ここにいらっしゃる皆様は、なぜか、今、秋田で生活をしておられる。それは主がここに遣わされたからである。前回は、1~4節より、キリストに召された十二弟子の特徴を紹介させていただいた。弟子たちの中には社会的に著名人、社会的エリートはおらず、宗教の専門家もいなかった。弟子たちのリーダー格は漁師で、また弟子たちの中には、裏切り者の収税人とか過激派出身とか、キリストの弟子としてふさわしくない肩書のような者たちもいた。「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や、見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しい者を選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」(第一コリント1章26~29節)。神さまの選びは不思議である。神さまが捜している人は、自分の力に頼まず、空っぽになって神の力を求め、自分にではなく神に栄光と手柄を帰す人である。

さて9章までは、弟子たちはキリストの宣教を身近で観察してきた。キリストのメッセージを聞き、キリストのみわざを見てきた。9章までは弟子たちは師匠の働きを見て学習する段階。10章からは、弟子たちは師匠の模範を見ているだけではなく、実践する段階に移る。つまり、キリストの働きを模倣することを始める。キリストは彼らを遣わすにあたり、アドバイス、励まし、勧告、指示を与える。それが5節から42節までに記されている。それらは、すべて私たちに適用できる。今日は15節までを見ていこう。

キリストは弟子をなぜ召すのだろうか。それは、この世に遣わすためである(5節前半)。「遣わす」<アポステロー>ということばが重要である。この名詞形<アポストロス>が「使徒」と訳されているが、直訳は「遣わされた者」である。この「遣わす」ということばは、使者として遣わす権威者がおられるということが前提としてあることばである。ローマでもユダヤでも、使者を遣わすという習慣が普及していた。使者は必ずしも法的に地位の高い人とはかぎらず、奴隷が遣わされることもあった。けれどもその奴隷はただの奴隷ではなく、権威者の代理人であり、その権威をまとっていた。使者は彼を遣わした権威者自身に等しいとみなされた。その使者を侮辱することは、遣わした権威者を侮辱するのに等しかった。日本でも戦国時代、武将に使いを任された家臣たちがいた。家臣は武将の権威を負って遣わされていくわけである。私たちが認識しなければならないことは、私たちを遣わしたお方は誰なのかということ。・・・主イエス・キリストである。私たちは主キリストの代理人である。マタイ10章40節を見よ。「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです・・・」。キリストは有名なヨハネ17章の祈りにおいて、こう祈っている。「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。・・・あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました」(ヨハネ17章16~18節)。そうすると、私たちはどういう存在なのか、見えてきたのではないだろうか。毎日、自分は何をやっているのかと思う毎日でも、自分は責任と使命を主から託され、主キリストからこの世に遣わされているのだと思えば、心が奮い立たせられるし、がっかりすることがあっても、主の支えを感じ取ることができる。

十二弟子たちが遣わされた領域はイスラエルのみだった(5節後半~6節)。キリストは異邦人やサマリヤ人はどうでもいいと思っていたわけではない。というのは、キリストは復活された後、「全世界に出て行って、あらゆる国の人を弟子としなさい」という大宣教命令を与えておられるから。実際、前回お話したように、十二弟子たちは、異邦人宣教、海外宣教に励むことになる。けれども、最初の宣教は地理的にイスラエルに限定される。それが世界に広がっていくという図式である。地理的領域を限定したのは、彼らの訓練の機会としても、まず同国人からというのは自然なことである。彼らは訓練され、やがて国外にまで遣わされていく。では、私たちは今どこに遣わされているのか。私たちにとっては、まず秋田県南ということになる。私たちはキリストの全権大使として、ここに遣わされている。

キリストは宣教の対象を「失われた羊」と呼んでいる(6節)。このイメージを確かにするには、9章36節の主のことばを思い起こすのが良い。群衆は羊飼いを失った羊のように右往左往して疲れ果て、ダウンして、滅びに向かっているような姿である。キリストはそれを見て、「かわいそうに」、すなわち、腸のちぎれるような思いにかられていたわけである。私たちはキリストの心を心として、この世の人々を見ていかなければならないわけである。そうしたら、ほおってはおけないという思いになるだろう。

実際の任務は二つある。第一は御国の福音を伝えることである(7節)。「御国」とは聖書の神学において、「神の支配」を意味する。その支配の中が安全な救いの領域である。キリストを信じることによって、その人のたましいが神の支配の中に置かれているなら、御国はその人に訪れている。この場合の御国は目に見えない。この御国は、キリストが再臨された後、現実に目に見える事柄として完成する。それは新天新地と呼ばれるものである(黙示録21章)。そして「国」とは王があって成り立つ概念であるが、御国の王とはイエス・キリストである。「福音」とは罪人に対するグッドニュースを意味するが、罪を悔い改め、キリストを罪からの救い主として信じ受け入れるならば、すべての罪が赦され、一度も罪を犯さなかった者であるかのように御国に救い入れられるというのは、まさしく自分の罪に苦しみあえいでいる者にとって、グッドニュースである。どんなに罪滅ぼしのわざをしても罪は消えるものではないが、どんなに善行を積んでも、罪は引き算すれば残るが、人類の罪の身代わりに十字架についてくださったキリストを信じるだけで、罪の負債はすべて消し去られ、罪のさばきから解放され、大手を振って御国に入ることが許されるわけである。これが福音である。この福音を携えて出て行くことを、当教会の理念では「捜す愛」と呼んでいる。

任務の二つ目は、御国の福音に伴うしるしを示すことである(8節)。8節は十二使徒に与えられた超自然的しるしであり、誰しもができることではない。しかし、ここで見落としてならないことは、これらはすべて、人を助ける愛の行いとなっているということである。これは当教会の理念では、福音のパートナーとしての「照らす愛」である。それは愛の行いである。二つが福音宣教の両輪として機能することがみこころである。私たち一人ひとりは使徒たちがしたようなことはできなくとも、隣人に対して良きサマリヤ人になることができるだろう。

9~11節では、宣教旅行にあって、シンプルライフを生きるように言われている。旅行の装備は軽装で、通常の旅行用の装備は禁止されている。「旅行用の袋」すなわちバックを持っていくことを禁止しているというのは驚き。その他の持ち物を見ても、二日目、三日目はどうなるの?という日帰りの装備しか許されていない。これでやっていけるのか?物乞いしろということなのか?しかしキリストは物乞いも禁じているようである。働く者には備えがあるという信仰を働かさなければならないわけである。シンプルライフは自分たちは神によって養われるのだと自覚する良い訓練となる。「日毎の糧を今日もお与えください」と真剣に祈ることになり、天の父の養いを実感させられることになる。またシンプルライフは当然のことながら、御国前進のために献げることを尊ぶ。アッシジのフランチェスコは、極端なまでにも、このシンプルライフを実践したことは有名である。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢に打ち勝って、シンプルライフを実践することこそ、クリスチャンの生活である。

11節は個人の家に宿泊するようにアドバイスされている。使徒の時代に入っても、パウロやペテロたちは各家々に泊まりながら巡回伝道をしていた。古代地中海の人たちは、ホスピタリティ(おもてなし)を強調した。宿屋として自分の家を提供するのは自然なことだった。しかし、偽教師たちも巡ってきた。そこで初代教会時代、ある基準を設けた。「三日以上泊まることを求めてきたり、金銭を求める者は偽教師である」(十二使徒の教えより)。いずれ、御国のために犠牲を払うシンプルライフとホスピタリティは、現代の私たちにもチャレンジとなる。11節は注意深く見ると、宿泊する側への注意となっている。「そこでだれか適当な人かを調べて」とある。1世紀のパレスチナのユダヤ社会の実情では、ホスピタリティというものは、そう当てになるものでもなかった。だから、誰の家でもかまわないということではない。ひどい扱いを受けるかもしれない。だから、調べるという慎重さも必要だった。

最後に、遣わされた町、家でのふるまいについて見てみよう(12~15節)。弟子たちはまず、家々で、平安を祈るあいさつをするように言われている(12,13節)。ユダヤ人は「平和、平安」を意味することば、「シャローム」とあいさつするのが常であった。これは相手を祝福することばであるが、その意味は深い。シャロームには「平和、繁栄、満ち満ちた状態、幸せ、からだ・心・たましいの完全性、救い」といった意味がある。だから「気分が良くなるように」程度のことではない。感情がおだやかであることを願うあいさつではない。これは神からの祝福を願うあいさつ、神からの救いを願うあいさつ、神にある幸せを願うあいさつである。祝福を与えることばなのである。当教会の今年度の標語は「平安があるように」であり、目標は「祝福を与え、平安の子を見いだす」である。私たちクリスチャンは祝福を与えるために召されている。7節にあるように御国の福音を伝え、8節にあるように、世の人のからだのいやしや心のいやし、また生活の建て上げに携わり、そして12節にあるように、平安を祈る。それは、その人が救われ、すべての面で祝福されるようにというギフトである。これらをすることがキリストの全権大使としての役割である。今年の目標を覚えよう。家々で、また自分の生活空間の中で出会う人に対して、この祝福を与える祈りをしよう。心の中でもいい。私たちは祝福を与えるために召されている。私たちはその家、その人の幸い、祝福を祈っても、その人から拒絶されることがある。その時は13節のことばを思い出そう。「・・・もし、ふさわしい家でないなら、その平安(すなわち祝福)はあなたがたのところに帰ってきます」。だから祈って、何の損もない。

キリストは平安を祈るあいさつを実践することについて、足のちりを払い落とすことについても触れている。その家が、その町が、主の代理人としての自分を受け入れてくれない、福音を拒絶する。その際、足のちりを払い落とすことが言われている。これは人々を呪う行為ではない。先ほどお話したように、私たちは祝福を与えるためだけに召されている。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです」(第一ペテロ3章9節)。「あなたがたは迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません」(ローマ12章14節)。足のちりを払い落とす背景についてお話しておこう。多くのユダヤ人は異邦人の地からイスラエルに戻るとき、ホームランドに異教の地の土が入ってしまわないように、足のちりを払い落とした。聖地に汚れた土を入れるわけにはいかないということである。けれども、キリストはそんなことを言っているわけではない。イスラエル国内でのことについて指示を与えている。福音を拒んだユダヤ人の家、ユダヤ人の町から出るとき、足のちりを払い落とす。これは、福音を拒んだら、あなたがたは御国の外側に置かれます、というしるしである。御国の民とされるかどうかというのはユダヤ人か異邦人かということではない。それはパリサイ人たちといった民族主義者の考え方。御国の民とされるかどうかは、ユダヤ人か異邦人かという民族、人種の別によって決まるのではない。それは、福音への態度で決まる。キリストはそれをここで明確にしている。

さて、私たちの福音の態度はどうだろうか。最後に第二コリント5章20~21節を開こう。そこには福音を受け入れなさい、との勧めがある。私たちの罪が、私たち人間と神との関係を絶縁してしまう。けれども、「私たちの代わりに罪とされ」たキリストを、私の罪からの救い主として信じ受け入れるなら、罪赦され、義とされる。何の罪も犯していないキリストの義が私たちに与えられ、神と和解する。これが福音である。どうぞ、キリストを私の罪からの救い主と信じ受け入れて安らいでください。すでに信じ受けいれておられる方は、20節でパウロが言っているように、「キリストの使節」として、キリストに代わって、キリストに遣わされたキリストの代理人として、忍耐と寛容と柔和さをもって、遣わされた所で福音を伝えていこう。