今日の箇所は「種まきのたとえ」で有名である。皆さんも何度も読まれてきたたとえであろう。そらんじることができるくらい良くわかっている、と言う方も多いだろう。「種まきのたとえ」は、たとえの中のたとえと言って良いものである。

さて、「たとえ」というのは、本来難しいことをわかりやすくするために用いる手段と思う私たちである。けれども、キリストはそう言ってはおられない(13節)。「たとえ」ということば<パラボレー╱パラ+バロー>の意味は、「かたわらに置く」。つまり、言いたいことのかたわらに、それと似た話を置くことによって分からせるということである。だから、本来たとえというものは、分かりやすくて、聞いただけで意味がわかるというものである。ところがキリストのパラボレーは、もう本来のパラボレーではなくて「謎」に近くなっている。聞く耳がなければ理解できないという性質のもの。だからキリストは言われる。「耳のある者は聞きなさい」(9節)。心の耳を開かなければ、キリストが語られるたとえは謎の中に取り残されることになる。けれども、聞く耳のある者にとって、たとえは真理を理解するたとえになる。本来のパラボレーとなる。

弟子たちは10節で、キリストのたとえをなぞなぞとして受け止め、「なぜ、群衆に対してなぞなぞをされたのですか」と問うている。キリストは11節において、「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されているが、一般にはそうではない」と答えておられる。「天の国の奥義」の「奥義」とは「秘密」とも訳せることばであるが、「天の御国の奥義」とは簡単に述べると、「キリストによる救い」ということになる。聖書全体がキリストによる救いを啓示している。たとえというものは、真剣に求道する者にとっては、キリストによる救いを見いだすための助けとなる。しかしそうでない者には、たとえはただの謎にとどまる。たとえによって人々の心はためされ、振り分けられるということになる。12節はその振り分けについて語っている。「というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです」。すなわち、真理を探究し、神の国の奥義を探求し、キリストを救い主と信じた者はそのいのちをさらに豊かにしていく。しかしキリストを拒む者はいのちを失い、死の闇を増していく。だから、たとえを悟って、キリストによる救いに与る者は幸いなのである。

キリストのたとえはくるみにたとえることができるだろう。くるみの中身は豊かな滋養分がある。けれども堅い殻でおおわれている。問われるのは殻をむく気があるのかないのか。むく気がなければおしまいでる。キリストは真理の安売りをしようとはなさらない。13節からそれがわかる。つまり、キリストは真理をたとえで被って、その人の力をためす。求道心をためす。本当に求める気持ちのある人にしか、真理はわからないようにしておられる。そのためのたとえである。

どうやら、キリストのたとえを聞いた群衆の多くは、謎のまま取り残されたようである。それは14,15節のイザヤ書の引用で強調されている(14,15節)。「心は鈍くなり」「耳は遠く」「目はつぶっている」と、心の耳、心の目が問題とされている。頭の善し悪しではない。いわば、悟る心が大切であることが言われている。群衆に比べれば、弟子たちのほうはまだ悟る心を持っていたようである。弟子たちには、たとえの意味を解説される。

「種まきのたとえ」は一連のたとえの最初に位置づけられる。それには意味がある。「種まきのたとえ」は、みことばをどのような心で受け止めるのかという意味において、神の国の奥義を知るための基本的な心構えを教えている。だから、たとえの最初に来ている。持つべき心をもってみことばを受け入れていかないと、たとえに耳を傾けていかないと、キリストによる救いに与ることはできない。

場面は湖のほとりである(1節)。群衆に一番メッセージの声が通るのは、湖上から語ることである。それでキリストは、舟に乗って、岸辺にいる群衆に向かって語っておられる(2節)。キリストは群衆の心の状態を意識しながら「種まきのたとえ」を語る。種をまく人が種まきに出かけた。蒔いた種は四種類の土地に落ちる。

最初の種は道ばたに落ちた(4節)。道ばたとは耕作地を分割する狭い道のこと。畦道と言ったらよいだろうか。農夫は耕作地から耕作地に移動するのにこの道を通った。旅行者もまた通った。だからそこは固く踏みしめられている。耕作地に向かってまかれた種は道ばたにもこぼれる。けれども土は固いので、種は裸のままさらされる。その種は鳥の食糧になってしまう。とにもかくにも、種が跳ねてしまうような、受け入れない固さに問題がある。

二番目の種は岩地に落ちた(5,6節)。岩地とは、ごろごろした岩が転がっている所ではないと思われる。というのは、農夫はいつも、岩や石ころや、枝や、そういった障害物を取り除き、耕してから、耕作地に種をまいたからである。よって岩地とは、耕す深さ以上の地点に岩盤がある土地のことである。多くはそれは石灰岩であった。その上に土が乗っている。ここは一見、良い地ように見える。すぐに発芽し、最初だけ健康そうに育つ。けれども最初だけで、太陽熱であっけなく枯れてしまう。土が浅くて根を伸ばせないから。

三番目の種はいばらの中に落ちた(7節)。耕作された後のこの地は、最初は完全に良い地に見える。しかし、発芽し生長していく過程で雑草も目立ってくる。雑草はスペースを奪い、水、栄養分を奪い、生い茂り、太陽の光を奪い、やがて良い作物を窒息させる。今のように農薬のない時代なので、繁茂する雑草は深刻な問題である。

四番目の種は良い地に落ちた(8節)。土は柔らかい。根が張るのに十分な深さもある。さらに、雑草の種や根は極力混入していない。ただひたすら作物を育てたがっている地である。この一点に集中している。良い地に落ちた種は実を豊かに結ぶことになる。

皆様には、これ以上のことを話す必要はないかもしれないが、キリストのたとえの説き明かしにも耳を傾けよう(18~23節)。まかれた種とは、みことば。種が落ちた土は私たち人間の心である。

最初は「道ばたの心」(19節)。聞く耳を全くもたない頑なな心、固くて、みことばを跳ね返してしまう心。どうにもならない。みことばに全く関心がない。そのみことばは悪魔に強奪されて、その人の心には残らない。

二番目は「岩地の心」(20,21節)。「すぐに喜んで受け入れる」というのが先の心とは違う。すぐに受け入れる。喜んで感情的な応答を見せる。けれども、悔い改めとか、自分に死ぬこと、キリストに従う犠牲、そういうことは余り考えたくないので、長続きしない。熱しやすく冷めやすい。岩地は表面が浅い土で覆われているだけなので、この心の持ち主は、上っ面な信仰で終わってしまう。周囲からプレッシャーをかけられると、あっけなくこけてしまう。キリストにしっかり根ざしているわけではないので、ちょっとしたストレスで簡単に心がキリストから剥がれてしまうというか離れてしまう。日本では、信じたと思ったらすぐに卒業してしまう卒業信者が多いと言われているのも、この辺りも関係しているだろう。

三番目は「いばらの心」(22節)。キリスト一本のシンプルな心ではないということ。悪い意味で「この世への心づかい」が激しいし、お金に関する思い煩いに縛られてしまう。心の中に雑草がどんどん生えてきて、繁茂してきて、気がついたら心はジャングルになってしまっている。私はある時、みことばを読んで黙想していた時に、ジャングルのイメージが来た。自分の心はジャングルだと感じた。先々の不安、仕事や家庭の思い煩い、そしてストレスをこの世の慰めによって解決しようとするこの世への心づかい。そのジャングルの中で、イエスさまの後ろ姿を見失わないようにともがいている自分がいた。「世の心づかい」は、「生活の思い煩い」と意訳が可能である。心がいろいろなものでいっぱいになってきて、いろんなものが繁茂してきて、キリストに心を向ける時間も細ってくる。皆さんも、ご自分の心の情景を観察してみると良いと思う。

私たちは自分の心をいつも見張っていたい。常に主を賛美する心、感謝する心、主に拠り頼む心を見失わないようにするのである。常に主に心を向ける習慣を養うこと。ラジオを聴くために周波数を合せるように、主に心を合せることを心がけるということ。周波数を合せそこなうと、入ってくるのは雑音である。一日の終わりには個人で悔い改めの時ももつ。過日、悔い改めの祈りをしたことのないクリスチャンの話しを読んだが、あり得ない。今、もてはやされている人間観、心理学は、人間は神の原石であるということ。みがけば光る石になる。もともと人間は神性を帯びているのだということ。だから結局、罪を軽視し、悔い改めも不必要となる。こうした偽りに耳を傾けてしまうクリスチャンたちもいるので、気をつけたい。

四番目は「良い地の心」(23節)。この心の持ち主は、生活の具体的歩みとしては、デボーションを中心にして、常にみことばから教えられようとする心を失わず、みことばに執着していく。そして、みことばを心に深く根づかせる。心の表皮にではなく、心の核にみことばを宿そうとする。「みことばを聞いてそれを悟る人」とあるが、このような人は黙想を大事にして、丁寧にみことばを読み、大切な気づきを与えられるまで、みことばから目を離すことはしないだろう。表現を変えれば、良く咀嚼して心に留め、吸収するということ。別の表現を取れば、みことばを単に記憶するだけにとどまらず、自分の人生、自分の生活に浸透するまで、みことばを汲み取っていくということ。まさしく、みことばのために心が存在するようにする。ご存じのようにすぐれた農家の方は土作りを重視する。蒔こうとする種にあった土作りをする。種のための土。普通は団粒構造の柔らかい土を目指し、肥料も厳選し、もちろん、異なる種が土に混入しないように気遣う。私たちの心はみことばのためにある。みことばを柔らかく心の中に受入れ、みことばのための困難や迫害にも耐えて、雑草のような楽しみや、雑草のような数々の教えに振り回されず、シンプルにみことばに執着し、吸収していく。そして実を結んでいくということ。

この「種まきのたとえ」は良く知られている。しかし、どうだろうか。良く知られているだけで、このたとえを聞く耳をもって聞き、実践している人は多くはないだろう。良い地の心で聞くことができず、案外、みことばは、二の次、三の次とされてしまう。

しばらく前まではネオカリスマとも呼ばれる、しるし、不思議を強調する聖霊運動がもてはやされていた。しかし、ここ最近はネオカリスマにも新しい動きも出てきていて、「私たちはしるし、不思議を強調しません。静まって黙想して神の声を聞くことを重視します」と、いわゆる瞑想を目玉にして誘うグループも出て来た。それだけ聞くと、すばらしいではないかと思ってしまう。しかし、よくよく聞いてみると、瞑想して聞こえて来る神の声とは神の声ではなさそうなのである。彼らは、その声がみことばとズレていても、みことばと同等に扱ってしまうのである(例:IMMジャパン)。実は、瞑想中に聞こえてくる声を神の声にしてしまうのは、新興宗教、新々宗教、ニューエイジムーブメントの得意とするところである。そして、今はある意味、瞑想ブームである。大切なことは、黙想、瞑想、観想、どのような表現を取ろうとも、みことばを黙想するという姿勢である。みことばに集中し、みことばを黙想することである。

みことばの前後の文脈を軽んじて、受け取る人たちも実に多い。かなりのクリスチャンたちが、前後の文脈を無視して、都合のよい受け取り方をしている。また、だれだれ先生がそう言ったから、有名な学者がそう言ったからと、受け売りでみことばを受け取っている人たちも多い。

もうわかっている、と思うみことばでも、心をリセットして向き合う必要があるのではないだろうか。実は気づいていないことがまだたくさんあるのではないだろうか。私たちは、聞き従う姿勢で、注意深く、みことばと向き合いたい。私たちがみことばを悟り、しっかり耐えていくならば、「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます」と約束されている。

最後に、参考としてルカの福音書8章15節を読もう。良い地の心の解説の箇所である。ここで、みことばを聞いて悟ることを、「それをしっかりと守り、良く耐えて」と言われている。「しっかり守る」と訳されていることばは、「しっかり握りしめている、抱きかかえている、落とさない」といった意味のことばである。何か大事なものをしっかり握りしめている、大事なものを抱きかかえている、大切なものを落とさない、というニュアンスのことばである。それは大切なカバン?スーパーに買い物に行って食糧が入った袋?お金?我が子?ここでは、それはみことばであると言われている。かなりのみことばへの執着が言われている。「良く耐えて」とも言われているが、皆さんの記憶の中で、大切なものを重くて離しそうになった、落としそうになった、けれどもふんばって持ちこたえた、必死になって運んだということがあっただろう。私たちはみことばをどれだけ大切であると思っているだろうか。日本では信仰を持つのも、持ち続けるのも難しい環境だとか、現代はクリスチャン生活を脆弱にする風潮だとか言われる。けれども、私たちは自分たちが実を結べない問題を周りのせいにしてはならない。環境や時代の風のせいにしてはならない。人のせいにしてもならない。すべて自分の心のせいである。みことばを軽んじる心のせいである。私たちは「みことばがすべて」と、みことばに固着する心で、つまずきを与えるものや、時代の風や、この世の逆風にも耐え、みことばをすべてとし、歩んで行きたい。