今朝は「どうしても知ってほしいこと」というテーマで、皆様にどうしても知っていただきたいことを、三つお話させていただきたいと思っている。一つ目は、神は唯一であり、創造主であるということ(5節前半)。二つ目は、神は罪を裁くお方であるということ。三つ目は、神は私たちを罪から救うために、キリストを十字架の上で罪の身代わりとされたということ(6節)。これら三つのことを、日本人の神観を意識しながら語らせていただきたい。日本古来の神観を知るには古神道を知るのが一番。古神道においては、神とは誰かという視点ではなく、すべてが神と捉える。そして罪は祓えると説く。神道には禊祓(みそぎはらい)がある。禊祓で罪穢れ、厄を祓う。どのようにして祓うのか。海、川、滝、井戸などの水浴で祓う。手や顔を洗う、食器を洗う、衣服を洗う、川や海につかる、このようにして洗い流す。その他、火による祓い、塩による祓いがあるが、これらは水を用いる祓いから派生したものである。火による祓いは、汚れたものを燃やした煙を雲に混ぜて、雨にして海に返す。海からとれる清めの塩は、本来は水の代用品として用いられた。水を撒けない所に塩を撒いた。だから祓いの基本は水。水で汚いものを祓い落とす。川は穢れを海に運ぶ。海からとれた塩にも祓いの力があるとする。基本は水。私は水で服についた汚れを取り去ることさえ難しいのに、なぜ水で罪穢れを祓えると真っ向から主張できるのか分からないでいた。しかし、調べて分かった。神道の神様は自然神であり、神は最初、水として現れ、後に万物の姿をとったとする。万物は神の化身であると教えていたことは知っていた。木も山も動物も人間も、みな神々であり、神の一部であるとする。その神は最初に水として現れたというわけである。日本国土は水に囲まれ、水の豊かな国である。古代日本人は、生命を与える水を見て、神は最初に水の形をとられたと信じたようである。だから古来より日本人は「水神」を丁重に祭っている。水イコール神なわけである。だから、水によって清まるとは、神によって清まるということなのである。余談だが、慶弔袋などにある、紅白の「水引」も、水で清めることと関係している。

水は神様というわけだが、それにしても、水浴で清められるなんてシンプルすぎないのかという疑問を抱く人もおられるかもしれない。これは神道の人間観と罪の定義を知れば、そういうことなのかと分かる。神道では罪の償いとか刑罰とか深刻なことは言わず、楽観的である。万物は神の化身であり、人間も神の一部であるので、人間は清いたましいをもって生まれてきた神の子とされる。人間は生まれながらにして神の子どもなので、その人間の犯す罪とは、いわば神から生じたものなので、深刻なものとは捉えず、ちり、ほこりのようなものとみなす。だから祓える。現代風に言うと、拭けばとれる窓ガラスの曇りにたとえることができるだろう。こうして人の犯す過ちは懲らしめの対象となっても刑罰の対象とされない。神道では死んだ者が行く世界は黄泉の世界とされるが、死んだ後に行く黄泉の世界も刑罰を受ける所ではないと断言する。そこはたましいにみがきをかける世界にすぎない。人は死後、たましいをみがいて、一定の期間を経て、神の地位に着き、神々の一人として祭られることになる。死んだ後、神として祭られるというのが神道の特徴である。けれども、神道には悪神(悪い神)がいるではないか。そう悪い神がいる。神道では祟りを恐れて祀るということが基本として行われてきた。疫病神などが悪神の代表。悪い霊に神という名称を与えるのはどうかと思うが、けれども神道が主張するには、本来は善良な神なのに出来心で悪い気持ちに憑りつかれているだけなのだから、心を込めて祀ってあげることによって素直な気持ちの良い神様になれると考える。このように神道では、すべての人格的存在を善とみなすので、そこから生じた罪穢れも深刻なものとして考えられておらず、だから罪は水で祓えばとれるものと考える。「水に流しましょう」という日本独特の表現は、今述べた人間観、罪観から来ている。

仏教では、罪についてどう捕えているかというなら、釈迦は明言しなかったわけだが、通説となっていったのは、罪ある人間は死ねば六道輪廻のどこかの世界に生まれ変わり、罪の償いをしなければならないということ。六道の一番下の世界は地獄で、そこは閻魔大王が主宰していると言われる刑罰を与える世界で、一番の罪の懲らしめの領域。小乗仏教では、ほとんどの人間がその罪ゆえに、畜生の世界に生まれ変わるとも主張している。そしてたとい天上界に生まれ変わったとしても、そこは救いの世界ではなく、救われるための修行の場にすぎない。そこで何十億年、何百億年、修行を積まなければならないという。六道輪廻という円環の中でグルグル回って生まれ変わり続けることを止め、この円環から脱することこそ救いというわけである。これを「解脱」と呼ぶ。解脱した者が入る世界を「涅槃」と呼ぶ。もはや生まれ変わらない者になること、輪廻転生しない者になること、そのために罪の償いを続け、長年修行に励まなければ、最終的解決はないというわけである。六道輪廻、輪廻転生は、実は仏教発祥の教えではなく、バラモン教が説いた教えである。

では、聖書は罪についてどう説いているのだろうか。人間の努力、修養、善行、修行によっては、決して罪は赦されないと、厳しいことを説いている。なぜなら、犯した罪は、何百年、何千年経とうとも風化しない実体としてあり、どれ一つなくなることなく、犯した時と変わらず、その時のまんまでいつも神の前にあるからである。私たちがその罪を忘れても、良心痛みが消えても、犯した時と同じままの罪で、神の裁きの座に立たなければならない。それらの罪は善行によっても消えない。何十年、何百年修行に励もうとも消えない。どんなに良い行いに励んでも引き算すれば残る。その罪は裁きに値する。神の完全な聖さ、完全な正しさは裁きを要求する。では、誰が救われるというのか?もし救いの道があるとするなら、どうしたら救われるのか?神は正義のお方であると同時に愛のお方でもある。救いの道を備えてくださった。神は、私たちの救いのために、身代わりの罪の刑罰、キリストの十字架を備えられた。キリストは十字架で罪人の身代わりとなり、神の刑罰を受けてくださり、信じる者を救おうとされた。

キリストの十字架と比較できるお祓いが神道にある。神道には、実は水による祓いの他に、他の祓いもある。お賽銭もそうである。神社に参拝して、お賽銭を上げて、体についた罪穢れや厄をお金につけて祓う。これは長年行われてきた。聖書ではどんなに大金を積んでも、罪は祓えない、赦してもらえない、と説いている。6節に「贖いの代価」とある。これは罪が赦されるための身代金と理解してください。牢獄からの釈放ならば、お金で解決することもある。でもこの場合の贖いの代価とは、お金ではない。何の罪も犯されなかったというキリストのきよいいのち。キリストはそのきよいいのちを十字架刑で差し出して、私たちを罪から救おうとされた。キリストのいのちはお金では換算できない高価で尊いもの。この位の犠牲を払わなければ、人間の罪が赦される道はなかったと聖書は説いている。実は、神道ではお金より効力のあるお祓いがあると主張している。神道では、年二回、形代(かたしろ)という紙人形に自分の名前と数え年を書いたものを神社にもっていき、それを火で焼いて祓うことをする。罪穢れや厄を人形に移して祓うという儀式。人形が身代わり。昔は罪穢れや厄を紙人形に移して川に流すということも良く行われていた。それに対して聖書では、罪を移され、罪を負って、十字架の上で私たちの身代わりに裁きを受けた存在がキリストであると教えている。5節でこのキリストは、「また、神と人との仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」と言われている。

これまでお話してきたことを一旦整理すると、日本では、神と万物は一体であるとみなし、すべてに神の性質を見ていく教えが浸透している。これが「八百万の神々」を生み出した。けれども聖書は多神教を認めず、神は唯一と説く。その神は創造主であり、山も川も海も造られた創造主であるとする。また人間も神が造られた存在とする。神は人間を自由意志をもつ存在として造られ、造られた当初は罪人ではなかったのだが、人間は神にそむき、自己中心の罪を犯してしまった。それ以来、人は自己中心の罪をもって生まれ、個々の罪を犯すようになった。この罪は裁きの対象となる。罪を犯せば良心が咎めるのは、罪とはどういうものかを自然に証している。すなわち、罪は裁きをもたらすものであるということ。この罪は水で流れるとはしない。また聖書は、人間の努力修養も、罪の償いの善行も、罪を取り去らないと断言する。罪とは本来深刻なものである。この罪の解決のために、キリストの十字架がどうしても必要であったと聖書は説く。他の宗教にはなくてキリスト教のだけあるもの、それがキリストの十字架の犠牲である。キリストは十字架で私たち罪人の身代わりとなられた。罪の裁きを受けられた。罪人の身代わりになる条件として、次のような文章がある。「まず、第一に、人の代わりになるのですから『人』でなくてはなりません。しかも、『罪のない人』でなければだめです。ということはふつうの人ではだめだということになります。それにもし、罪を犯したことのない人がいたとしても、ひとりの人はただひとりの身代わりがつとまるだけなのです。ですから、私たちの身代わりとして死んでくださるお方は、ただ『神であるとともに人である』イエスだけということになります。」(羽鳥純二)。神であるとともに人であるキリストが、神と人との間の仲介者として、罪の身代わりになってくださった。このキリストを信じる者に罪の赦しがある。これが聖書の教えの核心である。

次に、仏教について歴史を振り返りつつ、ああ、そうなのかと知っていただきたいことがある。仏教以前にインドで広まっていた教えはヒンズー教だった。現代でも東洋で一番宗教人口が多いのはヒンズー教である(ヒンズー教9億、仏教2億)。ヒンズー教は、もとはバラモン教と呼んだ。日本の神々の弁天だとか大黒は、インドのバラモン教由来の神様であることは良く知られている。バラモン教は神道と似ていて教祖をもたない。そして同じく自然崇拝であり、何でも神々にしていく。神道と似ている。雨や風や河川などの自然を信奉し、鬼のような恐い人格も神々として祭り上げて行く。日本で馴染みの深いお稲荷さんは、バラモン教の神様で、魔女ダキニに由来している。閻魔大王もそうである。インドでは八百万(やおよろず)どころか、つまり八百万(はっぴゃくまん)どころか、一千万以上の神々を創りだしていった。バラモン教は、神が世界を創造したのだという表現を一応使う。ブラフマン(梵天)が宇宙の創造神であり、宇宙の本源であり、絶対神であると主張している。しかし、この創造神は、聖書が説く創造主とは違っていて、創造神であるブラフマンから、分化していって色々なものができていったとする。つまり、世界はブラフマンの分身で、やはり神の一部となる。神と万物は一体であるという教えである。だからブラフマンの分身であるものは神々として信仰しようということになる。さらに神道と同じく、水による清めを教える。皆さんもテレビ番組で、人々がガンジス川で沐浴している光景を見たことがあるだろう。あれはただ身体の穢れを洗い流しているだけではない。心の穢れや罪を清めようとしている。ガンジスの水そのものが信仰の対象なのである。ガンジス川である者は頭を水中にまで沈め、ある者は口をすすぎ目を洗う。その上流では荼毘に付した遺骨の灰を流し、洗濯もする。すさまじい光景にも思えるが、神の水なので、気にはしないのである。バラモン教には、今のカースト制度の元となる階級制度がある。階級制度のトップに来るのがバラモンという祭司である。このバラモンの祭司儀礼に与れば、人は人間界に生まれ変わることなく、神々の世界とか天上界に生まれ変わることができるという。

さて、バラモンたちが出現していた頃、実はバラモンに対して、もう一つの宗教家の群があった。「シュラマナ」である。この「シュラマナ」に釈迦が属していた。彼らはバラモンの階級制度に反対した人たちで、瞑想主義である。シュラマナには神の観念がなかった。神を持たない宗教であり、哲学といってよかった。人間の自然界は神が造ったものとは考えなかった。神々も拝まなかった。このシュラマナの一人の釈尊は、紀元前463年に誕生し80年の生涯を送る。釈尊は真理の探究者であり、その真理とは「法」(ダルマ)であると考えた。聖書では真理とは神であり、「わたしが道であり真理でありいのちです」と宣言された主キリストであるとする。キリストを外せない。しかし釈尊は法が真理であるとする。その法とは「縁起(えんぎ)の法」。これを説明する前に「空」について説明しておきたい。彼は第一原因となる存在とか、絶対原因とか、すべてを発祥する一なる存在とか、創造主とか、絶対神とかを考えない。それ自体で固有の実体をもつものは何もなく、自立自存できるものは何もないとした。これを「空」と呼んだ。しかし聖書は、それ自体で存在する自立自存の存在を神と呼ぶ。聖書では、神とは世界が生み出される前から存在していた絶対者で、自立自存の神。何にも頼らなくても永遠に存在する神と説く。しかし、釈尊はそうした存在を認めることなく、すべてのものは関わり合いの中で存在しているとした。世界にあるすべてのものが相互に依存関係をもって生じたり、変化したりしている。つまり、他のものに縁りて(縁で)起こっている。これを「縁起」と呼んだ。永久、恒久の実体は何もなく、それ自体で不滅のものは何もなく、すべてのものが縁で起きている。縁起を一輪の花で説明すると、種を蒔くから花が咲く。そしてそこには、水や光や空気、養分が関係している。花自体で存在しているのではない。他のものに縁りて起こっている。花の蜜は蜜蜂たちのエサになり、別のものに影響を与えて行く。枯れた花は土の養分となる。こうしてすべてのものは相互に関係し合いながら変化を遂げて在り続けていく。釈迦は人生の諸相も縁起で見る。ある弟子が第一原因探しの質問を釈迦にしたという。「生まれること、老いること、死ぬことの現象は何に属するのでしょうか」。釈迦は「その質問は正しくない」と戒めて、「生まれることがあるから老いがあるのであり、死があるのだ」と答えたという。なぜ?と問うよりも、関わり合い、連鎖、相互の関係性の中で人生を見つめるように説いたわけである。彼は人間を不幸にするものとして、苦しみを重視し、罪というよりも苦しみからの解放を説いた。なぜ苦しむのか。縁起の法が分かっていないからだとする。縁起の法という真理に目覚めた人がブッダと呼ばれる。縁起によると、苦しみは執着というこだわりから生じる。こだわりが生じると苦しみは生まれる。ではどうしたら良いのか?こだわりを無くせば苦しみから解放される。彼は、こだわらない人になれ、と「中道」を説いた。釈迦が悟ったという内容の理解についての詳細は宗派によって分かれている。彼の「縁起の法」というものの見方、考え方はすぐれたところがあるが、すべてのものは移り変わっても消え去っても在る、永久、恒久の不変の神の存在を認めなかったことは確かである。聖書は、神は永遠から永遠まで存在する自立自存の神であり、草は枯れ、花はしぼんでも、永遠に変わらない不変のお方であり、このお方が私たち人間を造られたので、私たち人間は神さまを離れてはほんとうの幸せは無いと説いている。この絶対者で不変である永遠の神そのものが永遠のいのちであり、真理であり、私たちが立ち返るべき存在であり、幸せの根源である。

祖先崇拝についても触れておこう。仏教は先に見たように哲学として始まったが、入滅後、釈迦自体が信仰の対象とされていき、仏の存在もたくさんに増えていった。そして大陸文化の影響を受けて、仏像を造りだし拝まれるようになっていった。日本のまじめな神道家たちは、百済から伝わった金ぴかの仏像のお蔭で、その影響を受けて、神道でも神像を作りだすようになってしまったと文句を言っているが、本来、仏教も、手で造った偶像とは何ら関係のない教えである。実はお墓や仏壇とも関係がなかった。なぜかといえば、死んだら六道輪廻のどこかの世界に生まれ変わっていると信じていたので、死者のたましいの住処を作ることなど考えなかった。ガンジス川に荼毘に付して終わりである。仏教が中国に伝わった時、中国側は、先祖を拝まない外国の宗教は受け入れられないといって仏教を拒否したそうである。中国は儒教の国なので、先祖の霊を住まわせる依り代が各家庭にあり、先祖崇拝が中心の文化であった。仏教は中国で変容を遂げる。日本には中国経由で、中国の儒教と融合した仏教が伝わったというわけである。日本ではもともと祖先を信仰する地盤であったので、これが定着していった。キリスト教は先祖のことをどう思っているのかと問われることがあるが、キリスト教には「あなたの父と母を敬え」という教えがある。過去の先祖ということにおいては、私たちの先祖をも造られた、先祖の先祖である大先祖であられる創造主なる神こそ、感謝され、礼拝されなければならないはずである。先祖をずーっと辿って行くと命の基である神さまにまで達する。神さまは先祖の命を造られたお方。人間の歴史を導いておられるお方。太陽を上らせ、雨を降らせ、私たちの生活に恵みをくださるのは、この神さまである。私たちはこの神さまに生かされている。この神さまが忘れられてはならないと思う。

日本に一番馴染み深い大乗仏教の教えについてもお話させていただく。釈迦の教えは発展し、他宗教を吸収して、様々な宗派に分かれることになるが、大まかに小乗仏教と大乗仏教に分かれることになる。大乗仏教の特徴は、人間の本性は「仏性」であるという思想である。よって、大乗仏教の説法師たちは「仏性」に目覚めよと教え説いた。神道流に言うと、「人間の本性は神であると知れ」ということになる。釈迦は人間に仏性があるなどとは一言も説かなかったので、これは大きな違いである。仏性の話しはバラモン教が説いていたものにも近い。バラモン教では神と自己のたましいは一体であるとし、自分の中に神の性質を見いださせようとした。大乗仏教の他の特徴で忘れてならないものには「他力本願」がある。大乗仏教では釈迦が考えてもみなかった様々な仏による救いが説かれるようになっていく。日本の葬儀では「般若心経」のお経を聞く機会が多いだろう。その冒頭を飾るのが「観自在菩薩」。これは人々を救う観音菩薩で、阿弥陀如来のサポート役であるという。また「三世(さんぜい)諸仏」と出て来る。「三世」とは、過去、現在、未来の三つの時代のことで、この三つの時代に、それぞれ千の仏がいるとされ、合計三千の仏となる。たくさんの神々に願をかけて救われようという他力本願の教えである。この三千の仏にはバラモン教由来の仏様とか種々あるが、その仏の中には未来の仏として有名な弥勒菩薩がいる。弥勒菩薩は釈迦入滅後、56億7千万年後に現れ、六道輪廻の世界で苦しんでいるすべての人を救うとされている。一般には、56億7千万年も待たなければ救われないなんて待ちきれないということで、阿弥陀如来という救世主の慈悲にすがる信仰が流行した。念仏を唱え阿弥陀如来にすがれば、どんな罪人でも極楽浄土に行くことができる、阿弥陀如来のお慈悲によって、というわけである。この信仰は形態としてはキリスト教に近く、実際、キリスト教の影響を受けているとも言われている。キリスト教は1世紀にすでにインドに伝播している。親鸞もキリスト教を勉強していて、親鸞が学んだ聖書のことばが記されているキリスト教の教典は、京都の西本願寺に保管されている。ポイントは、阿弥陀如来は実在した救い主なのか架空の存在なのかということ。「無量寿経」という仏典によると、彼は648億年前に、ある一国の国王であったとされている。彼はその後、輪廻転生を繰り返しながら、216億年間修行を積んで成仏し、人々を救う仏となって、今も極楽浄土で説法していると言われている。今、述べたことからわかるように、信仰の対象が歴史的事実であるかどうかを仏教は重視しない。経典に書かれていることの歴史性も重視しない。そういう立場である。聖書の歴史性ということにも触れておきたい。仏典は釈迦の死後、何百年も経って、すでに目撃者が誰もいなくなってからまとめられたものであるが、それに対して新約聖書は、キリストを直接目撃した人々が大勢生存していた時に記された歴史書である。だから、そこには客観的事実が記されているものとして読むことができる。キリスト教は歴史性を問う。聖書は「はじめに神が天と地を創造した」という歴史の初めの著述で始まり、万物の回復という未来に起こる歴史の完成の著述で終わっている。聖書の中心主題はキリストである。歴史に実在していたキリストは死んで終わった方と思っておられる方が多いが、聖書はキリストの復活についても証言している。もし死んで終わっただけというのなら、死者を神として祭る宗教と同じになってしまう。死者に望みをかけていても空しいのではないだろうか。永遠のいのちの望みはない。キリストは死で終わらなかった。よみがえられたのである。キリスト教は西アジアのはずれで発祥したアジア発の教えであるが、キリストは人としては私たち日本人と同じセム系に属するユダヤ人。聖書時代のユダヤ人は日本人と同じ黄色人種であったと言われている。キリストということばの意味は「救い主」である。キリストは今から二千年前にイスラエルにおいて出現した実在の救い主であり、今も生きておられる神の救い主である。

最後にお話のまとめとして、三つのことを確認させていただきたい。一つ目は、まことの神は唯一であり、創造主であるということ。二つ目は、まことの神は罪を裁くお方であるということ。神はどのような罪もみのがすことはない。それでは誰が救われるのかということだが…、三つ目は、まことの神は私たちを罪から救うために、キリストを罪の身代わりとされたということ。キリストを信じる者に罪の赦しがあり、神との交わりの回復があり、永遠のいのちがある。天の御国が約束される。

罪の裁きと赦しに関して、日本人に身近な四十九日の法要にも触れて、メッセージを閉じたい。ある遺族が仏式の葬儀の時に、亡くなったあの人は天国へ行って安らかにしていると思います、と話したら、お坊さんに、それはキリスト教で言うことだと叱責されたそうである。仏教では人が死ぬと四十九日の間、裁判の旅が待っているとされる。七日ごとに故人の罪状の有無を裁く審判が行われるという。往生要集によると、初七日に生前の悪事が記されたエンマ帳によって裁かれる。二七日の裁きの時に三途の川を渡るとされている。三七日、四七日と来て、五七日で死者を司る閻魔大王によって裁かれる。六七日、そして七七日(四十九日)に判決が下され、六道輪廻のどこの世界に行かなければならないのかを申し渡される。生きている人たちは、これらの裁判毎に、七日ごとに追善供養する。この追善供養が大事になってくる。その目的は死者の裁きを軽くしてもらうためである。追善供養は、死者に振り向けられ(回向)、それは死者の善行とみなされ、死者に加算される(ポイント制)。追善供養は死者の善行とみなされる。こうして罪は軽くされる。死者の罪が軽くされるために追善供養する。判決後、地獄に落ちたとしても、百か日、一周忌、三回忌に追善供養すれば、保釈の可能性があると言われている。だから追善供養を続ける。

聖書では、救い主キリストを信じた者は、死ぬと真っ直ぐに天国に昇るとされている。なぜか?キリストが私が受けるべき罪の裁きを、あの十字架で受けてくださったと信じているから。キリストは十字架で私たちの罪の罪状書きを無効にしてくださった。キリストは天と地の架け橋である。だから、キリストを信じた者は、死んだら自分はどうなるのだろう、どこに行くのだろうという心配はいらない。私は親戚の葬儀に参列し、納骨の時を迎えた時に、親戚の方がお墓の前で、○○おじちゃんは、どこへ行ったんだろうね、と繰り返しつぶやいたことが忘れられない。「どこへ行ったんだろう?どこへ行くんだろう?」の疑問形で人生が終わっていいのだろうか。また希望的観測で人生を終えていいのだろうか。キリストを信じた者は死後に罪の審判を受ける旅はない。地獄にはもちろん行かない。死は天国への扉と変わるのである。行先は死ぬ前に確定しているのである。亡くなると同時に、真っ直ぐに天国に向かうのである。キリストを信じる者には救いが確実に約束される。この幸いに皆様も与っていただきたい。