童話や絵本には、狼が登場するものがよくある。「赤ずきんちゃん」などが有名であろうか。狼はたくみに誘惑し、あるいは一撃必殺で獲物をしとめる。しかし、こうしたことは創作物語の世界のことだけではない。

10章には、主キリストが弟子たちを宣教に派遣する前に与えられた指示が記されている。この世に神の国の福音を宣べ伝へるために遣わされて行く弟子たちには、どのような心構えが必要なのかと。

今日の箇所で、キリストは弟子たちを羊にたとえている。弟子たちはキリストの代理人として権威を帯びて出て行くけれども、一人ひとりは羊のようなものにすぎない。ここに緊張関係がある。弟子たちはキリストの力、強さを帯びることができるけれども、本来攻撃に弱いものにすぎない。強いが弱いという存在。本来、羊のようなものにすぎない。そして行く先々で狼に出会う。

羊は一般的な動物の中で、おそらく最も無力で、弱く、愚かでまぬけな動物である。動物の中のオバカキャラと言ってよい。羊たちは臆病なので、危険が迫ってこなくとも、ちょっとした物音でパニックになる。そして本当に危険が身に迫ってきたとき、走るほかは身を守る手段はない。足が速いならいい。しかし残念ながら足は見事に遅い。戦う武器もない。羊たちは草を食べるわけだが、どれが毒の雑草かを見分けることができずに食べたりしてしまう。病気や感染症にも弱い。ぶんぶんうなるハエが目や耳の周りにいると、うるさがって癇癪をお越し、死ぬまで頭を木や岩に打ちつけることをしてしまう。目が悪く方向オンチで賢く行動できない。うっかり危険な所にも行ってしまう。羊の最大の敵は捕食動物で、パレスチナでは狼が良く知られている。パレスチナの狼は野犬ほどで体は大きくないけれども、凶暴で足も速い。頭も羊よりいい。鈍足で、まぬけで、無力な羊たちは、狼たちのかっこうの餌食になってしまう。

「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです」(16節前半)。羊の通常の危険は、彼らの中に、狼がやってくるとき。しかし、ここでイエスさまは違うことを言っている。狼の中に羊を送り出す。普通の羊飼いはこんな危険なことは絶対にしない。けれども、イエスさまは、敵である狼がうろつき回っている領域に、羊である彼らを送り出すと言うのである。

私たちも十二弟子たちと同様、この世に遣わされた者たちである。そこに危険がある。だから、この世の現実を知っておかなければならない。「私たちは神からのものであり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています」(第一ヨハネ5章19節)。敵意と悪と偽りに満ちている世界、さあ、どうしなければならないのか。求められているのはバランスである。絶妙なバランスである。「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」(16節後半)。

エジプトやその他の国々の古代伝承では、蛇は知恵のシンボルとされていた。蛇は賢く、抜け目なく、用心深い。イエスさまは私たちに対して、賢明であること、知恵を働かせること、用心深くあることを願っておられる。「蛇のようにさとく」賢くあられた模範は、イエスさまのパリサイ人との問答に見られる。パリサイ人たちはイエスさまの言葉尻をとらえ、わなにはめることを何度も試みた。けれども、ひっかからなかった。この「さとく」「賢く」は、単に頭の回転の良さと取られないために「思慮深さ」としても良いだろう。「蛇のようにさとく」は、「蛇のように賢く」とも、「蛇のように思慮深く」とも訳すことができる。どういう言動をもって今を切り抜けていけばいいのか、弟子にはいつも知恵が、賢さが、思慮深さが求められる。

だましてくるということに関して言えば、私たちには、「自分だけは大丈夫」という落とし穴がある。自分は大丈夫という人たちこそ、誘惑に負ける。まただまされる。見知らぬ人間による児童誘拐の心理を研究レポートしたものがある。ほとんどの誘拐は力ずくの拉致というよりも、穏やかな説得で子どもをおびき寄せる。最も良く使われる手口は、愛情、贈り物、支援を提供するか、反対に子どもに助けを求めることである。学校心理学を専門にしているある女性が、自分の娘を使って実験した。先ず、自分の娘に対して、知らない人について行ってはいけないというお決まりの説教をし、誘拐する人の手口や特徴を説明した後、彼女は自分の友人に見知らぬ女性役をかってもらって、娘を試した。その女性がさりげなくその女の子を店の外に呼び出すと、女の子はついて行ってしまったという。知らない人に誘われたらどうするかと子どもたちに問いかけると、子どもたちのほぼ全員が、絶対に応じないと断言する。ところが、研究では逆の結果が出ている。ある典型的な実験の例だが、児童誘拐の防止訓練を受けていない75%の子どもたちが知らない人たちについて行った。では児童誘拐の防止訓練を受けた子どもたちはどうであったかというと、なんと防止訓練を受けたにもかかわらず、同数の75%の子どもたちが知らない人についていった。子どもたちだけだまされやすいのか。いや大人たちも、そう大差ないだろう。「自分は大丈夫」という幻想は捨てたほうがいい。

常習的にだまされやすい人は、自分の弱さを認めたがらないということが、調査結果から出ている。だましの手口とだまされる心理、人心操作はかなり研究されていて、商売やカルトの世界で応用されている。だまされる人たちには、意外に頭が良いと思われている人たちも多い。どうしてだまされるのか。人間の心は弱い。親切さ、思いやり深さ、そうした情に弱い。だましの王道の一つは友好的であること。親切で面倒見がいいということがあげられる。二番目に、誠実さがあげられる。誠実に見え信頼できそうだとなる。人は語っている中身よりも、性格で判断しようとする。私のことを思って真剣に語ってくれている、情熱を傾けてくれている、とてもまじめに見える。三番目に、見た目の好感。外見が魅力的な人は明らかに好まれ、そういう人のほうが、より賢く、親切で、誠実で、出世していて、社交上手で、道徳性が高いと思われる。たとえば、議員の選挙のとき注目が集まるのは、何を語っているかということよりも、説得のプロの誠実さ、道徳性といったことであり、そして外見の魅力である。四番目に、権威があげられる。これは肩書であったり、履歴であったり、資格であったり。また特別な能力であったり、奇跡を行う力であったり。こうしたものは相手を信用させる強力な武器となる。五番目に、その人の関心のあるもの、魅力に感じているものを提示するということ。こうしたもので心を奪って、人心操作をしていく。操作されている人はだまされているにもかかわらず、わたしのことを思ってくれていると、目覚めることができないまま、深みにはまっていく。知性さえもまともに働かなくなっていく。知性が壊死していく。だから落ち着いて、批判的思考を養って、相手の雰囲気や外見や肩書にとらわれることなく、相手の話している内容をみことばによって検証する余裕を持たなければならない。そして自分で即断せず、神の助けを仰ぐ習慣を養わなければならない。今、見てきた誘惑、だましについては、蛇に誘惑され禁断の実に手を出してしまったアダムとエバの事例から学ぶといい。蛇はだましの手法を見事に駆使している。親切さを装い近づき、自分が言っていることは本当だと誠実に思わせた。外見ということでは、蛇はヘブル語で「輝いて、美しいあるもの」を意味するので、外見でもアピールしたと言えるだろう。事実、悪魔の言及であると思われているエゼキエル28章27節では「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた」とある。権威ということでは、野の獣でナンバーワンの知者であることは誰しもが認めるところであったので、つい耳を傾けてしまうだろう。そして蛇は彼らが好ましく思っている禁断の実に心と目をくぎ付けにさせ、こうして二人から霊的いのちを奪った。この誘惑とだましの王様である悪魔は今も手を緩めていない。

私たちは知恵比べのような場に立たされることがあるだろう。また今見たような、だまされる誘惑に会うかもしれない。そして面と向かって反対してくるような場面にも遭遇する。神にある知恵、賢さ、思慮深さが不可欠になる。それはみことばによって養い、また御座を仰いで、聖霊からいただくものである。

イエスさまは、蛇とは全く対照的な動物も模範にあげる。「鳩のようにすなおでありなさい」。鳩の性質は蛇を意識すると、よく分かる。悪賢くない、するくない、陰険でない、ウラオモテがない、見せかけがない、だまさない、あざむかない、害を与えない。そういう意味で、誠実で、純真、無垢。「鳩のようにすなおでありなさい」は、「鳩のように純真でありなさい」と訳せる。「すなお」<アケパイオス>は、「混じり気のないこと、純粋であること、悪に染まっていないこと」を意味する。この状態は神を意識して言い換えると、神に対してすなおで従順な姿である。親を全く信じきってすなおに従う子どものような姿である。悪魔に対しては用心して賢くあろうとするけれども、神に対してはすなおに従う純真な子どもである。今、見てきたように、成熟した弟子は二つの顔をもつ。この世の悪や偽りの教えのえじきにならない大人の判断力がある。と同時に、すなおな子どものような性質を兼ね備えている。私たちもそうでありたい。

遣わされた場でどのようなことが起きるのかということにおいて、10章全体の印象では、反対が起きることに強調が置かれているようである。そこで次に、反対に対して心を奮い立たせる必要があることを見ていこう。21節まで見ると、イエスさまは三つの領域で反対に遭うことを告げている。

第一番目は宗教的な領域(17節)。「議会」とは、ユダヤ教が律法に則って裁く宗教裁判所。これが各町々にあった。他宗教からの反対はどこでも起きる。

第二番目は政治的な領域(18~20節)。自分たちが悪いことをして捕まったというなら、証にも何にもならない。ここでは「わたしのゆえに」(18節)と、あくまでもイエスさまに従って起きた結果のことが言われている。信教の自由が完全に保障されている国は少ない。日本でも形の上では保障されているが、国家、君が代問題で明らかなように、完全な政教分離の国ではない。それゆえに圧力もかかる。ここでは、人前に連れ出された時、聖霊がことばをくださると約束されている。聖霊は知恵のことばをくださる。これは言葉の人ではない私たちにとって慰めとなる約束である。

第三番目は家族の領域(21節)。現代でも、ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教、チベット仏教圏のような、宗教が生活に密着していて白黒はっきりさせる文化圏では、親子断絶の処置や文字どおり死に渡す処置も当たり前に起きる。日本ではキリシタン時代にあっただろう。無神論を強要する共産圏でも起こりうる。古代ローマでは、キリスト教が国教となるまで、兄弟、父、子どもたちからの迫害が実際にあった。現代日本でも家族の理解が得られないことは多い。

22節では反対を受ける範囲ということで「すべての人々」からの反対について言われている。「すべての人々」とは、あらゆる民族、国民、階級、そういう意味であろう。しかし、キリストは「最後まで耐え忍ぶ者は救われます」と励ましていてくださる。

最後の23節では、反対の中での福音宣教について言われている。反対に遭って、次の町に逃れながらの福音宣教。実は、これがキリストの福音が広まるために、神が用いられた手段であった。エルサレム教会に対して迫害があったとき、聖徒たちはユダヤとサマリヤの諸地方に散らされ、そこでユダヤ人たちに福音を伝えた(使徒8章1節)。そして迫害されたユダヤ人たちは、ヨーロッパにも渡り、異邦人にも福音を伝えるようになる(使徒11章19,20節)。そして福音は拡大していく。ローマではユダヤ人追放令が40年代に出されたことがあったが、追放されたユダヤ人クリスチャンたちは、周辺諸国に福音を伝えている。反対に遭うと、クリスチャンたちは蜘蛛の子のようにパーッと諸国に散り、そこで福音を伝えていったのである。日本のキリシタン時代の宣教でも同様のことが起きている。神のなさることは人間の思いを越えている。

現代はこのようなあからさまな反対に遭う時代ではない。少なくとも日本では。今は、悪魔はクリスチャンたちに、神の国とその義とを第一に求めさせるのをやめさせ、「エジプトに仕えるほうが、この荒野で死ぬよりもましだ」と思わせ、世俗への関心に没頭させていると言えるかもしれない。また日本での宣教は難しいと閉塞感で私たちの士気をくじこうとしているようである。いずれ、無関心、迷惑顔に、心くじけていてはならない。私たちは、霊の眼を開いて、キリストが私たちを罪から救うために全身全霊を十字架で献げ、犠牲となったその愛のみわざを繰り返し仰ぐ必要がある。救いはここにしかない。また勝利の人生も十字架の道にある。十字架こそ勝利である。十字架を通して、主は罪と死と悪魔に打ち勝たれた。それを復活を通して証明された。そして栄光の御座に挙げられた。キリストは見捨てられ、傷めつけられ、血を流して死んで終わったのではない。主は十字架を通して勝利をもたらし、栄光を受けられた。主の背中を見て従う私たちも、人生どんなことがあっても主の栄光に与る。心の中に十字架を打ち立てて歩んで行きたい。