今日は、キリストが言われる「悪い、姦淫の時代」の特徴について見、そしてキリストが私たちに求めておられることを、はっきりと理解したいと思う。キリストは新約の時代を「悪い、姦淫の時代」と呼ぶ(39節)。またこの時代を「邪悪な時代」とも呼んでいる(45節)。ある意味、過激な発言である。さて、キリストは何を基準に、今の時代を悪いと呼ぶのだろうか。それは、ご自身に対する態度が基準となっている。

12章はパリサイ人との論争が記されている。パリサイ人たちの宗教は外面的宗教。外面の目に見える行いを大事にする。ひとつひとつの所作にもこだわる。彼らは自分の義を立てることにこだわりを見せる人たち。自分たちの正しさをアピールした。旧約の律法に従っていると自負していた。そして時至ってキリストが来臨した。キリストは世の光である。闇を照らし出す。キリストによってパリサイ人たちの本性が暴露されてしまった。彼らの律法解釈のまちがいが指摘され、律法を破っていると指摘され、心の中の動機まで読まれ、罪に定められてしまった。彼らの敬虔のマスクははぎとられ、プライドを失った。パリサイ人たちはキリストに対して敵意をむき出しにした。彼らはキリストを憎み、殺害計画さえ企て(14節)、キリストの働きは悪魔の働きだと誹謗中傷を浴びせかけた(22~37節)。

人々は自分の罪を長い間隠すことに成功するかもしれない。義人の体裁を保って神の前に正しいことをアピールするかもしれない。しかし、実際は心は遠く神から離れているわけである。神に対して悔い改めようというへりくだった心はない。キリストは表面上の堕落を問題にしているのではない。いくら教えを説いても悔い改めず、それどころか偽善を装ったり、それまでの生活を変えようとしないので、「悪い、姦淫の時代」「邪悪な時代」と呼ぶのである。「姦淫」ということばを簡単に説明しておこう。キリストがここで使っている「姦淫」ということばは、信仰を結婚の契約関係にたとえているということが前提としてある。夫が主なる神、妻が信者である。形だけは入籍していて、人前では妻として振る舞い、「主人」とか「あなた」とか呼んでいるけれども、その心は夫にあらず、夫を愛していない生活を送っているということ。つまり、キリストは、形ばかりで神を愛していない生活を見抜いて、「姦淫」という用語を用いている。神の名を口にしながら、心を別のものに寄せているということ。その生活もしかり。キリストは、この悪い、姦淫の時代の特徴について二つ挙げているようである。

第一は、しるしを求めるほどにキリストに不信を抱いているということ(38~42節)。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです」(38節)。彼らは、キリストを魔術師とし、神を冒涜する者とし、偽教師としておきながら、「先生」と呼んでいやみを言い始める。「先生」とはおべっか、へつらいの表現であるが、取り巻く民衆を意識しての偽善のことばである。キリストへの敵意を適当にコーティングして、キリストを追い詰めようとしている。

「しるし」について説明しておこう。「しるし」とは、イエスがキリスト、すなわち救い主であることを確証することになる奇跡、特別のしるしである。彼らが求めているこのしるしとは、病のいやし、悪霊追い出し程度のことではない。並みの奇跡のことではなく、規模が大きいもの、天空に見ることができるような奇跡、月星太陽レベルの奇跡であると思われる(マタイ16章1節参照)。星座の配置が変わってしまうとか、ヨエル2章31節にあるように、太陽はやみとなり、月は血に変わるとか、月の軌道が変わるとか、手を動かしたら空に虹がかかるとか、ヤコブが見たように、天から梯子が降りてきて御使いが上り下りするとか。また、天から声がするとか。ユダヤ人はパウロが第一コリント1章21節で言っているように、しるしを要求する民族である。しるしに関する逸話を一つ紹介しよう。ラビのエリエゼルという人物は、自分の律法解釈の真実性を問われたとき、いくつかのしるしを行ったと言われている。いなご豆に命じると、その木が400キュビト移動した。次に流れる水が逆流した。また律法学院の壁が前に倒れてきたとき、もう一人のラビが命じると止まった。最後に天から声があった。「あなたがたはラビのエリエゼルに何をしようとするのか。戒めは彼が教える通りである」。これは信憑性の薄い物語であるが、ユダヤ人が求めるのはこういうしるしである。パリサイ人たちは、キリストがこうしたことを行えまいと踏まえて、しるしを要求した。そして、キリストの名声を失墜させ、信用を落とさせようとした。

キリストは彼らの煽りに乗ろうとしない。コロサイ1章16節には「万物は御子によって造られた。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、見えないもの、すべて御子によって造られた」とある。キリストは万物を動かす力がある全能者である。でもその能力は使わない。逮捕の場面では、十二軍団より多くの御使いを配下においていただくことができることも語っておられる(マタイ26章53節)。十字架の場面では、ユダヤ人たちに「十字架から降りてみろ。そうしたら信じるから」とののしられた。十字架から降りるというのも、偉大なしるしとなるからである。しかし、キリストはいたずらにご自分の力を使おうとはされない。

キリストは「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」と断言する(39節)。これはどういう意味であろうか。40節の「三日三晩」ということばがヒントになる。ヨナの物語は旧約聖書のヨナ書にある。ヨナは、残忍で邪悪な民として諸国に知られていたニネベの民に宣教に行くように神に命じられる。けれどもヨナはそれを拒んで反対方向に出かけ、舟に乗って逃亡する。神はそれを阻止しようとして海上で嵐を起こす。舟は危険に見舞われる。ヨナは嵐の原因になっているのは私だと船員たちに告げ、自分を海に投げ込まさせる。ヨナは沈んで行って死を覚悟したけれども、神は大魚にヨナを飲み込ませる。ヨナは三日三晩大魚の中で過ごした後、陸地に吐き出される。ヨナはニネベに行き宣教する。ニネベの人々はヨナが大魚の中で三日三晩過ごしたというのは神の偉大なしるしであると受取り、一般民衆から王様に至るまで悔い改め、神のさばきから救われることになる。

ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたというのは、キリストの復活の「予型」(予めの型)である。ヨナが海の深みに葬られたように、キリストも地の深みに(よみの世界に)葬られる。そしてヨナが三日後に大魚から出て来たように、キリストは三日後に墓から出て来る。キリストは十字架の死の後の復活をしるしとして与えることを告げておられる。けれども、心がかたくなになると、どんなしるしがあってもだめである。信じない。実際、ユダヤ人のリーダーたちは、復活というしるしを信じなかった。どう考えたのかというと、弟子たちは墓からキリストの死体を盗んでいった一点張りであった。

キリストはこうした彼らのかたくなな心を見抜いて、彼らの心のかたくなさを浮き彫りにする二つの歴史的事柄を引き合いに出している。一つはニネベの人々の悔い改めである(41節)。邪悪で堕落していたニネベの人々はヨナのメッセージを聞いて悔い改めた。しかし今、ユダヤ人たちは、「ヨナよりもまさった者」、救い主ご自身のメッセージを聞いても悔い改めようとしない。それどころか、殺意さえ抱いている。もうひとつは、地の果てからソロモンの知恵を聞きに来たシェバの女王の物語(42節)。古代パレスチナの人々は、シェバの女王が住んでいた南の地を「地の果て」と呼んだ。実際そこは、アラビヤ南西部にある、イスラエルから約1900キロ離れた遠い国。ところが、その遠い地からはるばる旅をして、神の知恵に満ちていると言われたソロモンに会いに来た。けれども、今、「ソロモンよりもまさった者」、救い主ご自身が、そこにおられる。メッセージを聞くためにはるばる旅をする必要もない。目の前におられる。なのに、キリストのことばに耳を傾ける気持ちはない。彼らの罪は重い。

悪い、姦淫の時代の特徴の第二は、キリストに対して中途半端な関心で終わるということ。パリサイ人たちのようにキリストに対して攻撃的で不信で固まった人たちばかりがいるわけではない。キリストに対して一定の興味を示し、キリストのみわざに驚き、メッセージにも耳を傾け、そうだと頷く人々もいる。だが、それは一時的なことでしかない。民衆の多くがそうであった。キリストへの態度は中途半端、中途半端な悔い改めで終わり、中途半端でどっちつかずで、結局、キリストから離れ去って、元の木阿弥というか、それより悪い状態となってしまう者たちもいる(43~45節)。

ここは危険な空家のたとえである。空家は現代では社会問題になっている。わたしの福島の実家も空家なので、放置されないように、適切に管理されているかどうかを調べるアンケートも送られてきた。空家は放置しておくと、傷むというだけではなく、屋内はカビだらけ、蜘蛛の巣だらけとなり、小動物の住処ともなってしまう。空き巣にも狙われる。しかし、ここでは、人の心が言われているようだ。キリストは悪霊追い出しのみわざをされていた。その空っぽになった心をそのままにしておくと、たくさんの邪悪な霊が住み着いて、「その人の後の状態は、初めより、さらに悪くなります」(45節)となる。悔い改めが中途半端で、キリストへの態度が中途半端であるとこうなってしまう。

考えていただいきたいのは、神のかたちに造られた人間は、本来、誰の住処なのかということ。まちがっても悪霊ではないだろう。人間は本来、聖霊の住処なのである。この点については、新約聖書で繰り返し教えられている。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮である」(第一コリント6章19節)。聖霊はキリストの御霊なので、聖霊が住むことイコール、キリストが住むことである。キリストは聖霊を通して私たちのうちに住まれる。それを「キリストの内住」という言い方もされる。悔い改めて、キリストを罪からの救い主として受け入れる時に、聖霊が住まわれる。キリストの御霊が内住される。こうして、神の霊を宿して生きることこそが、人間本来の在り方である。空っぽなままにしておくとか、怪しい霊を招いてしまっていいわけはない。それは霊的姦淫とも言われる。

45節の「住みつく」ということばに注目してください。ここでは、悪い霊が住みつくことが言われているが、この「住みつく」ということばは、キリストが私たちの心のうちに住むつくことにも使用されている。エペソ3章17節を開こう。「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに<住んで>いてくださいますように」。「住みつく」「住んで」と訳されていることばは、同じ原語が使われている<カトイケオー>。その意味は「住み込むこと、定住すること」。一時の仮住まいのことばではなく、定住の意味をもつことばである。心は空家のままにしておかないで、キリストが定住する住まいにするということ。そしてキリストとの交わりを現実なものとして生きるということ。キリストとの共同生活である。すでに悔い改めと信仰をもってキリストを信じた方の心にはキリストが住んでおられる。ではなぜここで、信者に対して、「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように」と言われているのか。ここでは、内住の<事実>を言っているのではなくて、内住の<質>を言っている。心におけるキリストの臨在の質を言っている。もっと、もっと、心がキリストで支配されること。キリストに豊かに支配された心。それがここで願われている。キリストとの共同生活が冷めたものになってしまってはいけない。キリストを押入れに閉じ込め、主人はわたしだと我がもの顔になってはいけない。心の部屋に偶像を安置したり、その他の醜いものを置き、キリストの臨在を締め出す状態に陥ってはならない。パウロはそのことを危惧して、それを御霊に置き換えて、「御霊を消してはいけません」(第一テサロニケ5章19節)という表現もしている。私たちは自己吟味してみよう。心を空家にしてはいないか。キリストとの共同生活になっているのか。キリストを心にお迎えしたという方も、二心という姦淫の罪を犯してはいないか。キリストに肩身の狭い思いはさせていないか。キリストに汚いことばを聞かせていないか。不潔なものを見せてはいないか。キリストとともなる生活を喜んでいるのか。怒り、憎しみ、赦さない思いで、キリストの臨在を消してしまっていないか。異なる霊に心を開いてしまっていないかどうか。

もし、まだ、キリストを信じ受け入れておられないお方は、キリストが忌み嫌うものと縁を切る決断をし、それを手放す決断をし、心にキリストを信じ受け入れてください。ある方は言った。「人生において最も根本的な質問は『私たちはイエス・キリストにおいて神と出会ったときに、どのように応答するのか』ということである」。私たちは、学者、パリサイ人のように、冷たい敵意を示すのであろうか。それともキリスト時代の民衆のように、どっちつかずのよろめく態度で終わってしまうのだろうか。

さて、皆さんは、イエス・キリストをどう思われるだろうか。そして、このお方のどう応答されるだろうか。パリサイ人のような敵対心も、民衆のような中途半端な心も、どちらも不幸である。心からキリストを信じ受け入れてほしい。心の中にキリストを据え置いてほしい。すでに心の中にキリストを信じ受け入れているという方も考えてほしい。キリストへの情熱を失い、キリストとの関係はなまぬるくなっていないだろうか。キリストを喜んでいるだろうか。倦怠期を過ごしてはいないだろうか。常に心の焦点をキリストに合せよう。いつもキリストを思っていよう。キリストに賛美をささげよう。キリストが皆様の心のうちに豊かに住んでくださるようお祈りします。