マタイ13章は、天の御国のたとえが続いている。18~23節「種まきのたとえ」。24節からは「毒麦のたとえ」「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」と三つ続いている。今日は「毒麦のたとえ」を学び、次週は「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」を学びたい。畑にだれかが毒麦をまいた(24~25節)。この情景は日本ではわかりにくいものだが、パレスチナの聴衆にはなじみ深く、実際に見ることができるものであった。毒麦は農夫にとっては頭痛の種で、これを取り除くには大変な苦労があった。毒麦は茎が長い「ほそむぎ」と呼ばれる一種の雑草で、苗が若い時期は麦と非常に良く似ていて、ほとんど見分けがつかない。だが穂が出て来ると、その違いがわかる(26節)。しかし、その頃には麦と毒麦の根が絡み合っているので、毒麦を抜き取れば、良い麦の根まで抜けてしまった。トムソンという方は、麦畑で実際に毒麦を見た時のことをこう書いている。「麦の発育状態は、ちょうどあのたとえ話に出て来るのと同じである。麦の穂が出て来る頃には毒麦の穂も出て来る。すると子どもでも毒麦と麦を間違えることはないが、それ以前は注意して見ても見分けがつかない。私などは鑑別する自信が全くない。この国で草取りをしている農夫でも、麦と毒麦をより分けようとしない。良い麦を毒麦と思って抜く場合もあるし、また根が絡み合っているから、毒麦を抜けば良い麦も抜けてしまうからである。そこで刈り入れの時までは、両方とも育つままにまかせておかなければならない」。だから、たとえの主人は29節、30節前半で、収穫まで毒麦をそのままするように告げている。

毒麦は麦と非常によく似ているので、ユダヤ人はこれを「偽りの麦」と呼んだ。毒麦のことをヘブル語で<ズネム>と言うが、<ズネム>は<ザナ>と関係があることばである。<ザナ>は「姦淫する」という意味である。そこで、このような伝説が流布した。毒麦が発生したのはノアの洪水以前の悪の時代で、その頃、植物までもが神を離れて姦淫を犯し、その結果、もとの本質に反した子孫が生まれたという。

この毒麦はほんとうに毒を含んでいるという。ほそむぎの穀粒(こくつぶ)は軽度であっても有毒で、めまい、吐き気、しびれを起こし、穀物に少しでも毒麦が入っていると、苦くて、いやな味がするという。

麦と毒麦は最後には選り分けられた。レヴィソンという方は、その過程を次のように描写している。「製粉する麦から毒麦を選り分けるために女たちが雇われた。毒麦を取り出す操作はたいてい脱穀後に行われた。すなわち、女たちは大型の盆の上に穀物を広げて、毒麦を取り出した。毒麦は型と大きさは麦に似ているが、色が石板色をしていた」。

レヴィソンは脱穀後に麦と毒麦を選り分けたと言っているが、たとえでは、刈り入れの際に分けることが言われている(30節後半)。毒麦は刈り取って束にして焼くように言われている。ということは、束にするほど毒麦は多いということがわかる。なぜこんなに多いのか。その理由は25節に記されている。「人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った」。これも実際あったようである。インドでは敵に言い渡すおどし文句の中に、「お前の畑に悪い種をまくぞ」というものがある。パレスチナでもこうしたいやがらせが、時々行われていた。ある男が悪意をもって他人の畑に毒麦をまいた。似て非なるものが大量に畑に混在した。しかも、それは毒を含んでいるときて、やっかいなことになってしまうわけである。おそらく、こうした場合、刈り入れの際にまず分けて、そして脱穀後に、なお混じっている穀粒を選り分けたのだろう。

このたとえの意味を弟子たちは理解できなかった。でも知りたかった。イエスさまは「毒麦のたとえ」の解釈を36節以降でしておられる。たとえを理解する意味で、7つのシンボルの意味を確認しておきたい。①37節「良い種をまく者」=「人の子」すなわちイエス・キリスト(「人の子」という表現は終末時代に出現する人のかたちを取ったメシヤを意味)。②38節「畑」=「世界」③38節「良い種」=「御国の子どもたち」すなわち真のキリストの弟子たち。④38節「毒麦」=「悪い者の子どもたち」すなわち、偽のキリストの弟子たち、偽キリスト者たち。⑤39節「毒麦をまいた敵」=「悪魔」⑥39節「収穫」=「この世の終わり」すなわち、この時代の終わりの審判の時。⑦39節「刈り手」=「御使いたち」御使いは黙示録にあるように、終わりの時に世界の審判に携わる。

この毒麦のたとえは、幾つかの点で示唆を与えてくれる。五つのポイントで見てみよう。第一に、この世界はキリストと悪魔の異なる霊性の戦いの場になっているということである。この世界は一つの霊性しかないという世界観が現代では主流になってきている。すなわち、すべてを一つの神の中に包含してしまう。すべてが神の分身となる。悪魔など存在しないとする。真実は、この世界はキリストと悪魔の対決の場であるということである。麦と毒麦の混在がそれを示している。しかし毒麦は麦と「似ている」というやっかい性がある。見分けが難しい。しかし「似ている」ということばには無限の隔たりが隠されている。真理と偽りには本質において隔たりがある。それは全く反対の性質で、光と闇ほどの違いがある。

第二は、世の終わりまで、神の国の子どもとそうでない子どもが混在するということである。このたとえは、異なる種類の共存、混在ということが世の終わりまで続くことを教えている。ユニバーサリズムといったカトリック等に見られる考え方がある。それは、全世界のすべての人が救われるという考え方である。他宗教やニューエイジムーブメントでは、人は生まれながらにして神の子という考え方がある。いずれにしろ、このたとえの教えに反している。このたとえは、地上に置かれる人々に区別を設けている。マタイの福音書は一貫して、この区別を強調していく。

第三は、神の国の子どもとそうでない子どもの区別はつけがたいということである。麦と毒麦の区別は余りはっきりわからない。あいまい、不明瞭である。たとえば、これはキリスト時代からあった。十二弟子の一人は毒麦であった。けれども周りはわからなかった。また人々の見方では、パリサイ人や律法学者が良い麦で、取税人たちは毒麦と決めつけることができた。けれども、事実はそう単純ではなかった。キリストについていった収税人、遊女たちは毒麦ではなかった。ではパリサイ人はみな毒麦かといえばそうではなく、ニコデモといったパリサイ人たちが良い麦として示された。だから、即断は禁物である。それは、現代のキリスト教の中にあってもそうである。偶像崇拝許容のカトリック、けれども彼らの中にも良い麦はいるだろう。またプロテスタントを標榜するからといってそれで良い麦とはならない。聖書信仰がない教派に属する人々、

カリスマ的信仰で、しるし、不思議、体験を強調するグループ、瞑想で聞こえてくる声や幻視を神の啓示と同等にするグループ、そうした人たちの中には偽教師たちが多い。けれども、こうした教派、グループに属しながら、良い麦として歩んでいる人々もいる。また型破りで個性が強すぎて良い麦に見えないクリスチャンが、後に良い麦と認められる人たちがいる。

区別はつけがたいのに、安易に区別して、悲惨なことになってしまった例は尽きない。過去を振り返れば、16世紀、プロテスタントの黎明期において、カトリックの中で改革運動を始めた人々は毒麦扱いされ、迫害を受け、死刑ともなった。信仰告白に基づく浸礼を主張したバプテスト派は毒麦扱いをされ、数万人殺害されたとも言われている。また一般の人々も知る証にも何にもならない宗教戦争の歴史がある。政治的要因も大きく絡んでいたが、両方が神の名において殺し合いをした。17世紀の三十年戦争はカトリックとプロテスタントの争いで始まったが、ドイツでは1600万人の人口が三分の一の600万人まで激減してしまったと言われている。これらは、今日のたとえの教えを軽視した痛々しい事実である。また15~18世紀には、魔女狩りと称して、無実の女性が少なくとも数万人命を失っていった。数十万人という見積もりもある。あとでその過ちを認めても、遅しである。

第四は、今も少し触れたが、急いで裁いてはならないということである。気持ち的に、急いで毒麦を取り除いてしまいたくなる。だが毒麦といっしょに良い麦も抜いてしまうかもしれない。つまり、やりすぎて、良い麦まで抜き取ってしまうかもしれない。聖書は異端の教えを注深く見分け、それらを遠ざけるように、偽教師を見分けるように、異端となってしまった人たちを教会から出し、つきあうことを避けるようにと命じている。そうして教会の純粋性を保つようにと。特に、パウロやヨハネの手紙では、そのことが力説されている。真理の霊と偽りの霊を見分けることに神経を注がなければならない。また聖書は悔い改めない信者への戒規処分も命じている。このたとえは、こうしたことを否定しているのではなく、強調は、安易な裁きへの戒めということにある。偽りには敏感でなければならないが人に対して安易な裁きはしないというバランスが大切である。少ない情報や直感や偏見で、すぐ裁いてしまう人たちがいる。

教会レベルで見ると、裁くのが得意で、他教派、他教団とは交わらないという教会グループがある。正しいのは自分たちだけという信念である。自分たちと同じく別のグループが聖書信仰を標榜していても、教理に違いがあるといって交わろうとしない。もちろん、超教派的な働きにも一切係わろうとしない。良い麦は自分たちだけだと思っているかのようなふるまいである。そのような閉鎖的な精神は奨励できない。ネットワークを組んで、ともに福音宣教に励まなければならない。

この裁きに関連して、人々の救いについても考えてみたい。良く聞く話だが、この人がクリスチャンになったら良いのにという人ではなく、え~、なんでこの人がと思う人がクリスチャンになると言われている。確かにそうである。頭が固い偏屈屋が救われたり、行状が悪い人が救われたり、神をののしっていた人が救われたり、人に距離を置かれている変わり者が救われたり。だいいち、自分が良く救われたと思いませんか?誰が救われるかわからないので、せっかちな判断は禁物である。私たちがだめだと思っても、神の選びの中では良い麦になるかもしれない。

第五は、裁きの日は必ず来るということである。神は、いつまでも毒麦をほおっておかれるのではない。裁きの日は来る。神はご自身の権能をもって裁かれる。裁きの日、区別がつけがたい混沌とした状態に終止符が打たれる。キリストは毒麦への裁きについて、すでに山上の説教で言及しておられる。7章21~23節を見よ。「主よ、主よ」と口にし、主のみわざを行ったと主張する者たちに対して、「わたしから離れよ」、すなわち神の国の外側に置かれることが言われている。それを、今日の42節では、「火の燃える炉に投げ込みます」と描写されている。偽りの麦は、いつまでも良さを装っていることはできない。麦に似ているけれども、似て非なるものであることが露わにされ、正体を暴露され、厳しい裁きを受ける。裁きは神がなされる。

最後に、良い麦の終わりということを見よう(43節)。「そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます」。「正しい者」<ディカイオス>という用語は、マタイの福音書において、救われている者たちに適用される用語である。また、この文脈では、41節の「不法を行う者たち」との対比である。彼らは、しるし、不思議、悪霊追い出し、御使いを目撃した、神の声が直接聞こえてくる等、一見して、すぐれて高い霊性をもって神に仕えているように見えることがある。こうした場合、見分けの一つは、道徳性と言われている。つまり、神のしもべを装う彼らは、汚れ、不法を承認していることが多い。御霊の賜物を強調しているような彼らだが、御霊と相反する、偽り、肉欲、汚れを好んでいる。うそ、ごまかし、お金への執着、むさぼり、性的不道徳といったことをしている。それがバレて、この世で実刑判決を受けた者たちもいる。だが、それは人目に隠れていることが多い。しかし、神の前で隠し通すことはできない。「正しい者」と言われている人たちは、聖書はすべて誤りのない神のことばであると信じているとともに、みことばに従うことを心がけるだろう。悔い改めと信仰をもって、神に従い通すことをするだろう。

「太陽のように輝きます」という姿は、救われ、栄化された状態である。キリストは弟子たちの前で太陽のように輝いたことがある。「御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった」(マタイ17章2節)。この栄光の輝きに、やがて私たちも与る。これは、私たちはやがての時、キリストに似た者とされるということである。

最後に参考箇所として、ヨハネの手紙第一3章2,3節を開こう。ヨハネはキリストの再臨に言及して、「キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストにありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします」。私たちには「キリストに似た者となる」という終末的目標がある。そして、ヨハネのことばから気づくことは、「キリストに似た者となる」ことを目指す者は、罪から離れるということである。

毒麦は不法を行う。しかし、今すでに神の子であり、御国の子である者たちは、罪から離れ、神の義を求めていくだろう。世の終わりまで世界には毒麦と麦とが混在する。麦は罪から離れて生きるのであって、毒麦から完全に離れてしまうことを願うことはできない。麦の課題は、毒麦と麦が混在、共存、並存している中にあって、罪から離れて生きること。罪と戦い、キリストに似た者となることを切望していくことである。