キリスト教人口は現在20億と言われているが、そのスタートは約2000年前にたった12人から始まったと言ってよい。彼らはいったいどういう人たちだったのかを、今日は見てみたい。キリストは最初の弟子として男から12人を選ばれたのだが、興味がわくのは、彼らはきわだった優れものの一団ではなかったということ。観察していくとわかるが、当時のユダヤ社会のエリートとか学者クラスの人物はいない。ある意味、取るに足らない者たちばかりである。弟子の中心メンバーはガリラヤ人が多かったが、ガリラヤ人は粗野で田舎者だと、ある意味、見下されている人たちだった。では、彼ら一人ひとりはどのような者たちであったのだろうか。今日は12弟子の一人ひとりのプロフィール、特徴を簡単に取り上げて、自分たちと重ねあわせて見ていく手法を取りたいと考えている。

◎ペテロと呼ばれるシモン

12弟子の名簿はマルコ、ルカの福音書にもあるが、どれを見ても、ペテロが筆頭に挙げられている。ということは、彼は12弟子の中でリーダー格の存在ということになる。彼はその兄弟アンデレとともに、ガリラヤ地方のベツサイダ町の漁師であった。ベツサイダはヨルダン河口にほど近い漁港のある町である。弟アンデレは最初、救い主到来の道備えをする役割を担っていたバプテスマのヨハネという預言者の弟子であった。アンデレはこのバプテスマのヨハネから、イエスは救い主キリストであるということを示される。「見よ。神の子羊」と。そのあと、彼はキリストについていく。このアンデレが兄ペテロに「救い主キリストに出会いました」と告げ、キリストのもとにペテロを連れて来る(ヨハネ1章35~42節)。その後、ペテロとアンデレはガリラヤ湖で漁をしている時、キリストに「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」と召しを受け、漁業従事者からの転向をはかることになる(4章18~20節)。ペテロには名前が三つある。第一は「シモン」。彼本来の名前である。意味は「神は聞かれる」。彼はキリストにより「バルヨナ・シモン」と呼ばれている(16章17節)。「バルヨナ」は「ヨナの子」という意味で、彼の父親の名前が「ヨナ」であることがわかる。意味は「鳩」。第二は「ペテロ」。この名前はキリストによって与えられた名前で、意味は「岩」(16章18節)。第三は「ケパ」(ガラテヤ2章14節)。これはアラム語で「岩」を意味する。彼は他の弟子たちとは違って妻帯者であった。彼の性格は単純で、情熱的で、直情的で、衝動的であった。同時代の歴史家ヨセフスはガリラヤ人の性格をこう伝えている。「ガリラヤは多くの異邦の地に囲まれ、またその影響も多いので、子どもの時から戦うことを教えられ、戦いに際しては、つねに激しく抵抗した」。いわゆる血の気の多い人たちで、それはペテロにも当てはまる。彼の言動、エピソードは福音書に満載である。彼の手紙が二つ聖書に編纂されている。ペテロはキリストの昇天後、エルサレム教会の創立者となり、異邦人伝道も手がけ、海外宣教に赴く。最後は暴君ネロの時代、ローマで殉教する。ペテロの妻が先に十字架にはりつけになり、ペテロは「主を覚えよ」と妻を励まし、自分の番になった時、あの男なんか知らないとキリストを否認した経験を思い起こし、キリストと同じ十字架刑では申し訳ないと、自ら頼んで、逆さ十字架にかかって殉教したと言われる。これを見た看視人はいたく感動して、キリスト信仰を受け入れて、同じく死刑に処せられたと言われている。彼の殉教は紀元67,8年頃と推定される。

◎その兄弟アンデレ  アンデレはさきほどお話したように、兄をキリストのもとに連れてきた人物であり、もとはバプテスマのヨハネの弟子。キリスト昇天後の彼の伝道域は広く、小アジアの広域、そしてギリシャにまで及び、ギリシャの上のアカヤ地方で殉教している。総督のエゲアネスは身内が信仰に入ったので激怒し、アンデレを十字架に縛り付けたが、アンデレはキリストの十字架と同じような十字架にかけられるのはもったいないと思い、X型の十字架にはりつけてくれるよう申し出たという。彼は紀元60年に殉教している。 ◎ゼベダイの子ヤコブ  ヤコブは兄弟のヨハネとともにガリラヤ湖畔で網を繕っている時、弟子としての召しを受けている(マタイ4章20~22節)。ヤコブの父ゼベダイはベツサイダで漁業を営んでいて、裕福であったと思われる。雇い人を雇っていただけでなく、大祭司というユダヤ社会トップの人物とつきあいがあり(ヨハネ18章16節)、エルサレムにも家をもっていた(ヨハネ19章27節)。伝承では、エルサレムの彼の家の敷地に、最初の教会が建てられたと言われている。ヤコブとヨハネの母はサロメといい、キリストの十字架の下に立った三人の女性のうちの一人である(27章56節「ゼベダイの子たちの母」)(マルコ15章40節「サロメ」)(ヨハネ19章25節「母(すなわちマリヤ)の姉妹」)。とすると、キリストの母マリヤはヤコブとヨハネの叔母ということになる。ヤコブとヨハネはキリストと従兄(いとこ)関係にあるということになる。サロメはある時、親バカをやって、ヤコブとヨハネをあなたの右と左の座に着かせてくださいとキリストに懇願している(マルコ10章35~41節)。親戚筋だから、このような願いをしてしまったのだろうか。ヤコブとヨハネはペテロとともに、弟子の三羽烏のような位置づけにあることは確か。ヤコブの性格であるが、ヤコブはヨハネとともに、キリストに「ボアネルゲ、すなわち雷の子たち」というあだ名を付けられている(マルコ3章17節)。彼らもガリラヤ人で気性が荒かったということになる。ヤコブは12弟子最初の殉教者となる。彼はエルサレムで剣で殺されている(使徒12章1~2節)。紀元44年の春。次のような逸話が残っている。「ヤコブを裁判所に連行した男は、ヤコブの信仰の証を聞いて感激し、自分もキリスト信仰を告白した。それで両人とも死に定められた。刑場への道すがら、彼はヤコブの赦しを切に願った。ヤコブはちょっと考えてから、『平安があなたにあるように』と言って、口づけした。そして同時に首を切られた」(エウセビオス教会史)。

◎その兄弟ヨハネ

「ヨハネ」の意味は「主は恵み深い」。ヨハネは最初アンデレと同じくバプテスマのヨハネの弟子であったようである(ヨハネ1章)。性格的にはヤコブ同様、キリストによって雷の子とあだ名をつけられ、気性が激しかったことは確かであるが、彼は変えられ、愛の使徒と呼ばれる人物となる。彼はヨハネの福音書で自分のことを「イエスが愛しておられた者」(ヨハネ13章23節)、「愛する弟子」(同19章26節)と表現している。最後の晩餐の席では彼はキリストの右側に座り、キリストの御胸に寄りかかる者となり、そしてキリストの十字架刑の場面では他の弟子たちは逃げてしまった中、彼一人だけ十字架の下に立ち、キリストの命を受け託されて、マリヤを引き取って世話をすることになる(ヨハネ19章27節)。引き取って世話をした場所はエルサレムにあった父ゼベダイの家の可能性が高い。彼の書いた福音書は奥深い味わいがあり、神の愛を良く伝え、そして彼が書いた三つの手紙も愛が強調されている。また彼は真理を強く主張し、異端の教えに敏感で、それを排斥しようとしている。彼はペテロとともに、「ふたりが無学な、普通の人であることを知って驚いた」(使徒4章13節)と言われている人物であったが、彼は神から愛と真の知性をいただいた。彼の逸話は古代の教会史家がいくつか伝えているが(後日詳しく紹介することとして)、ヨハネが救いに導いた青年が堕落して盗賊の頭領となってしまう。ヨハネはこれを聞いて悲しみ、彼の所に出かけて行き、彼の回心のために「わが子よ」と言ってあらん限りの愛を降り注ぎ、盗賊はヨハネの愛にふれて回心し、またヨハネの愛と祈りで成長し、教会の指導者となるという逸話である。

ヨハネはキリストの母マリヤが亡くなるまでエルサレムに留まっていたと思われるが、その後、小アジアのエペソに移った。ドミティアヌス帝の迫害の時、彼はエーゲ海に浮かぶパトモス島に流刑の身となり、そこで神からの幻を見、あの有名なヨハネの黙示録を記すことになる。それは世の終末と御国の完成(歴史の完成)の幻である。彼はトラヤヌス帝の時代、紀元100年、エペソで94歳に近い生涯を閉じたと言われている。彼は晩年になってからも、「互いに愛し合いなさい」が口癖だったと言われている。

◎ピリポ

ピリポもペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネと同じベツサイダの出身。彼の職業は定かではないが漁師の可能性もある。ピリポは、ペテロがアンデレに伴われてキリストのもとに来た翌日、キリストから「わたしに従って来なさい」と召されている(ヨハネ1章43~44節)。彼はその後、友人のナタナエルに救い主に出会ったことを告げ、彼をキリストのもとへ導く(ヨハネ1章45~46節)。このナタナエルが次に見るバルトロマイのことである。ピリポに関する記述は聖書に幾つかあるが、その中でも印象的なのは、五つのパンと二匹の魚の逸話である。キリストが数千人の群衆に説教していた時、キリストはピリポを試して、「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」と言われた。ピリポは「めいめいが少しずつ取るにしても二百デナリのパンでは足りません」と答えている(ヨハネ6章5,6節)。ピリポは堅実に物事を考える人物だったが、キリストが五つのパンと二匹の魚で大群衆を養われるのを見て、信仰を働かせる者へと成長していっただろう。彼の晩年だが使徒ヨハネの弟子のポルュカルポスの手紙によれば、「ピリポはアジアの大いなる光として生き、二人の老いたる息女とともに、ヒエラポリスに葬られた」とされているようである。また伝説によると、彼はヒエラポリスで、人々が大蛇を拝んでいるのを見て、まことの神への悔い改めと信仰を説き、人々を信仰に導き、それに立腹した総督がピリポを捕えて、逆さ吊りにして処刑したと言われている。

◎バルトロマイ

バルトロマイという名での聖書の記述は、12弟子の紹介文以外には出てこない。けれども、総合的な判断で、バルトロマイは通称で、ナタナエルが本名であると考えられている。「ナタナエル」の意味は「神の賜物」である。彼の出身はガリラヤのカナである。ナタナエルはピリポからキリストを紹介されるのだが、キリストはナタナエルを高く評価し、「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない」と言っている(ヨハネ1章47節)。またキリストは、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです」(ヨハネ1章48節)と言っているが、いちじくの木の下とは、パレスチナでは聖典を学んだり、瞑想したり、祈ったりする場所であった。ナタナエルは誠実な真理の探究者であったことは想像に難くない。バルトロマイはインドで宣教し、成果を挙げたことがわかっている。また、アルメニヤ、ルカニヤ、メソポタミヤ、ペルシャ各地で宣教したという言い伝えも残っている。言い伝えによると、彼はアルメニヤで王をはじめ多くの市長を救いに導いたが、次に王位に着いた王の弟と異教の祭司たちの反感を買い、捕えられ、生きたまま皮をはがれ、十字架にかけられ殉教したと言われている。

◎トマス

「トマス」の名前は「双子」を意味する。彼は本当に双子の一人であったのか、諸説があるが定かではない。彼に関しては、キリストの復活に際しての逸話が有名である。トマスはキリストの復活を信じることができないでいた。彼の前にキリストが現れる。「『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。』トマスは言った。『私の主。私の神。』」(ヨハネ20章27,28節)。そして、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14章6節)というキリストの名言を引き出したのは、トマスの質問にあったということも付け加えておく。彼はバルテヤ(現在のイラン)が宣教地として割り当てられたとされているが、中国でも伝道したようである。しかし、インドで伝道したことが最も良く知られている。トマスが南インドで伝道してマドラス郊外マイラポアで殉教したことは史実的に確実と言われている。彼はバラモン教徒に妬まれ、石を投げつけられ、槍で刺殺されたという。インドというと仏教と予想するが、インドではトマスの働きによって、一世紀にすでに教会があった。元々、仏教にはなかった、信じたら極楽という他力本願の思想は、キリスト教の影響が多分にあると言われている。インドには聖トマス教会がある。

◎取税人マタイ

「マタイ」は「神の賜物」といった意味がある。マタイについては9章9~13節で、すでに詳しく見たので、ここで彼の身辺調査を繰り返すことはしないが、取税人は何度も言うように、汚れた豚に等しいとみなされ、また、うそつき、強盗、殺人者と等しくみなされていた。人間の屑とみなされていたわけで、ユダヤ社会のコミュニテーから排除されていた。彼は「アルパヨの子レビ」とも言われている(マルコ2章14節)。かつて彼は金の魅力に取りつかれていたわけだが、今は違った。キリストにすべてを捧げる者となった。ペテロはおしゃべりであるが、彼は寡黙な人で、彼のことばは聖書に一つも記されていない。だが彼は文筆の人で、マタイの福音書という名著を残してくれた。伝説によると彼は15年間エルサレムにとどまってユダヤ人の間で宣教し、その後、エチオピヤ、マケドニヤ、シリヤ、パルティア、ペルシャに伝道したと言う。彼は自然死したのか殉教したのか諸説があり、はっきりわからない。殉教した可能性は高い。

◎アルパヨの子ヤコブ

彼はゼベダイの子ヤコブが「大ヤコブ」と言われるのに対して「小ヤコブ」と呼ばれる人物である(マルコ15章40節)。おそらくはゼベダイの子ヤコブより年下であったか、体が小さかったというところであろう。彼の母の名前はマリヤで、十字架についたキリストを慕ってキリストを見守っていた女性のうちの一人である。彼の父親の名前はマタイと同じで「アルパヨ」であるが、二人が兄弟であったと聖書には書いていないので、真実はわからない。彼の言動について聖書には何もなく、ペルシャで殉教したという伝説が残っているだけである。

◎タダイ

「タダイ」は「母の胸」というアラム語に由来し、「愛された者」といった意味になる。ユダヤ人は二つ以上の名前をもつことが珍しくなかったが、彼もそうである。ルカの福音書の12弟子名簿では「ヤコブの子ユダ」(ルカ6章16節)とされており、ヨハネは「イスカリオテでないユダ」(ヨハネ14章22節)と紹介している。「ユダ」は「賛美」という意味をもつ。タダイはアッシリヤやペルシャで伝道し、ペルシャで殉教したと言われている。

◎熱心党員シモン

当時の歴史家ヨセフスは、熱心党を、ユダヤ教のパリサイ派、サドカイ派、エッセネ派に次いで、「ユダヤ人の第四学派」と呼んでいる。神こそ唯一の支配者であるという信念は他と同じであるが、思想が極右である。ヨセフスは言っている。「彼らの中の極端な者はシカリ(暗殺者)と呼ばれた。彼らは盗賊であり、非常に多勢であった。彼らは湾曲した短刀を用いた。ローマのシカリと言われる鎌に似ていた。この武器の名が彼らの名称となった。この武器をもって、非常に大勢の人を暗殺したのである。・・・それに敵の住む村々にやって来て、短刀をふるって略奪し、火をかけたりしたこともある」。彼らはユダヤ教の律法に対して熱心で、愛国主義者で、祖国の解放と自由のためには、いかなる過激な手段も選ばない過激派組織であった。好んで用いた方法はゲリラ戦術であった。彼らは今で言うテロリストである。シモンは武力によってエルサレムから敵国であるローマの旗を消し去ることを目的としていたはずだが、彼は神の国の闘士となる。彼の言動については聖書に言及されていないが、エジプトやペルシャ、メソポタミヤに伝道したと伝えられている。そして彼は、ペルシャのある町で、魔術師たちに指導された人々によって、鋸で引かれ、殉教の死を遂げたと言われている。

◎イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダ

「イスカリオテ」は「ケリオテの人」を意味し、「ケリオテ」は南ユダヤかアラムのどこかにある村であろうと推測されているが、はっきりとはわかっていない。イスカリオテ・ユダは会計係を担当していた。しかし着服していたということが記述されている(ヨハネ12章6節)。彼の最大の問題は銀貨三十枚でキリストをユダヤ教の権威筋に売り渡してしまったということ。後に彼は、自分のしたことを後悔して首を吊る。彼がなぜ裏切ったかについては、諸説あるわけだが、マタイの福音書の講解メッセージの中で考えていくことにしたい。キリストが武装発起してローマと戦おうとしないこと、あるいは大いなる奇跡によって、ローマと戦おうとしない姿に失望していたことはまちがいない。だからといって裏切りは正当化できない。彼の死によって1名欠員が起きたので、キリストの昇天後、1名を補充することになる。くじ引きという方法によってマッテヤという弟子が選出されることになる(使徒1章15~26節)。十二弟子は十二使徒として教会の土台を築くことになる。

以上、弟子たちの特徴を見ていくと、弟子たちの中には、政治家でもあった祭司長たちや、当時数千人いた祭司たちや、ラビと呼ばれていたユダヤ教の学者などは一人も入っていないことがわかる。社会的エリートはいない。著名人もいない。宗教の専門家ではなく、目立った学歴もない。職業はというと、弟子のリーダー格の人たちは田舎町の漁師たちであった。またユニークなことに、敵国のローマにすり寄っていた取税人もいれば、愛国心の固まりの右翼までいる。熱心党員と取税人は水と油の関係にある。けれども、キリストはその両方から召した。勤労所得はというと、取税人を除いて、そう高くはない。性格も様々で、ペテロのような熱いタイプから、寡黙なマタイのようなタイプまで。彼らに共通していたのは、救い主の到来を待ち望んでいたということ。救い主とはどういうお方なのか、その理解は不十分だとしても。また彼らは、ユダヤ教の伝統、行動様式、規則、教えから、はみ出してしまっているキリストに対して、従っていったということ。彼らは当時の枠を絶対としないで、そこから一歩踏み出してキリストについていった。私たちも島国で価値観を固定されやすい土壌にあって、彼らのようにキリストに従っていくのは一つのチャレンジであると思う。キリスト時代がそうであったように、今の日本も、政治家や学者たちは、また他の宗教家たちは、聖書の権威もキリストの権威も認めることをせず、そして固定した価値観で国民をコントロールしている。私たちは誰に従うのか、明確にしていきたい。

キリストに従った弟子たちに共通するもう一つのことは、先に見たように、殉教精神があったということ。これは別の言い方をすると、死に至るまでキリストに忠実であろうとしたということ。それほどまでに彼らはキリストに価値を見いだしていた。キリストはまことの神、永遠のいのちである。私たちの罪を赦すために十字架でご自身のすべてを犠牲にしてくださったお方である。私たちはどんなお返しができるだろうか。このお方について行き、このお方に捧げた人生を歩んでいこう。