主キリストは、失われた羊、迷える羊、傷ついた羊であった私たちを探し求め、救ってくださった。そして今も私たちの羊飼いとしてともに歩んで下さっている。その事実に感謝したい。

これまでマタイの福音書から、キリストの権威に満ちた教え、そして権威に満ちたみわざをご一緒に見てきた。こうした働きの対象は、主に民衆、群衆であった。そして10章に入ると、弟子たちの教育、訓練に焦点が移る。弟子たちはキリストから委任された働きを実践するようになる(10章1節)。キリストは今日の箇所を一区切りとし、ひとまず群衆に対する働きから身を引き、そして弟子たちの訓練に集中するようになる。今日の箇所は、キリストの働きの重要な分岐点になっていることがわかる。この段階まで、弟子たちはキリストの働きの見物人であり、聞いて、観察して、学んできたという立場。彼らは傍観者の立場。だが、これからは、キリストがしてきた働きを弟子たちも担っていかなければならない。弟子たちは三つの段階を踏んで成長していく。第一段階~師匠のしていることを見て学ぶ(9章まで)。第二段階~師匠がしていることを一緒にやってみる(10章から)。第三段階~ひとり立ち(使徒の働きから)。キリストはこのプロセスを心に留めておられた。キリストは今日の箇所以降、第二段階に心を留めて、弟子の養成、弟子訓練に入っていくことになる。 そのことを覚えると、今日の箇所は第一段階と第二段階の架け橋になっていることがわかる。では、今日の箇所を見ていこう。

「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた」(35節)。キリストはこれまでしてこられた福音宣教とみわざを、「すべての町や村を巡って」なされた。この姿は私たちの模範である。3月31日~4月2日にかけて、同盟キャラバンとして大森町にトラクトを配布する活動を行ったが、あるチームが配布をしていると、何人も住民から「2~3日前にもキリスト教の人たちが来たけれども」と言われたそうである。どうやらその方々はエホバの証人さんだったよう。彼らは山村、僻地といえども丁寧に回る。私は3月中旬に福島県会津の実家に帰った。私の実家は近所にクマが出没するようなド田舎であるが、私の滞在期間中にエホバの証人さんが家に来た。「聖書に関心のある方はこの辺にいませんかね」と。異端がすべての町や村を巡っているのに、本当の救いの道を知っている教会は何をしているのだろうかと、考えさせられる。

「また、群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて、倒れている彼らをかわいそうに思われた」(36節)。「また、群衆を見て」と、キリストは丘の斜面の見通しの効く地点から、何か月にも渡ってご自分についてきた群衆を見渡していたのであろう。彼らはキリストが行くところどこにでもついて来た。もしキリストが小舟に乗って湖を横切ろうとすれば、舟でついていこうとしたり、湖岸に沿って歩いてついてきた。彼らは町から町へ、家から家へ、会堂から会堂へとつきまとった。彼らはこれまで、キリストが語るような権威のあることばを聞いたことがなかったし、またキリストが行ったような驚くべきみわざを見たこともなかった。彼らは、キリストのことばを聞こう、みわざを見よう、またそのみわざに与かろうと身許に集まった。

キリストは集まってくる群衆に対して、彼らが自覚している以上の大きな問題を見ていた。すなわち、なえた腕、血が流れるからだ、見えない目、話せない口、そうした肉体の問題以上のことを見ていた。キリストは彼らの内的問題も見ていた。その悲惨な霊的状態も見ていた。「羊飼いのいない羊のように」。人々を羊にたとえるのは聖書の特徴であるが、しかし、ここで言われている羊は健康にほど遠い。羊は羊飼いなしには生きていくことができない無力で愚かな動物である。羊飼いがいないということは、保護してくれる羊飼いがいない、世話してくれる羊飼いがいない、導いてくれる羊飼いがいないということで、結果として弱り果てる。そして倒れる。そこには、病んでいる羊、死に瀕している羊、敵に対して無防備になっていて危険な羊というイメージがわく。そのままほおっておくと死はまぬがれられない。「弱り果てる」ということばは<スキュロー>ということばに由来しており、このことばは、「皮をはぐ、ずたずたに引き裂く、皮がはげるほど打ち続ける」という、すごい意味をもっており、そこから「苦しめられる」「疲れ果てる」「弱り果てる」といった意味が派生した(36節欄外註参照)。これは、リングの上で青アザをつくって、傷から血を流して、ボロボロにされて生気を失ったボクサーのような状態。群衆の内なる状態は、霊的羊飼いを見失い、罪に支配され、その影響下で、傷つき、病み、生気を失い、たましいはしぼんでいた。次の「倒れている」ということばは<ピプトー>ということばに由来しており、このことばは、「捨てる」「倒す」「投げ倒す」といった意味があるが、受け身での「倒れている」というのは、疲労困憊して、また致命傷を負って起き上がれないという全く無力な様を表わしている。ボクシングでいえば、ノックダウンを食らったということである。瀕死の状態である。キリストは彼らの霊的な姿をこのように見ていた。私たちは人を見る時、あの人の化粧はどうだとか、メイクがどうだとか、着ているものがどうだとか、痩せているとかメタボだとか、どこどこの家の出だとか、学歴がどうだとか、あの態度はどうなのよとか、うわべばかり見てしまう。せいぜい見て、ちょっと元気がないねとか、笑顔が見られるから大丈夫そうねとか、その程度。その人をキリストが見るように見ることがなかなかできない。羊飼いのいない羊は全くみじめで、あわれで、死を待つしかないような存在なのだが、そのように見ることができない。

キリストは彼らの状態を見て、「かわいそうに思われた」。この動詞は「内臓」を意味する<スプランクノン>ということばに由来する。内臓の中でも、特に、心臓、肺臓、肝臓、腎臓を意味する。古代人は内臓を感情の座と捉えていた。感情を肉体症状と結びつける考え方が強かった。事実、内臓は、恐れ、不安、悲しみ、喜びといった感情に反応する。古代人は感情と体の部位を結び付けて考えていた。内臓は感情に反応するところから、それで「内臓」は、「愛、あわれみ、同情」などの意味に転化した。ある訳は36節をこう訳している。「彼は群衆を見て、彼らのことで腸(はらわた)がちぎれる想いにかられた」。キリストは彼らの肉体の状態、霊的状態を含めて、彼らをご覧になり、深い同情を寄せておられた。腸がちぎれる想いにかられていた。親が子どもの病気を自分のことのように心配し、感情が揺り動かされるのと同様に、キリストはご自分を群集と一体にされ、感情を揺り動かしておられた。

このあわれみは、教えることと、いやすという二つの行為になって表れている(35節)。羊飼いになりえない律法学者、パリサイ人たちは、誇りをもって罪人の滅亡を待ち望んでいる有様であった。しかし深いあわれみの心を持つ、真の羊飼いであるキリストはそうではない。「パリサイ人は誇りをもって罪人の滅亡を待ち望んだが、イエスは、愛をもって罪人の救いのためにいのちをささげられた」(W.バークレー)。キリストは彼らを深くあわれみ、救いのことばを語ることに心を砕かれた。またそれはいやしの行為となって表わされた。キリストはご自身がメシヤであることを証明するためだけにいやしのわざを行ったのではない。ご自分の内にある愛がそうされた。ある人は、キリストがいちいち人々にふれていやしを行われたことに注目し、そこにキリストのあわれみを見ている。長年にわたってハンセン病患者の医療をしてこられたドクター、ポール・ブランドは言う。「わたしは時おり、イエスがなぜ、しばし病人にふれていやされたのかを不思議に思う。彼らの多くは感じは良くなく、病気であることはわかりきっていて、非衛生的で、いやなにおいを放っていたにちがいない。イエスの力をもってすれば、マジックのようにいともあざやかに直してしまうことができたはずである。しかし彼はこれをしなかった。イエスの働きの主なものは、病人に対するクルセードではなく、むしろ個人個人に対する働きであった。彼はこれらの人々を一人ひとり取り扱った。愛と暖かさをもて、彼らとご自分を全く一つにして取り扱った。イエスは、愛とは通常ふれることを含むものであり、群衆に対して愛を急いで実証できないことを、わかっておられた」。キリストの愛のいやしが始まる8章において、一番最初に登場したのが、ツァラアトに冒された者であったことを思い起こして欲しい。ツァラアトは、絶対にふれることはならないとされていた病であり、この病にかかった人は、死人とみなされていた。そしてこの病が治ったとき、死人が生き返ったと言われたほどである。キリストはこのような人をはじめ、ふれていやされていった。ヒンズー教では病気に関係なく、アウトカーストの人たちにふれることを禁じたりする。なぜかというなら、そうした人たちにふれると、カルマと生まれ変わりのプロセスを遅らせてしまうというのが、その理由である。たましいにとって彼らは毒というわけである。彼らから見れば、キリストの行為は自殺行為に映るだろう。そうであるなら、キリストが全人類の罪の身代わりに十字架についたという行為は、どう映るのだろうか。

私たちが、キリストが人々を見るように見るということ自体、一朝一夕でいかないかもしれないが、その心がけと努力は必要であろう。そしてまた、人々とのかかわりにおいても、キリストにならうということが求められるだろう。まちがっても、民衆と心理的距離を置き、彼らを見下し、罪人の滅亡を待ち望んだパリサイ人にならってはいけない。良く言う、上から目線であってはいけない。

最後に、37、38節の、キリストの祈りの要請のことばを見よう。「そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい』」。キリストは刈り入れの比喩をもって、働き人が起こされるようにと祈りの要請をする。この場合、刈り入れとは、たましいの刈り入れである。その刈り入れの働き手が必要である。なぜ、この祈りの要請がここでなされているかというと、群衆を見て、かわいそうに思われたことに端を発している。36節と37節のつながりを見れば、それは明らかである。「・・・かわいそうに思われた。そのとき・・・」。ある意味、キリストと同じく、腸がちぎれるようなかわいそうな思いにならないと、救霊の祈りは生まれない。良きサマリヤ人へのたとえを見ると、瀕死の重症を負って道で倒れているユダヤ人を見て、サマリヤ人はかわいそうに思って助けようとしたことがわかる。(「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い<スプランクノン>」ルカ10章33節)。ご存じのように、祭司とレビ人も通りかかったが、彼らは「かわいそうに思い」という思いが湧くことなく、通り過ぎてしまった。私たちは霊的瀕死の重症の人々を見ても、かわいそうに思わないのなら、祭司やレビ人と同じになってしまう。「多くの人々が霊的にも肉体的にも良い状態にはない。神から離れ、罪ののろいを受けている。霊的にも打ち傷を負い、ダウンしている。永遠の滅びへと向かっている。かわいそうでならない。このまま黙って見ていられない。この人たちに福音を伝え、救うことが必要だ」と思えるか否か(ルカ15章20節参照)。そしてキリストは、救いを願うこうしたあわれみの心から、刈り入れのビジョンも見られ、働き人がたくさん起こされることを願った。そのために祈りの動員を要請した。

アジアでたくさんの開拓伝道の働きに邁進し、弟子養成をしておられる方が、開拓伝道に際して、その地域から救われるたましいが起こされるように祈ることとともに、同時に、働き手が起こされるように祈ることを教えているということであった。その働き手は、よそからスカウトしてくるのではなく、救われてくる人の中から起こされていくということであった。救われてくる人が福音を伝える証人になっていくということであった。そして、この実践が実を結び、たくさんの教会、たくさんの弟子が生み出されているということであった。考えてみれば、私たちは、37,38節のキリストの祈りの要請に真剣に応えているだろうか。まず、私たち一人ひとりが働き手であることを覚えたい。神学校を卒業した人だけが働き手だなどと聖書は言っていない。それぞれ異なった召しがあり、賜物も異なっている。けれども私たちは主の心を心とし、同じ目的に献身しなければならない。この地域の方々の救いのためにである。

マルチン・ルターに関する逸話が残っている。ルターが宗教改革者として奮闘している中、彼の友人は祈りによって彼を支えることを約束した。その友人はある夜、夢を見た。一人の男が世界のように広い麦畑の中で、たった一人で刈り入れをしていた。それは不可能で絶望的な仕事であった。ふと農夫の顔を見ると、それはルターであった。その友人はこの夢を通して気づきを与えられた。「私も収穫のために働きに出よう」。そして彼はルターとともに世に出て労する者となった。私たちも働き手である。

私たちは、今日の箇所から教えられるように、祈りにおいては、たましいの救いを祈ることはもちろんのこと、さらに働き手が起こされるように祈っていきたい。今も、主の働き手が不足している現実は変わっていない。

この世の人々は、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている。その人たちは刈り入れを待つ麦のようでもある。私たちは、主の心を心として、この二つのビジョンをもって祈り、この地域で、またそれぞれが遣わされた所で、福音宣教の働きに携わっていきたい。