今日のテーマは、キリストの家族である。皆さん、「家族」とは何だろうか。血のつながりがあるのが家族ということだろうか。でも、夫と妻は血のつながりはない。元々他人である。結婚の契約を通して結ばれた関係ということで、血のつながりはない。家族の説明については広辞苑が順当な説明をしている。「血縁によって結ばれ生活をともにする人々の仲間で、婚姻に基づいて成立する社会構成の一単位」。つまり「血のつながり」ということと「結婚」という契約を結びつけて説明している。また家族を「社会構成の一単位」として説明しているが、厳密に述べると、社会を構成する基本単位である。国家や文明が衰退していった過去の歴史の教訓において、そこには必ずといっていいほど、基本単位である家族の崩壊があった。以前にもお話したように、キリスト時代のギリシャなどでは、妻が毎年夫を取り換えることが恥ずかしいことでも、特段珍しいこととも思われなかった。ローマ帝国の崩壊も家族の崩壊に起因していたと言われるほどである。家族は大切な関係で、互いに支え合い助け合い、打算抜きにして協力し合う一番親密な関係で、人類共同体の最少単位。

ところが、イエスさまは、家族について、もう一歩進んだ見方を与えている。それが今日のテーマ。まず、イエスさまの地上の家族は誰であったのか、見てみよう。家族の名前は、13章55,56節に登場している。父親であるヨセフは、この時すでに世を去っていたと見られている。名前が挙がってこない。母親は「マリヤ」。原語のギリシャ語では「マリア」また「マリアム」と表記。これはモーセの姉である「ミリヤム」のギリシャ語読み。当時、女性の名前として流行していた名前。イエスさまの男兄弟は「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ」。そして名前のわからない妹たちがいた。ということで、イエスさまは最低7人兄弟ということになる。イエスさまはマリヤから最初に生まれた。ただし処女降誕であった。そしてイエスさまの弟たち、妹たちは、ヨセフとマリヤの間に生まれた子どもたちと解釈するのが自然。ところが、そう解釈されると、マリヤの永遠の処女性を唱えるカトリックは困ってしまう。よって、マリヤの永遠の処女説を貫き通すために、イエスさまの兄弟たちは、ヨセフの先妻の子どもであるとか、イエスさまのいとこであるとか、勝手に推測し、自分たちの主張を守ろうとしている。しかし、その推測には何の根拠もない。聖書的根拠はゼロかマイナスである。

著者マタイは今日の箇所で、まず最初に、当時のユダヤ社会にあって、すべての事柄の中で家族のことを一番にするという、家族の優先権がいかに強いものであったかを暗示させている(46,47節)。イエスさまが群衆にみことばを話しているとき、家族の者たちが、それを中断させてしまった。家族の邪魔が入ったと思われてしまう場面だが、この中断は当時受け入れられていた価値観で、家族への強い忠誠心が常識だったことに起因している。家族にやめろと命じられたら従わなければならないという価値観。何事においても家族を優先しなければならないという価値観。当時の家族第一の家族観からすれば、中断もやむを得ないのである。

それにしても、家族は何の用事があってきたのか。集会が終わるまで待つことはできなかったのか。仕事が忙しいから早く家に帰って手伝いなさいなら、何も母親と兄弟たちでぞろぞろ来ないだろう。何かあるはずである。文脈を見ると、11,12章において、イエスさまはユダヤ教のリーダーたちから敵意を買っていたことがわかる。彼らはイエスさまに殺意を抱き、殺人計画まで練っていた。こうした不穏な空気を家族たちも感じ取って、イエスを守ってあげなければならない、不幸な結果となる前に保護してあげなければならない、と気遣いを見せようとしたのかもしれない。宗教家のリーダーたちをこれ以上刺激したら大変なことになるから、しばらくの間は静かにしているようにと説得しようとしたのかもしれない。

しかし、こうした気遣い、心配というものは、イエスさまからすれば、ありがた迷惑であり、的外れのものであっただろう。おかげで大切な集会が中断してしまったことには変わりがない。けれども、さすがにイエスさまということで、この家族による中断を、機転を効かして、大切な教えを語るために活用してしまった。「わたしの母とはだれですか。わたしの兄弟とはだれですか」(48節)。イエスさまがこう問いかけたとき、二つのグループがいた。外にいる地上の家族(肉の家族)と、家の中でイエスさまの話しに耳を傾けている霊の家族。内と外に分かれている。著者マタイは、それを意識させている。さて、内と外、どちらが本当の家族なのか。

イエスさまは中にいる人々に手を差し伸べて言った。「見なさい。わたしの母、兄弟たちです」(49節)。手を差し伸べたのは「弟子たちのほうに」とあるが、意識されているのは十二弟子たちばかりではない。イエスさまは、「見なさい、わたしの母」と呼んでいるように、イエスさまのみことばを喜ぶ女性たちのことも意識されている。

イエスさまはここで、地上の家族への忠誠ということを低く見ているのではない。15章を見ると、ユダヤ人たちが本当の意味で親を敬っていないことをきつく指摘される場面がある(15章1~6節)。イエスさまは今日の場面で肉の家族への忠誠を格下げしているのではなく、神の家族、霊の家族への忠誠はそれよりもまさることを示しておられる。だから、地上の家族に中断されても、弟子たちにみことばを語り続けなければならない。イエスさま、地上の家族の結びつきは取るに足らないものだ、などと言っておられるのではなく、それにまさる家族の結びつきがあるのだということを教えておられる。神の家族という現実を「絵に描いた餅」にしてはならない。今、こうして、共に集い、イエスさまのみことばを聞くという礼拝生活は、神の家族であることの証なのである。

さて、イエスさまは、神の家族とは、どういうメンバーのことであると語っておられるだろうか。「天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」(50節)。「天におられるわたしの父のみこころ」の中で、具体的に心に留めていただきたいことがある。それはヨハネ6章28,29節にある。「私たちは神のわざを行うために何をすべきでしょうか。・・・あなたがたが神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」。イエス・キリストを信じること、それが神のわざを行うということである。すなわち、キリストに献身すること、コミットすること、それが神の家族となる条件である。イエスさまは、今日の48~50節で、繰り返し使われている類似表現がある。それは「わたしの母、わたしの兄弟」である。イエスさまは、「わたしの、わたしの」と、「わたしの」を5回おっしゃっておられ、ご自身と一つになることが大切であることを教えられる。「クリスチャン」ということばは、「キリストにつく者」という意味があり、それは、キリストを信じ、キリストに従う決心をし、キリストの兄弟、姉妹、母とされているということである。

私たちは、血のつながりや地上の結婚関係を越えた新しい家族関係に招かれている。それを実現させたのは、受肉されたイエス・キリストの血である。主キリストの流された血は、私たちを神の子どもとする新しい契約の血である。またその血は、私たちをキリストの花嫁とする契約の血である。私たちは信仰によって、新しい血のつながりの中に入れられている。その血とは十字架で流された尊い血であり、キリストのいのちである。この神聖な血によって、私たちはキリストの兄弟、姉、妹、母とされ、キリストにありて兄弟姉妹と呼び合う関係に入れられている。キリストが新しい家族の絆を作ってくださった。この家族は、神の家族とも、霊の家族とも、天上の家族とも呼ぶことができる。

皆さんは、神の家族であることを特権であると思っておられるだろうか。最後に、神の家族のメンバーとして、もっとも大切なことをひとつ、お話して終わりたいと思う。それは皆様が、キリストに従い続け、「わたしの母です」「わたしの姉妹です」「わたしの兄弟です」と言われる関係を保つということである。

復習となるが、これまでイエスさまが語ってこられた中から二つ、取り上げたいと思う。一つは、8章21,22節。ここは親の葬りをよりも、わたしに従うことを優先しなさいと教えている場面である。当時のユダヤ社会にあって、両親を敬うということは至上命令で、その命令を実践した証拠として最も重んじられていたことが親を葬るということであった。これは社会的義務として最も重んじられていたことであった。イエスさまはこの親の葬りを軽んじているのだろうか。そうではない。実は「親を葬ることを許してください」という表現は中東方面独特の言い回しで、親が死んだことを意味していない。親はまだ健在なのだが、親元を離れることを迫られたとき、このような表現形態をとった。親が死んで親を葬るまで、親元を離れず仕事を手伝って助けるというのが義務とされた。よって、この弟子が若ければ、父親の死は30年後、40年後ということかもしれない。彼は親の権威を優先するかキリストの権威を優先するか迫られたわけである。イエスさまは、「親が死んでからあなたに従いますといった、従うことを何年も何十年も先延ばしにするような、まごまごした態度はやめて、今すぐわたしに従いなさい」と言われる。

もう一つは10章37~39節。イエスさまは、父親、母親、息子、娘、全部取り上げて、家族以上に誰に従わなければいけないのかチャレンジを与えているだけではなく、徹底した献身を迫っておられる。以前お話したように「十字架を負う」と言う意味はしばし誤解されている。「被った災害がわたしの十字架だ」「手におえない不良息子、不良娘がわたしの十字架だ」「この病がわたしの十字架だ」「転勤を余儀なくされたのがわたしの十字架だ」という表現を聞くことがある。けれども、良く見るとわかるように、ここでの十字架は負わされるものではなく、自分で負うもの。自分の意志で負うもの。十字架刑はユダヤ人たちにとっては身近なもので、このことばをイエスさまが語られる数年前にも、ローマへの反逆の見せしめとして、二千本の十字架が、ガリラヤの街道沿いに立てられた。十字架は単に、苦しみと恥のシンボルではない。十字架は死のシンボルであることは、教えられなくても、誰でも理解できた。自分の十字架を負ってキリストに従うことは、命の犠牲さえ顧みず、無条件にキリストの主権に従うことを意味した。すべてを犠牲にして、命をも捨てる覚悟であなたたに従います、という自発的意志が問われているわけである。私たちは自分の十字架を自分の力で負うようであるが、しかし、キリストの愛が、その十字架を負わせると言えるだろう。キリストがまず私たちの救いのために十字架を負い、十字架についてくださった。キリストの愛が私たちを取り囲んでいる。各々がキリストに従おう。

キリストに従う者すべてが、その人たちが、キリストの兄弟、姉妹、母であり、そして互いに家族である。神の家族生活をどう送るかについては、新約聖書で様々な指針が与えられているが、今朝はまず、私たち一人ひとりが、しっかりキリストにつながり、従っていくことが基本であることを覚えたい。あのイスラエルの荒野の旅において、約二百万人はいただろうエジプトを出た民たちは、バラバラにならず一つの群として旅を続けることができた。なぜだろうか。それはめいめいが、神の臨在のシンボルである「雲の柱、火の柱」を仰いで従う意志を表わしたことによる。「雲の柱、火の柱」が右に行けば右に行った。止まるなら止まった。動いたときに旅立った。彼らの目は昼も夜も、「雲の柱、火の柱」に注がれた。現代の「雲の柱、火の柱」はイエス・キリストである。一つキリストを仰ぐ中で、一つとなっていく。キリストにありて一つとなるということ。互いにキリストを仰ぎ、キリストを見て、従う歩みを各自が確かなものとし、神の家族として一つとなって歩んでいこう。