖であるとして、それを口にすることをはばかった。ですから「神」ということばを使用する代わりに「天」を用いることがあった。マタイの福音書はユダヤ人を強く意識して書かれている。だから、「天の御国」は、普通に表現すると、「神の国」ということになる。天の御国のたとえは、神の国の性質を教えるたとえということになる。

神の国はすでに訪れた。イエスさまの来臨によって。イエスさまの宣教によって。イエスさまがその神の国の王である。だが、この神の国はまだ完成しておらず、発展途上である。よって、神の国は「すでに、いまだ」の世界。イエスさまが再臨し、天と地が一つになる時、神の国は完成する。それを聖書では「新天新地」と呼んでいる。私たちはイエスさまが再臨し、神の国が完成するまで、「御国が来ますように」と祈り続け、宣教に励むわけである。

国を築くということを考えるとき、一般には、大げさな自己アピールや政治的騒動や、金の力、軍事力といったことを想像してしまう。当時のユダヤ人は、メシヤが王として華々しいデビューで出現し、威勢よく周囲の国々を力で蹴散らし、ユダヤ人のために王国を築いてくれることを期待していた。それが彼らにとっての天の御国の建設であった。それはイスラエル王国の再建ということであった。イエスさまの認識とはかなりずれていた。イエスさまがしておられることは、どちらかと言うと地味。政治的に目立ったことはしない。自己アピールも今一つ。「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もいない」(12章19節)。みことばを教え、いやしのみわざをしておられたけれども、国を建て上げるという行動としては、はっきりしたものが見えてこない。地味で活動の意味が不明瞭にも見える。バプテスマのヨハネも、イエスさまは御国を建て上げる気はあるのか、別の方を待ったらほうがいいのかと、疑心暗鬼になってしまったほど(11章3節)。しかしイエスさまは、見えてこない小さな働きのようであっても、将来はこうなると、たとえで語っておられる。

では初めに「からし種のたとえ」を見よう(31~32節)。このたとえは「生長のたとえ」とも言われている。ここで言われているからし種はアブラナ科に属し、大きさが1ミリ代の小さな種である。4月中旬頃から咲き出し、人の背丈よりも大きくなる。小さな黄色い花をたくさんつける。どのくらい生長するかというと、中には4メートル以上になるものをあるという。そして、その枝に鳥が宿る。鳥はこの木になる小粒の黒い種を好み、木に止まってそれを食べた。

イエスさまと弟子たちがしていた働きというものは、イスラエル人が期待している御国をもたらすためには、取るに足らない働きと思われたであろう。そのような評価、非難を念頭において、からし種のたとえを語っておられる。

実は、からし種は種の中で一番小さい種ではない。いとすぎの種などはもっと小さい。だが、からし種は、当時において小さいことの代名詞になっていた。小さいものの比喩として用いられた。たとえばユダヤ人は、「一滴の血は一粒のからし種のように小さい」と表現していた。他にもからし種を用いて小さいことを表わす言い回しがあった。イエスさまは、当時なじみのある表現を用いて、御国の性質を言い表そうとしている。「栄光ある御国をもたらすために我々がしていることは、取るに足らない小さな働きかもしれない。しかし今に見よ」と。

からし種のたとえの中で、「空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります」と言われているが、この表現は旧約聖書に通じていた人たちにとってはなじみのある表現である。たとえばエゼキエル書17章23節を見よ(他;エゼ31章6節 ダニ4章12,21節)。旧約聖書のみならず、東洋では大帝国を木にたとえ、支配される属国を枝に止まる鳥にたとえることがあった。エゼキエル書では、メシヤの支配が全世界に広がり、全世界を包含してしまうことを述べているわけだが、からし種のたとえもそれと似ている。つまり、ちっぽけに見えて小さな始まりである神のご支配が、やがては全世界、全人類をその支配に置く、そういう趣旨である。このビジョンは預言書のみならず、黙示録等においても描かれている。

続いて「パン種のたとえ」を見よう(33節)。「パン種」というものも、小さなもののお決まりの比喩であった。でもユダヤ人は、パン種というとき、いつも悪い影響力を想像した。つまり発酵して腐敗させてしまうと。パン種はイースト(酵母)のことではなく、麦粉を練って、十分に発酵した練り粉の一部分のこと。その練り粉を新しい麦粉に混ぜて発酵させた。この練り粉は古くなりすぎると腐敗につながった。

イエスさまはパン種を悪い影響力の象徴として使用されたことがあった(16章6節)。そこでは「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」と言われている。パウロも「古いパン種、悪意と不正のパン種」と述べ(第一コリント5章8節)、パン種を悪い影響力の象徴として使っている。しかしイエスさまは13章においては、パン種を良い影響力に変換して用いている。

パン種が入らないパンは固く、乾いたビスケットのようで味がなく、舌触りがよろしくない。パン種を入れて焼いたパンは柔らかくて、ふかふかしてくる。ここでパン種が用いられている理由はパン種の変革力にある。小さなパン種を粉の固まりに入れると驚くべき変化が起こる。ここで「三サトンの粉の中に入れると」とあるが、欄外註にあるように一サトンが約13リットル。三サトンで39リットルとなる。39リットルのパン粉をこねて、どのくらいの量のパンができるのか良くわからないけれども、ある方は、大家族であるイエスさまの家族で焼く場合に使うぐらいの量であると言う。またある方は150人分のパンができるとも言っている。

このたとえは、小さな種から鳥が宿るほどの大きな木になると同じような表現に想われるが、同じようで同じでない要素がある。パン種を入れた結果、「全体がふくらんで来ます」と言われているが、「ふくらむ」と訳されていることばは、「パン種」という名詞から生まれた動詞。つまり「全体がパン種化します」「全体がパン種になります」ということなのである。単にふくらむとか、大きくなるとか、そういう大きさのことだけが言われているのではない。パン種を入れただけで、「やがてその全体がパン種化する」という性質の変化を言いたいわけである。小さな始まりに見えながら、しかし大きな全体を変質させてしまう。神の支配が全体に浸透していく、影響力を与えていく、全体の性質を変えてしまう、そういうことである。

以上が二つのたとえの要旨である。小さなからし種、わずかなパン種、それだけを見てしまうと、これがどんな役に立つのかと思えてしまう。余りにちっぽけで。しかし、そこには驚くべきいのちが、効力が秘められている。男が蒔く小さなからし種、あるいは女が混ぜたわずかなパン種、これらは、当時のイスラエルの中で、人々から軽んじられて始まったナザレのイエスの運動、その働きを表わしていることはまちがいない。そして人数的にも小さく始まった。イエスさまは弟子たちに対して「小さな群れよ。恐れることはありません」(ルカ12章32節)と言われたことがある。彼らは取るに足らない者たちのように見えたが、彼らにはキリストのいのち、聖霊の力が注がれた。彼らの働きは周囲に広がっていった。彼らが主眼としたのは福音宣教である。それはみことばによる神の国運動と言えるかもしれない。イエスさまは、「全世界へ出て行き、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16章15節)と命じられた。これが実践され、神の国は前進し、拡大を続けた。

今日のたとえは、神の国の目だたない生長を教えているのだという見解もある。草花が人の知らぬ間に育つように、神の国もそうである。パンの固まりの中のパン種の作用も目立たないように、神の国の拡大もそうである。神の国の作用というものは一見、目立たなくても、人間生活の中に、そして歴史の中に絶え間なく働き続け、やがて栄光の御国が樹立されることになる。私たちはそれを待ち望む。

今日の箇所から教えられなければならないことは、クリスチャンは自分たちのことをつまらない者だと思っても、この世界のために大切な役割を担っている重要な存在であるということ。福音を手にしているのはクリスチャンだけなのであるから。だから自分が住む地域に対して責任がある。市の職人や役人以上に、重要な使命を担っている。神の国拡大のために責任を担っている。家族に対しても責任がある。その自覚がなければ、内向きになって、生命力というか、影響力、感染力を失っていく。パン種の作用ということで今一度考えてみよう。キリストを救い主として心のうちに受け入れたとき、私たちの心に御国が訪れたと言ってよい。また、「二人でも三人でもわたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるのです」(18章20節)との約束から、キリストを信じる者たちのただ中に御国があると言ってもよい。この御国の前進、拡大のために、キリストのいのちをいただいた私たちは、感染力、伝染力をもって周囲に影響を与えていく責任がある。私たちは御国のいのちを持っている神の国のしもべである。

各国から青年たちが集まって、伝道について話し合われた時のことである。アフリカからきた一人の青年女子がこう言ったそうである。「私たちが村にキリスト教を伝えようとするときには、本は送りません。その代わり、クリスチャン一家族を選んで、その地に送って住まわせます。この家族はそこに住むことによって、その村の人をクリスチャンにするのです」。すばらしいビジョンである。会社、団体、学校、商店、工場、家庭、市町村、どこであっても、そこに御国のいのちを持っているクリスチャンがいれば、変化は生まれるはずである。その変化はまた、救いということにとどまらないはずである。

ローマ帝国の国教がキリスト教となった時代のこと、しかし、なぜかローマでは、なお「剣闘」(剣を使っての殺し合い)が行われていた。競技場で剣士が戦って血を流すのを、群衆は熱狂して見ていた。テレマックスという名の信仰の篤いことで知られる聖徒がいた。彼は神にうながされて競技場へと急いだ。そこには8万人の観衆でうまっていた。彼は戦慄を覚えた。殺し合っている者たちもまた信仰者を名乗る者たちであったからである。彼は席を蹴って競技場の中央へと進み、剣士の間に割って入った。彼はすぐに放り出された。群衆は怒り、彼に石を投げつけた。しかし、彼はあえぎながら、もう一度、剣士の間に立った。だが闘いの合図は下り、剣が日光にきらめいた・・・。テレマックスは死体となって横たわった。一瞬、競技場は静まり返った。群衆は何が起こったかを知った。名高い信仰篤い人物が殺されてしまったのである。だが、彼の死は無駄死にではなかった。ローマではこの日から剣闘が消え去ったのである。それは一人のクリスチャンの信仰の決断によった。

私たちは事の大小は別として、クリスチャンは誰でも、置かれた所で、神にあって何か変化をもたらすことができるはずである。先に見たように、イエスさまは、「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」と言われたが、では、真実なクリスチャンのパン種とは何だろうか。真理、清さ、義、平和、永遠のいのち、愛といったパン種であろう。それが御国の性質だからである。イエスさまは今日のたとえを通して、私たちにこう語りかけているのではないだろうか。「気を落とすことなく、それぞれの場所で仕え、また証しなさい。みことばを伝えなさい。一人ひとりが祈りつつ、何かを始めることができる。それはたとい小さくてもいのちのある働きであるならば、無駄にはならないはずだ。神の支配を見ることができるはずだ。神の栄光が現されるはずだ」と。私たちは、周囲がまことの神に対して無関心でいるのを見過ごしているわけにはいかない。人々が偶像崇拝をしているのを指をくわえて見ているわけにはいかない。人々が滅びに向かっているのを黙って見ているわけにはいかない。罪から来る不幸をそのままにして見過ごすわけにはいかない。私たち一人ひとりが神によって救われた意味を汲み取って、キリストのいのちを宿す神のしもべとして、周囲と向き合っていこう。キリストが私たちを通して働いてくださることを期待し、主の栄光を拝させていただこう。