今日の箇所は、この方は本当に救い主なのかという疑いが生じたことについて記されている。自分の思い描いていた方とは違う。そして疑いが生じてしまう。キリストは6節で「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです」と言われた。「つまずく」ということばは、罠や障害物を想定してのことばであるが、キリストはそのようなものでしかないのだろうか。いや、どんな良いものであっても、その良さがわからないとつまずいてしまう。
キリストの宣教の初期、キリストにつまずきかけていた人物がいた。それは以外にもバプテスマのヨハネであった。ヨハネは、イエスこそ待ち望んでいたキリストです、すなわち、救い主ですと信じ、それを表明していた。しかし、その確信が陰り、疑いの雲がかかってしまった。かつて自分の弟子たちには、あのお方こそ待ち望んでいた救い主ですと教えていた(ヨハネ1章29,30節)。しかし、今、その弟子たちをキリストのもとへと遣わし、「あなたは本当にキリストなのでしょうか」と尋ねさせている(2~3節)。何ということだろうか。今日は、この疑いに焦点を絞ってみたい。
この時、ヨハネは牢獄にいた(2節)。その理由は14章3,4節に記されている。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは、ローマにいる弟を訪問中、弟の妻と不倫の関係に陥り、帰国後、正妻と離縁し、弟の妻と結婚してしまった。ヨハネはこの不倫を公衆の面前で厳しく非難した。結果、ヘロデはヨハネに復讐を試み、山間にあるマルケス要塞の石牢に幽閉してしまった。そこは死海中央部のすぐ東にあるとりでで、紀元前1世紀に造られたものらしい。このとりでは谷底も覗けないほど深い谷に囲まれた、死海海面から1200メートルもそびえる山の頂にある天然のとりでで、今も敷き詰められた岩畳が残っており、そこに二つの牢獄の跡が認められるという。年およそ30歳になるヨハネは捕らわれの身となって、この深い谷に囲まれた、ユダの町々を見下ろす要塞の、薄暗い穴の中に入れられてしまった。
ヨハネは石牢の中に入れられて何か月も経過していた。絶望感深まる時もあったと思う。幸いにも弟子たちとのコンタクトは許されていたようである。彼らは、弟子たちから、キリストについての行動の情報はもらっていた。そうしているうちに、深く考え込むようになっていった。イエスはイスラエルでまだ革命的な行動は起こしていない。私もここに幽閉されたままだ。イエスとは本当に何者なのか。本当に救い主なのか。3節に注目してほしい。「おいでになるはずのお方」<ホ エルコメノス>は、実はユダヤ人にとって救い主の呼称、メシヤの別称であった。「来るべきお方」と訳して良いだろう(詩編40編7節参照)。キリスト時代のすべてのユダヤ人が、この呼び名がメシヤ、すなわち救い主を意味することを知っていた。「キリスト」の意味も救い主で、救い主の呼称である。ヨハネは今、イエスが来るべき救い主であるという確信を持てずにいる。疑いの病にかかっている。その要因は四つにわけて推測することができる。それらはどれも、私たちが陥りやすいものである。
疑う要因の第一は、望まない環境が続いているということ。ある方は次のように述べている。「誰にとっても獄中の生活は耐えがたいものであるが、バプテスマのヨハネにとってその悩みは一層深刻であった。なぜなら彼は砂漠に育った者で、常に荒野を住処とし、新鮮な風にふれ、天空を屋根としていたのである」。その彼が今、狭くて薄暗い穴の中に幽閉され、何か月も放置されている。全くの望まぬ環境。いつ出られるのか。ヨハネは真の聖徒で真の預言者。11節では「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人物はいませんでした」と言われている、すぐれた神のしもべ。聖く、非利己的で、献身的で、すばらしい人物。けれども、恥、飢え、肉体の拷問、困惑、孤独、そうしたものが彼の報酬。10節ではヨハネはメシヤの先駆者であることが言われているが、その彼が石牢の中に捨て置かれている。神の愛とあわれみはどこにあるのか。神の正義はどうなっているのか。神の慰めはないのか。メシヤ預言として知られていたイザヤ61章には「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套をつけさせる」(2,3節)というメシヤの働きが記されているが、捕らわれて、囚人の身の彼は、ピンとこないでいたのかもしれない。ヨハネは心の中で叫んでいたかもしれない。「主よ。なぜ、あなたは、いつまでもわたしを助けてくださらないのですか。なぜ悪がのさばったままにしておかれるのですか」。人は悲劇を味わう中で、救い主の性格を疑う。その愛と正義を疑う。ヨハネがどういう思いでいたのか、正確なところはわからないが、もし、私たちが、救い主はなぜ私をほおっておかれるのか、という自己憐憫に陥った時は、何の罪もないキリストが、私たちのために、私たちの罪をかぶり、十字架刑に処せられたことに思いを馳せなければならない。罪もないのに極刑に処せられるなんて、これ以上道理に合わないことはない。それは誰のためだったのか。私たちのためである。しかも、それは私たちをほおっておくためではなく、罪から解放し、永遠の救いに与らせるためである。
ヨハネのように牢獄に入れられた人物に使徒パウロがいる。彼が牢獄の中で執筆した書にピリピ人への手紙があるが、彼はそこで「喜び」ということばを頻繁に使っている。彼は牢獄の壁や鉄格子の窓や、足かせに目をやって悲嘆にくれていたわけではない。心の目を開き、主の目を注ぎ、天の御国を仰ぎ、天の御国に国籍を持つ者として、やがて全き救いに与ることを確信していた。「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」(3章20節)。新約の民である私たちは、十字架上のキリストに心を向けるとともに、よみがえり、昇天し、着座された至高の御座に心を向けることができる。キリストがそこから再臨し、御国を完成してくださることに心を向けることができる。
疑う要因の第二は、情報処理がうまくできていないということ。ヨハネは約1年近く牢獄に入れられていて、外部とは遮断された環境。キリストに関する情報はすべて又聞き。弟子たちが否定的なニュアンスで彼に伝えたことも考えられる。実は、彼が石牢に幽閉される前でさえ、キリストとのコンタクトはわずかであった。キリストの弟子たちのように、常にキリストと接していたわけではない。キリストを理解する環境としては十分とはいえない。でも、彼は旧約時代最後の預言者として、旧約聖書にある程度精通し、メシヤの特徴とその働きについて研究していたはずである。よって、少ない情報であっても、イエスはキリスト、来るべきメシヤと、揺るがぬ確信を持っていてよかった。キリストは5節を見ると、彼の旧約聖書の知識を念頭に入れ、わたしは旧約聖書で預言されていたとおり、メシヤの働きをしているのだよと、念を押して情報を与えている(イザヤ35章5,6節、61章1節参照)。私たちの場合は、ヨハネ以上の啓示を与えられている。すなわち旧約聖書プラス新約聖書が与えられている。神の啓示が完結した66巻の聖書が与えられている。よって、キリストこそ真のメシヤであり、信頼できるお方であることをはっきりと知ることができる。キリストに関する似非情報は、人の口から、人の書物から流れ出すもの。だからこそ、みことばは何と言っているのかと、いつも、みことばに帰ることが必要である。人が何と言っているかではなく聖書に帰ること。キリストご自身がここでそうさせている。
疑う要因の第三は、時代の思想の影響を受けてしまっているということ。ユダヤ人たちは旧約聖書に従って、メシヤの到来を待ち望んでいた。けれども彼らのメシヤ像というものは、狭く、政治的なものであった。主流であったメシヤ像は、メシヤとはローマの圧政から救い出してくださるお方。そのお方が「おいでになるはずの方(来るべきお方)」であった。奇跡的力と権威をもって、ローマから解放し、王様として、我々に健康を、富を、幸せをもたらしてくれる。しかし、キリストは彼らが望むような王様になる気はないようである。ヨハネは今まさしく、ローマの支配のもとにある歪んだ政治体制のもとで、無実なのに囚われている。キリストはそうした政治体制を変えてくれる気配はない。キリストは十字架裁判の時に、ローマ総督ポンティオ・ピラトに対して、ご自分が王であることを認めつつも、「わたしの国はこの世のものではありません」(ヨハネ21章36節)と告げている。キリストのこの宣言を、当時の人たちは理解できない。とにもかくにも、当時、メシヤとはどういうお方であるのかという理解が、真実と乖離してしまっていた。ヨハネもメシヤ理解が十分ではなかっただろう。当時のメシヤ理解の枠の中でもがいていた可能性はある。メシヤ本来の働きがどのようなものであるのかをつかみ損ねてしまう私たち。よって、メシヤ像にズレが生じでしまう。それは人間中心なメシヤ像がもたらしていると言える。今日も様々な疑問の声が聞こえてくる。もし神が正義ならば、なぜ世界の不義をほおっておかれるのか。なぜ多くの善人が苦しい目に会い、悪人が楽をしているのか。もし救い主が愛であるならば、なぜ信じている自分はこんな不当な目に会わなければならないのか。人間は神の壮大な計画を知らない。メシヤのタイムラインというものを知らない。狭い理解で短絡的な考え方に走ってしまいやすい。人々はメシヤが十字架刑を選択された意味を知らない。キリストは十字架によって罪と死と悪魔に勝利し、それを復活によって証明された。そして、今は悪が許されているように見えるけれども、やがて王の王、主の主として再臨され、イスラエルの回復どころか全世界の回復をもたらしてくださる。全被造物を回復し、罪も病も死も悲しみもない御国をもたらしてくださる。短絡的な考えに陥ってはならない。人知を越えた神のご計画に思いを潜めなければならないし、神の前では千年も一日の如しと、神の時が着実に刻まれていくことを知らなければならない。
疑う要因の第四は、自分の思い込みにあるということ。ヨハネはまちがいなく正義感の強い人物であった。ヨハネは投獄される前に、メシヤの働きに言及している。「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼きつくされます」(3章12節)。ヨハネはメシヤは悪をさばくために来られると、メシヤのさばく働きに強調を置いている。確かに旧約聖書は、メシヤを、悪を一掃し全世界をさばかれるお方として描いている(詩編9章3,4節等)。メシヤは厳しいさばきを行われる。ところが、キリストはいっこうにさばく様子がない。悪がのさばっているままにされている。そしてヨハネは悪人の手によって石牢に閉じ込められたまま。ヨハネは「主よ。なぜ、さばきを行わないのですか。いつまでですか」と焦燥にかられていたかもしれない。だが、さばきはある。全世界はさばかれる。しかし、それには時がある。パウロが言うように、今は恵みの日、救いの日であって、さばきは引き延ばされている。聖書はキリストが再臨される時にさばきが行われると記している。そして御国は完成する。実は、旧約聖書の記述は、注意深く観察しないと、メシヤの来臨は「初臨」と「再臨」の二度あることを見落としてしまう。つまり、メシヤは一回しか来臨しないかのように受け取ってしまう。初臨と再臨の間隔(インターバル)がないように受け取ってしまう。このように受け取り違いすると、さばきはすぐにでもあるかのように思い込んでしまう。今、キリストの初臨からすでに二千年が経過している。まだ、さばきの日は来ていない。初臨と再臨の間隔は、私たちの想像を越えてかなりある。この間隔(インターバル)を無視してしまうと、まだか、まだか、昔から何も変わっていないではないか、さばきはいつ執行されるのか、と気持ちが切れそうになってしまう。
ヨハネはキリストの十字架刑前に生きていたわけだが、キリストは悪をさばくどころか、悪人たちの手によって自らさばかれ十字架につくことになる。これをすんなり受け入れられる者は、当時、そういなかったはずである。私たちの場合はキリストの十字架刑後に生きている。十字架刑の意味を知っている。その上で再臨を待ち望んでいる。再臨を前に生きているクリスチャンは二つの大別できるだろう。世を愛する二心のクリスチャンは「そんなに早く世の終わりが来ては困ります。イエスさま、まだ来ないでください。100年先でお願いします」。しかし、ヨハネのように正義感のかたまりのようなクリスチャンは、「早く来てください。もうがまんできません。一刻も早く来て、さばきを行ってください」と、早く、早くと、せいてしまう。私たちは期待と忍耐の両方を併せ持った、バランスの取れたクリスチャンでなければならないだろう。「待ちつつ、急ぎつつ」という表現を聞いたことがあるが、良い表現であると思う。
以上、バプテスマのヨハネが、イエスが来たるべき救い主であると確信し切れない疑いの要因を見てきた。あくまでも可能性がある要因ということだけれども。いずれにしろ、石牢に幽閉されたままで、何か月経っても、その状況に変化はないし、イスラエルにも目立った変化はないし、悪はのさばっているという、その失望、落胆が疑いを引き起こしたように思う。
最後にルカ18章7,8節をご一緒に開こう。「・・・正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして信仰が見られるでしょうか」。キリストは、世の終わりの時代に、さばきが行われないと失望する者たちが起こることを見越しておられた。バプテスマのヨハネがもった焦燥はキリストの再臨前にも起こる。ペテロはそうした焦燥がすでに初代教会時代にあったので、「主はある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを遅らせているのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(第一ペテロ3章9節)と、さばきを遅らせている理由を述べている。私たちは期待と忍耐の両方を併せ持って生きるということ。そしてペテロが教えているように、主がさばきを遅らせている理由を知り、福音宣教に努めるということ。時が良くても悪くても、私たちの務めは福音宣教である。そして確かに主は来られる。主は必ず約束を成就してくださる。「しかり。わたしはすぐに来る」との主の約束がある。私たちは「アーメン。主イエスよ、来てください」と信仰を持って主の日を待ち望んでいこう。

