イエス・キリストは私たちを招いている。「わたしのところに来なさい」「わたしの人格に来なさい」と。今日は、イエス・キリストが私たち一人ひとりを招いている、ということを覚えたい。キリストは天より下り、救いの道を示し、十字架にかかり、よみがえり、天に昇り、いと高き御座に座しておられる生ける神の救い主であられ、今も私たちを招いておられる。
キリストが地上におられた時、主な活躍の舞台となったのは、イスラエルという国にあるガリラヤ地方である。ここはイスラエルの田舎町で、ガリラヤの人々はなまり言葉を話していたと言われる。ここは穀倉地帯で、小麦、大麦、オリーブ、ぶどうなどもたくさん獲れた。牧草にも恵まれていたため、牧畜も盛んだった。また湖があり、魚が豊富に獲れた。自然に恵まれ風光明媚であったため、観光のスポットでもあった。20~23節で、コラジン、ベツサイダ、カペナウムといった地名が挙げられているが、これらはガリラヤ地方の地名である。
このガリラヤ地方において、キリストは目の見えない人をいやしたり、耳の聞こえない人をいやしたり、足のなえた人を直したり、いわゆる奇跡と言われる力あるわざを行って肉体をいやし、そして人々を神の国に招くメッセージをした。ところが、民衆の反応はどうであっただろうか。「町々が悔い改めなかった」とある(20節)。キリストのメッセージを聞いても、心はそれに応答できなかったということである。自分に都合のいいことだけを言ってもらいたい、という傾向が私たちの心にはある。そうでないことには、心の耳をふさいでしまう。確かにガリラヤの人々は、キリストのメッセージに興味を抱き、驚きもした。そしてキリストの力あるみわざを見て、魅了された。けれども、それ以上ではなかった。キリストは悔い改めについても語ったのだけれども、心を引き裂いて自分の罪を悲しむことはなかった。心を変えることはなかった。
ガリラヤ地方でキリストの人気が高かったのは、「カペナウム」という町である(23節)。この町は、キリストの活動拠点となった町であり、キリストはこの町に移り住んで伝道していた。キリストはこの町で数々の力あるみわざを行い、ヒーローになった。キリストに猛反対して攻撃したり、誹謗中傷を浴びせかけたり、立ち退きを命じたり、そういうことはなかった。それどころか、キリストが行く所、どこでもついて回り、町から町へと渡り歩く者たちもいた。追っかけがたくさんいた。けれども、キリストは、カペナウムに対して「ハデス」を宣言している(23節)。すなわち、地獄に値すると宣言している。厳しい評価である。聖書を見る限り、カペナウムにはキリストに対して暴力的で悪意に満ちた人がいたことが記されているわけではない。
この辺りを読むだけで、私たちとキリストの罪の基準、罪の認識というものが、随分違うということを思わせられる。当時のガリラヤ人たちは、「自分たちはそんなに悪い人間ではない。今のまんまの姿で神の国に入れる」と考えていた節がある。キリストはそのことが念頭にあってか、ガリラヤ人たちが地獄行きだと蔑んでいた悪名高き外国の町々を挙げて、彼らのほうがまだましだと揶揄している。それらの悪名高き外国の町々を、キリストは三つ挙げている。「ツロとシドン」(21,22節)。この二つは繁栄をきわめた港町で、この名前を聞けば、ガリラヤ人は眉をしかめただろう。高慢で堕落していて、不義と不正に満ち、悪の権化のような町であると(エゼキエル26~28章)。三つ目は「ソドム」(23節)。この町の名前を聞けば、不道徳で性的に不潔きわまりない町だと反応しただろう。英語に「ソドミー」という単語があるが、この「ソドム」に由来している。「ソドミー」の意味は「男色、ホモ」である。ソドムでは同性愛が盛んであった。性的罪が蔓延していた。その悪のひどさに、火のさばきを受けて滅んでしまい、今は死海の南端に沈んでいる。この町にはアブラハムのおいのロトが住んでいた(創世記19章)。
ガリラヤ人たちは、自分たちはああいう人たちとは違う、まともだと思っていたかもしれない。確かに表面的はそうであったかもしれない。しかし、聖書は、私たち全員が罪深く、悔い改めなければ滅びると証言している。
私たちは自分は割にまともだと思っている。けれども、人をねたんではいないだろうか。嫉妬はしてないだろうか。「今日、彼女の着ている服、センスないわ。彼女の髪型似あわないわ。いつもあの人いろんなことやっているけれども目立ちたいだけなのよ」。とにかく、そうして低めようとする。また、人に対して苦い思いを抱いていないだろうか。悪意、陰険な心はどうだろうか。相手が苦しんだり、痛みを受けるように願ったりしなかっただろうか。それをはっきり口に出して言わなかったかもしれないが、心の中で思ってしまったことはないだろうか。「いい気味だ。あの人にはいい薬だ。もっと痛い思いをすればいい」。また、陰口はどうだろうか。また、ばれないウソをついてごまかしたりしていないだろうか。汚れた思いはどうだろうか。また、偶像に手を合せたり、霊媒や占いに頼ったりしていないだろうか。
さて、私たちは、悔い改めるために、どのような態度でなければならないだろうか。キリストは、幼子のようになることであると、暗示させている(25節)。この「幼子」とは、肉体年齢の幼子のことではない。また、精神年齢が子どもっぽいという意味での幼子でもない。また知識がないといった頭の問題でもない。生活能力がないといった働きの問題でもない。キリストが語る幼子たちのなかには、弟子たちが含まれていたことは明らかである。キリストの弟子たちはみな青年の域に達していて、漁業を営んでいた者であったり、国家公務員であったり、政治活動をしていた者たちがいた。だが、彼らに「幼子」が適用されている。
「幼子」が表わしているのは、「正直さ、けんそん、へりくだり」といった特質である。幼子は、自分の無力さ、弱さ、知恵のなさを自覚していて、大人に頼るしかないと素直に認める。幼子のような性質を持つ者は、自分の弱さや過ちを素直に認め、へりくだって、神に救いを求めるだろう。また自分の知恵を過信したりせず、どうすればいいのか、神に聞く耳を持ち合わせており、神に拠り頼むだろう。
「幼子」と反対の態度は、高慢、意固地、自分を正しいとすること、自分を知恵ある者とすること、自己信頼、自己満足、そういったもの。プライドの固まりで、悔い改めることを拒む。救いを求めない。神の言うことには耳を貸さず、我が強くて突っ張る。このことが意識され、「幼子」との対比で「賢い者や知恵ある者」と言われている。これらの存在が表わしているのが高慢である。平均して、名声のある人、高いレベルの教育を受けた人、金持ち、権力者、能力の高い人、自分は頑張って生きてきたと自負が強い人、そうした人々は、自分を過信し、プライドが高く、強がって自分の心の貧しさを認めにくい。
ポール・トゥルニエという人は、次のようなことを言っている。「自分の弱さを克服する第一歩は、それを受け入れることである」。そう述べた後、自分の弱さを何とか隠そうと一生懸命努力すればするほど、苦悩が深くなる、消耗する、と述べている。先ずは、自分の弱さを受入れよう。そして幼子のような態度で、次のキリストの招きのことばを聞こう。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(28節)。
キリストは、「疲れた人、重荷を負っている人」を招いている。「疲れた人」の欄外註の別訳は「疲れ果てた人」となっている。いいかげんに疲れたというひどい疲れ。栄養ドリンクで済ませられるとか、半日休めば直るとか、その程度の疲れではない。芯から消耗したというような疲れだろうか。どういうことが考えられるだろうか。人を喜ばせるのに疲れ果てた、仕事で上司と部下に挟まれ厳しい立場で神経が消耗した、家庭がめちゃくちゃで疲れた、自分の力でせいいっぱい努力してきたけれども何のために生きているのかわからない有様になってしまった、良かれと思ってやってきたのに人に誤解され続けて疲れ果てた、先が見えなくなって将来の不安感で気力が湧かない、現状を打開しようとして自分の良い行いでがんばってきたけれどもそれも限界、救いの道を求めていろんな教えに触れたけれども徒労に終わり光が見えない、心の空しさを埋めようとしていろんなものに手を出したけれども、その代償は満足ではなくて、以前にも増した心の疲れで解決はない。責任を次から次へと課せられ、ストレスがたまり続け、体も壊して、心も体も動かない。罪を犯し続け、罪が心を蝕み、精神が消耗し切った。
「重荷を負っている人」というのもひどい疲れの表現である。このことばは、ただでさえ疲れているのに、過去のある時点で、ドサッと重い荷を負わされ、しょわされた、そして極度の疲労となった、そういうニュアンスのことばである。重い荷とは、人から課せられた指示、命令、ノルマかもしれないし、救われるためには、ああしなさい、こうしなさいと提示された、守りきれない決まり事かもしれない。また自分の思い煩いが生み出した心労かもしれない。人生の空しさが、すべてを重荷と感じさせているのかもしれない。また、自分が招いた罪と、その罪責感かもしれない。
キリストが問題にしている疲れは、どうにもならない人生の疲れのようである。単に睡眠の取り方を変えることや、スケジュール調整や、栄養補給や、発想の転換で直ってしまう部類の疲れではないようである。もっと根深い疲れで、それはたましいの疲れと言ってもいいかもしれない。それは、キリストのもとに行くことでしか直らない。キリストは自信をもって、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」と招いておられる。
さて、キリストのもとに行くときに、どのようなことが約束されているだろうか。「わたしがあなたがたを休ませてあげます」。「休ませる」ということばは、原語では「元気を回復させる」ということばが使われている。元気回復である。すばらしい約束である。生きる力が湧いてくる、それを連想させることばである。
続く、キリストのことばから、私たちを招いておられるキリストの性格がわかる。「わたしは心優しく、へりくだっているから」(29節前半)。私たちはどのような人格のもとに安心して行けるだろうか。弱い人間のことは理解できないと言わんばかりに、上から目線で見下ろす人の所に安心して行けるだろうか。私たちは、他人の心の重荷や憂い、苦しみに関して、むとんちゃくになりやすい。それくらいのことでとか、自分はへこたれなかったぞ、負けなかったぞとか、何をだらしないことをやっているんだとか、そんなに弱くては生きていけないぞとか、無理解の心で見てしまう。裁いてしまいやすい。そういう人格の前では心を開けない。けれどもキリストは、「わたしは心優しく、へりくだっているから」と言ってくださっている。キリストは優しい心の持ち主で、かつ、へりくだりの心を持って迎えてくださる。ということは、キリストは、私たちの心の重荷や苦しみに共感してくださるお方ということになる。
キリストが私の心の重荷や苦しみに共感できるのかと思われる方もおられるかもしれないが、答えは、キリスト以上に共感してくださる方はいない、ということになるだろう。「私たちの大祭司(キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(ヘブル4章15節)。キリストは私たちと同じく、貧しさも、孤独も、非難も、誤解も、誘惑も、すべて経験された。そしてキリストは誰も経験し得なかった、全人類の罪を負って、裁きを受けるという、十字架の壮絶な苦しみを経験された。だから、どのようなことも理解し、共感できる。だから、キリストのもとへ行くことができる。
キリストは、私たちに共感されるばかりではなく、私たちの人生をしっかりと受け止めて、共に人生を歩み、平安のうちに人生を導いてくださるお方である。その事が次に書いてある。「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎが来ます」(29節)。「くびき」の説明をしておこう。トラクターのない時代、畑を耕したのは牛などの動物。またトラックのない時代、荷車を引っ張ったのも動物。「くびき」とは、左右に並んだ二頭の家畜の首を固定させ、すきや荷車を引かせるための木で作った道具。「くびき」と聞くと、外したくなるイメージを持つが、キリストのくびきはそうではない。心地良いのである。「たましいに安らぎが来ます」と約束されている。キリストとくびきを共にした場合、リードするのはキリストである。実はこの時代、「くびき」は服従のシンボルであることを知らない者はなかった。キリストに従う人生、キリストとともなる人生、その二人三脚は心地良いものとなる。次の節もそのことが言われている。
「わたしのくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです」(30節)。「負いやすく」ということばはもともと、「心地良い、快い」という意味を持つことばが使用されている。キリストに従うことは心地良く、たましいに安らぎが来る。そしてキリストが負わせるものは、負いきれないような重荷ではない。無理な過重な負担は負わせない。「わたしの荷は軽いからです」とある通りである。荷はゼロになるとは言っておられない。楽な人生はない。キリストは、「私を信じ従うと、すべての責任からも、心配からも、病からも解放される、あなたの望むままの人生を送れる」なんて虫のいいことは言っていない。そうではなくて、「毎日、毎日、使命として負う重荷はあるけれども、わたしに従う人生には安らぎがあり、充実している」ということであろう。そしてよくよく考えると、負う重荷は一人で引っ張るということではない。キリストが人生の道行きをともにしてくださり、一緒に荷物を引っ張ってくださる。「この百キロの荷物を一人で引っ張って、今週中に青森まで二往復するのがノルマ。このノルマを達成できないとお前はクビだ!」、そういうお方ではない。共に荷物を引っ張ってくださり、しかも私たちの弱さを知り、限界の分量を知っていてくださる。カギはキリストに主導権があることを認めて従うことである。先ほど述べたように、くびきは服従のシンボルである。キリストがストップと言っているのに、無理に先に進もうとしたら、荷は重くてどうしようもないものになるだろう。キリストが右に行こうとしているのに左に行こうとしたら、首は痛く、悲劇が待っているだろう。先の29節で、キリストのくびきを負って学ぶことが言われているが、キリストのくびきを負うことは、キリストとマンツーマンの関係で、教えられながら人生をともに歩んで行くことを意味する。こちら側としては、キリストに聞き従う姿勢、キリストのことばに学ぶ姿勢が不可欠になってくる。
キリストは私たちに従うことを願っておられる。それが安らぎの道なのである。キリストとともに生きる人生、キリストに聞き従う人生、キリストのことばに学ぶ人生、それこそがベストの道なのである。世の荒波にもまれることはあるだろうが、しかし、それは安らぎの道になるのである。
キリストは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と招いておられる。この招きに応えよう。そして、キリストとくびきを共にすることを願い、キリストが引かせようとする荷を担い、安らぎの道を歩んで行こう。

