私は「蔵の町喜多方」と言われる、福島県で最も蔵の多い町で育った。実家にも蔵があり、子どもの頃は、その蔵にどんなものが眠っているのかを発見するのが楽しみであった。江戸時代に使われていたものや明治期に使われていたものなどを発見して、不思議な思いで見ていたものである。

今日の箇所はことばの罪について言及されている。きっかけとなったのは、パリサイ人たちの悪いことばにある。パリサイ人たちはキリストへのねたみから、悪口を言っていた。今日の箇所を見ると、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人をキリストがいやした記事から始まっている(22節)。群衆の多くは、このみわざを見て、イエスは「ダビデの子」なのだろうかと思った(23節)。「ダビデの子」とは救い主の別称。しかしパリサイ人たちは、イエスは「悪霊どものかしらベルゼブル」、すなわち「ベルゼブル」とは悪魔の別称なので、悪魔の力で悪霊ども追い出している、と誹謗中傷を浴びせかけた(24節)。キリストはご自分が悪魔呼ばわりされたことに対して、四つの理由で反論されている。

反論の第一は、25,26節。当時は一般的に魔術師たちが悪霊追い出しをしていた。つまり、キリストはここで怪しい魔術師にされてしまっている。魔術師は重罪とされた。キリストのなされたことは奇跡であることは否定できなかったので、パリサイ人たちは、キリストを黒魔術師にでも仕立て上げるしかなかった。現代では、神道、仏教、新興宗教、ニューエイジムーブメント、アニミズムの諸宗教でも悪霊追い出しのパフォーマンスをしている。日本では悪霊を追い出すという祈祷師が村々にいたりもした。日本では、死者の霊が憑りついているので、それを追い出して欲しい、たぐいのものが多い。しかし実際、何かの霊が憑りついている場合でも、その霊というものは、悪霊が死者に成りすましているにすぎない。悪魔は祈祷師や魔術師たちを信用させるために、一時、自分の力を貸し与えて、悪霊追い出しを許すかもしれない。けれども、キリストがされていることは、そうしたこととは規模自体が違っている。一人、二人の悪霊追い出しではない。これまで、おそらく三桁を越える悪霊追い出しがされたと言われている。追い出された悪霊の数は数知れない。それを「内輪もめ」「仲間割れ」とするのは馬鹿げているということである。

反論の第二は、27節。ここで理解しておくべきは「あなたがたの子らは」とは誰かということ。ここは「弟子たち、仲間たち」ほどの意味。そういう者たちとは誰かということであるが、ユダヤ人たちの中にも悪霊追い出しをしていた者たちがいた。彼らが「あなたがたの子ら」である。キリストが言わんとしたいことは、わたしのしていることは「悪魔の力」で悪霊を追い出していると決めつけ、自分たちの仲間がしていることは「神の力」で悪霊を追い出していると結論づけるのは、論理的におかしいだろうということ。だいいち、ユダヤ人たちがしていた悪霊払いは陳腐なものが多かった。ある植物の根のついた輪を、悪霊につかれた人の鼻の穴に差し込んで、それで悪霊を引出し、その後は呪文を唱え、悪霊が二度とその人のからだに入らないようにしたとか。魚の心臓と肝臓を炭火であぶって煙を立て、その匂いで悪霊を退散させるとか。ユダヤ人は悲しみ、わざわいから逃れるために、魔術めいた行為にけっこう頼っていた。いつの時代でも、どこの国でも似たり寄ったりのことをしている。けれども、キリストはこんな怪しい行為はしない。権威あることばだけで、悪霊を追い出していた。

反論の第三は、28節。「神の御霊」に言及するキリストのことばは、当時のパリサイ人たちの考えを意識してのものであると思われる。というのは、多くのパリサイ人たちが、神の御霊によって新しい時代が到来する、神の国が到来する、と信じていたからである。キリストはここで、わたしは神の御霊によって悪霊どもを追い出している、神の国は到来した、と明言する。パリサイ人たちは、ここで二者択一を迫られる。キリストのみわざは神の御霊によるものなのか、それとも悪魔によるものなのか。その中間は選べない。それは私たちも同じである。

反論の第四は、29節。「強い人」とは悪魔の比喩的表現である。キリストはここでご自分の使命を述べておられる。キリストは悪魔の支配をくじき、悪魔に捕らわれている人々を解放するために、この地上に来られた救い主である。

このようにして、キリストはパリサイ人たちに判断を迫る。わたしに味方するのか。わたしに敵対するのか(30節)。これは牧羊のたとえと思われる。わたしの味方について羊を集めるのか、私に敵対して羊を散らすのか。羊とは民衆のことである(9章36節)。わたしに味方するのか、敵対するのか、わたしとともに集めるのか、悪魔とともに散らすのか、この二つの立場しかない。中立は不可能。ニュートラルはない。キリストの側につくか、悪魔の側についてしまうか。どちらかでしかない。

キリストはパリサイ人たちによってご自分が悪魔と同一視されてしまったわけだが、キリストは、あなたがたこそが悪魔のしもべに成り下がっていると、パリサイ人たちを追い詰めていく。先ずキリストは、パリサイ人たちの罪は「御霊に逆らう冒涜」であり、それは赦されない罪であることを語る(31,32節)。この箇所を読んで、赦されない聖霊に逆らう冒涜とは何かと、世々にわたり論議されてきた。例えば、未信者がイエスさまに言う悪口は赦されるけれども、一度信者になってから背教してまうのは赦されない罪だとか。無意識の罪は赦されるけれども、故意に犯し続ける罪は赦されないとか。

ここで判断すべきことは、文脈の中でこの罪を考えるということ。すなわち、ここではパリサイ人の罪が指摘されている。すなわち、パリサイ人的罪は赦されないということ。彼らは悔い改めることが不可能なほどに心を固くしてしまっている。キリストの大規模な聖霊によるみわざを見ても、なおもそれを悪魔的なものとし、キリストを悪魔と同一視し、キリストの殺人計画を練るほどに敵対する。このパリサイ人の罪が意識されている。

神は罪を赦してくださる方であるというのはまちがいない。キリストが十字架につけられた時、両側に一緒に十字架につけられた強盗は、二人とも最初はキリストをののしっていた(マタイ27章44節)。けれども、そのうちの一人が悔い改め、キリストを神の救い主、御国の王として信じた。この強盗にキリストはパラダイスを約束してくださった(ルカ23章39~43節)。だが、パリサイ人のように、聖書に精通し、神に仕えることをモットーとし、メシヤ研究をし、誰の目にも神のみわざであることがわかるキリストのみわざを身近で見聞きしながら、態度を硬化させ、キリストの善を悪と呼び、聖霊のみわざを侮辱し、キリストを悪の権化に仕立て上げ、キリストをサタン呼ばわりし、自分たちの悪はこれっぽっちも悔い改める気はなしの、全くかたくなになっている状態では、もはや永遠に希望は残されていない。パリサイ人たちはキリストをそしるのに「ベルゼブル」という用語を選択しているが、「ベルゼブル」は悪魔の別称で「はえの主」を意味する。聖霊を通しての神のみわざを見ても、キリストを邪悪で、汚れていて、不潔なベルゼブルとみなす彼らの心は、悔い改める余地はない。だから赦されない。自分たちで赦されない心の状態を造りあげてしまっている。

キリストは31節以降、口の罪ということにシフトしている。31節の「冒涜」ということばは、「悪い音のことば」という意味から生まれたのではないかと言われている。それはまちがいなく口で犯す罪である。「冒涜」は「そしり」とも訳せる。32節では「聖霊に逆らうことを言う者は」と、パリサイ人的な口の罪が意識されている。

33~35節では、木や倉のたとえを使って、悪いことばはどこから出ているのかを教えられている。心から出るということ。だから、ことばとは、その人の本質を表わすものである。御霊を冒涜することばを発したパリサイ人たちの心は当然、汚れていて、腐敗している。いや、それにとどまらず、毒を持っていると言ってよい。なぜなら、彼らは34節でキリストに「まむしのすえたち」と呼ばれているからである。私たちは、パリサイ人的な罪は自分には関係ないとそこで終わらないで、「心に満ちていることを口が話す」(34節)というキリストのことばに耳を傾けなければならない。

35節では、「良い」ということば、「悪い」ということば、それぞれ三回ずつ使用され、対比されている。「良い人は、良い倉から、良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から、悪い物を取り出すのです」。「良い人」は内側の心が良い。そして、そこから有益で価値あることばが発せられる。「良い人」の価値あることばは、その人の存在の核から生じる。「悪い人」はその反対で、汚れと悪とが心の奥底から口に上って行く。その人の話しことばは、その人の本質、性格を反映している。だから、キリストは37節で、「あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです」と言われる。ことばほど、その人の本質を表わすものはない。しばらく話していれば、その人がどんな人かわかってくる。不健全な人か、自分中心な見方をする人か、人のあら捜しばかりする人か、どんな人か。

だが、公けの場では、人の本心や性質はなかなか分からないものである。パリサイ人たちは、公けの場では、正しくふるまい、りっぱなことを言っていた。時々、ぼろが見えていたわけだが。公けの場では、パリサイ人といわず、人はりっぱなことを言い、そつなく振る舞う。キリストは、公けの場ではない、隠れた所でのことばや、気を許したときにうっかり口にすることばを念頭に置いているようにも見える。「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きしなければなりません」(36節)。「あらゆるむだなことば」の「むだな」と訳されていることば<アエルゴス>は、「何も生産しないもの」という意味である。たとえば、実のならない木や、作物を作っていない畑などに用いられた。よって、「むだ」「無益」と訳されたりする。また<アエルゴス>は、「不注意」という意味ももつ。人にどういう影響を与えるかもよく考えずに、不注意に話してしまうことである。

ある方は、このむだなことばについて、こうコメントしている。「気を許したときに話したことば、こういうことばが人の本心を表わす。プラマーは『注意して話したことばは計画された偽善である』と言った。人はあらたまったときには、何を話すか、どんな話し方をするかに注意するが、気を許したときや、うっかりしたときに本音を吐く。公けの席での発言が整って立派でも、自分の家で使うことばが荒れて下品な人がいる。たとえば怒ったときには、冷静なときの気持ちの抑えがきかなくなるので、つねづね考えていたこと、言いたいと思っていたことを口走ってしまう。・・・気を許したときに口にすることばこそ、人の本質を表わすとは、何と厳粛な、そして警戒すべきことではないだろうか」。

人間、公けの場でもむだなことばを口にしてしまうことがあるのだが、より隠れたところで人の悪口や、愚かなことを口にしてしまうものである。神さまが私たちをさばかれるのは、注意して慎重に語ったことばばかりではなく、遠慮や制約が取り去られたときに口をついで出て来た本心であることを忘れてはならない。

口をついで出て来るものの中には偽りも含まれる。ある精神科医は、人は平均八分に一度はうそをつくと言う。うそが習慣化してしまうものなのである。自分の不利益とならないときは正直に話すが、不利益となるとうそをつく。自己防衛のためにうそをつく。自分の利益のためにうそをつく。ある場合は、自分が語っていることが偽りであることにも気づいていない。ある時、キリストはパリサイ人との会話の中でこう語った。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出たものであって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです」(ヨハネ8章34節)。偽りを語るパリサイ人たちは偽りで心が塗りかためられてしまっていたという現実があった。彼らの教えは、キリストと対立を見た。

人は終わりの日にことばによってさばかれる。ことばにはその人の本質が宿っている。キリストを信じた者たちには永遠の救いが約束されている。しかし、口にしたことばによってさばかれ、報いが異なってくる。真理を曲げなかったか、無駄口を言わなかったのか・・・。口にしたことばに基づくさばきというものは、まむしのすえと呼ばれたパリサイ人たちにだけ適用されるのではない。全人類に、そしてクリスチャンにも適用される。

私たちは自分の唇を、人の欠点を暴いたり、さばいたり、少ない情報で妄想を膨らませ、作り話しをこしらえたりするために用いるのではなく、賞賛したり、励ましたり、諭したり、そして主を証するのに用いたいと思う。

ゲーテの逸話では次のようなものがある。ゲーテの家には、いつも政治家、文学者、軍人、実業家など、彼の文学を慕う者たちが集まっていた。その会話の中で、陰口や下品な話が口にされることがあった。そのとき、彼はこう言ったそうである。「皆さん、紙くずや食べ物のくずを落とすのはかまいません。しかし他人の悪口や淫乱な話を落とすのは許せません。それらは全部持ち帰ってください。それから、そんな話は二度と持ち込まないでください。それは空気を汚染させるのです」。これを読んで、そうか、空気を汚染することばというものが存在するのだと思った。私たちは、地の塩、世の光という意味でも、一緒になって空気を汚すのではなく、そこに神の義と平和をもたらしたい。キリストの香りを放ちたい。