キリストに対する見方は聖書時代同様、現代も様々である。キリストは革命に失敗し、処刑されて墓に葬られた。死体は盗まれた。キリストは賢人であった。キリストは狂人であった。キリストは天使であった…等々。当時の人はキリストを見てどう反応したのか、今日の箇所から一端を垣間見ることができる。

今日の箇所でキリストは、盲人の目を開けるみわざと、口のきけない人の口をほどくみわざをされている。この二つのみわざはメシヤ時代の到来を告げるものとして知られていた。「神は来て、あなたがたを救われる。そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う」(イザヤ35章4~6節より)。

では最初の盲人の目を開けるみわざを見よう(27節)。キリストの前に二人の盲人が現れた。この種の病は古代に多かった。衛生的な問題、伝染性の微生物、細菌、栄養失調、暑さ、戦争、こうした種々の要因がからみあって、多くの人が盲人となった。生後まもなく盲人となる子どもも多かった。産道を通って生まれるとき、淋病といった性病に罹患し、それが原因で失明した。しかし当時、こうした病理学的な知識があったわけではない。罪に対する直接的なさばきとして盲人となったのだと受け取られる人が多かった。盲人も差別の対象となり過ごさなければならなかった。

彼らはイエスさまの一行を認めると、一大行動に出た。大声で叫んでついて行った。キリストの周りには多くの人が取り巻き、混雑し、わいわいがやがやと賑わしい。このような状況でキリストの関心を引くにはどうしたらいいのか?群衆の雑音にも負けない大声を出して、キリストの関心を引こうとした。この姿勢は、先の、12年間長血をわずらった女とは対照的である(20節)。彼女は気づかれないようにして後ろから近づき、声を出さないで、気づかれないようにさわった。だが、こちらは、私たちに目を留めてくださいと言わんばかりに絶叫した。「叫びながら」(27節)ということばは、激しく叫ぶという意味合いを持っている。彼らは今までこんなに大声を張り上げて叫び続けたことはないというほどに、キリストに向かって声を発し続けた。そのことばは「あわれんでください」であった(27節)。「あわれんでください」ということばは神に対する祈りのことばとしてもポピュラーなものである。初代教会時代以降も、人々は「主よ、あわれみたまえ」と祈り続けた。私たちも日々、祈りの中で、このことばを発する。とりわけ、自分の無力感が強い時に。

「あわれんでください」という彼らの叫びはキリストの耳に届いた。だが、なぜかキリストは応答されない。彼らはガヤガヤという群衆の騒音に負けじと叫び続ける。だがキリストは相変わらず応答されない。ここで応答して目を直す奇跡をしたら群衆が熱狂的な反応に出てしまうので、28節にあるように、家につくまであえてそうしなかったという見方もできるだろう。また、盲人たちの意志の固さがどれほどのものであるかをテストするためという見方がされることもある。実際どうであったかわからない。けれども、彼らの心の求めがどれだけ真実なもので、どれほど信仰をもって近づいてきたのか、それが試される結果となったということは疑いえない。

キリストは目的の家に入られた(28節前半)。ここはシモン・ペテロの家であったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。二人の盲人はあきらめないで、キリストが滞在しておられる家までついてきてしまった。キリストは家で彼らに尋ねられる。「わたしにそんなことができると信じるのか」(28節後半)。この問いに対して、彼らは何の迷いもなく答えるのだけれども、この問いかけの前後を見れば、彼らはキリストを魔術師のような奇跡行為者として受け止めているのではないことは明らかである。彼らは、キリストを正真正銘の救い主と認めた上で、キリストには私たちの目を開けることができると信じている。27節の「ダビデの子よ」という呼び名はメシヤの別称である。そして28節の「そうです。主よ」という告白の「主よ」は、神の別称である。彼らは、今、目の前におられる方を神の救い主と信じ、そして自分たちを救うことができると信じていた。

キリストは盲人たちの心のうちを知っておられた。けれども、ここでキリストは、質問を通して、信仰を口で告白することを求められたのである。ローマ人への手紙10章8~11節を見よ。パウロは心で信じていることを口で告白することを求めている。皆さんには、自分の罪の姿を知って、「わたしをあわれんでください」とキリストにすがる思いがあるだろうか。そして、キリストは私の罪のために十字架についてくださり、よみがえってくださった神の救い主である、という告白ができるだろうか。

さて、キリストは彼らの告白にどう応えられただろうか(29節)。「あなたがたの信仰のとおりになれ」。すると、彼らの信仰のとおりに「彼らの目があいた」(30節前半)。聖書で目の開眼は、霊的開眼の意味でも使われることを付け加えておく。ただ目が明いたというだけではない。彼らは救い主の御顔をはっきりと仰ぎ見ることができただろう。本当の意味での人生の夜明けが彼らに訪れたといって良いだろう。ことばでは言い尽くせない感動がそこにはあったはずである。

キリストのみわざは、常に人々の信仰に応えるものとして描かれている。キリストは私たちの自由意志を重んじられる。自由意志とは人間に与えられた尊厳である。私たちは自分の自由意志で神に近づく。神は私たちを促し、励まし、警告を与え、救いに招くが、本人の意志に干渉されない。大切なことは、その人がどう意志を働かせ、判断し、決断するかである。神に対する決断が信仰となって表れるときに、神のみわざはなされる。今日の箇所では「わたしにそんなことができると信じるのか」というキリストの問いかけが、一つの促しとなっている。キリストは私たちの信仰の発揮を待っておられる。「そうです。主よ」と信仰の告白を待っておられる。

盲人の目のいやしに関して、以外にも思えるキリストの反応にふれておこう。「イエスは彼らをきびしく戒めて、『決してだれにも知られないように気をつけなさい』と言われた」(30節後半)。このように厳しく戒められた理由は何だろうか。こうした以外なキリストの反応は、マタイの福音書において5回出て来る(8:4;9:30;12:16;16:20;17:9)。その中でもこの箇所が一番目を引く。最初に告げたように、盲人の目をあけるといったみわざは、メシヤ時代到来のしるしであった。神の国の訪れのしるしであった。そうであるならば、なおさら内密にするような雰囲気を作らなくてもよいのではないかと思ってしまう。キリストは個人的な名声に関心はないという理解は本当であっても、それだけでは厳しく戒められたという謎の説明にはならない。ある人は、キリストが魔術師と一緒にされないために厳しく戒められたと言う。確かに34節を見れば、キリストは悪霊につかれた魔術師のようにみなされていることがわかる。キリストを魔術師のようにみなす人たちは、キリストが公けに何かをすればするほど、敵対心を強めることになろう。キリストはそうした敵対心を煽りたくなかったという見方もできる。だが理由はそれだけでもないだろう。

解決のカギは、盲人たちが人々の前で大声に叫んだことばの中にあるだろう。そのことばとは「ダビデの子よ」である(27節)。「ダビデの子よ」ということばが登場するのは、ここが最初である。当時のユダヤ人はこのことばをどう受け止めたのだろうか。ダビデの子とは、ダビデ王の家系から出る約束された解放者であり、彼が出現したら、すぐに地上に神の国を打ち立ててくださるとユダヤ人たちは信じていた(第二サムエル7章12~16節)。問題は、彼らの解放者のイメージは早合点なところがあったということである。彼らにとってのダビデの子とは、政治的な力、軍事的な力をもって、周囲の敵国からユダヤ人を救ってくれる解放者のことであった。それがメシヤ(救い主)であった。メシヤということを政治的な枠組みでしか捕えることをしない人が多かった。メシヤとは政治的解放者であるという理解。そして、当時、歴史の記録からもわかるが、イスラエルとその周辺諸国では、イスラエルから王なるメシヤが出現するといううわさが広がっていた。それに併せて、民衆の間ではイスラエルを支配するローマ帝国への不満が蓄積していて、誰かがカリスマ的リーダーとして立てば、その人物を担いで騒乱が勃発しかねない状況下にあった。いわば爆発寸前の状況下。キリストは活動の初期の段階で、ご自分の働きが誤解されて、へたに大騒ぎになることは望まれなかったと思う。キリストはまだまだ人々に教えなければならないことがあったし、もっと多くの村々を回って、福音を伝え、弟子作りをしなければならなかった。

次は、悪霊につかれている口のきけない人のいやしのみわざである(32~34節)。ここで問題となるのが、ユダヤ教の正統派を自認していたパリサイ人たちのキリストの評価である(34節)。キリストは悪霊につかれている人にされてしまっている。ユダヤ人はもともと、しるし、不思議を求める民族なので、キリストが奇跡的なことをされたこと自体を問題にしているのではない。自分たちの仲間がしていることならまだしも、正統派である我らとは関係のない一庶民がしていることを認められるはずはない、という彼らのプライドである。キリストのわざを神に帰すことができなかったら、理屈上、悪魔に帰すしかないわけである。

現代でも、キリストに対する色々な見方が広がっているが、現代のクリスチャンも注意しなければならないゆがんだ見方を一つだけ紹介しよう。キリスト時代は、人々はキリストを政治的地上的メシヤとみなしていた。これが当時の間違い。現代はそれとは真逆なメシヤ観が見られる。すなわち、キリストは天上にたましいを救い入れてくれるメシヤであって、地上の事柄には関心がない天上のお方というものである。これもゆがんでいる。実は、キリストが出現した時代からすでに、ギリシャ哲学が人々の思想を形作っていて、それがキリスト教に強い影響を与えることになる。その悪影響は霊肉二元論である。「霊(たましい)は善、肉体(物質)は悪。神は肉体からたましいを解放し、天上に救い入れてくれる」。プラトンがこうしたことを説いていた。この霊肉二元論が教会にも侵入し、救いとはたましいが天上に行くこと(天国に行くこと)止まりとなり、物質世界への無関心といった誤った世界観を助長することになった。このギリシャ哲学の誤った影響が現代にも色濃く残っていると言われている。聖書が教える救いの完成は万物の回復である。聖書が教える歴史のゴールは新天新地である。確かに、キリストを信じる者は救われ、天国に行く。しかし、それで終わりではない。人間に関して述べると、終わりの日のからだの復活が約束されている。以前にも述べたように、人間はたましいとからだの統合体。からだあっての人間である。神はたましいとからだの丸ごと、救おうとされる。からだの復活については使徒パウロが第一コリント15章で論じている。そして、復活のからだをもって永遠に生きる世界が新天新地である。新天新地は天の都が地上に降り立ち、地上も贖われ、天と地が一つになった様である。神のご計画は、天上に救い入れて終わりではなく、この地上世界も贖うことである。使徒ペテロは群衆に向かってキリストの受難と復活を語った後、キリストが天に挙げられたことについてこう語っている。「このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの<万物の改まるとき>まで、天にとどまっていなければなりません」(使徒3章21節)。この<万物の改まるとき>についてパウロはこう語っている。「時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです」(エペソ1章10節)。このみわざを、初期のキリスト教徒エイレナイオスは「万物の再統合」と呼んだ。ペテロはこの日を待ち望むように次のように語っている。「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいるのです」(第二ペテロ3章13節)。この新天新地の姿については使徒ヨハネが黙示録21,22章で語っている。天と地が一つになり完成した姿、この姿はイザヤ書等の預言書でも啓示されている。確かに天国という存在はあるが、それは一時的な存在であり、この新天新地がゴール。ここに救われた者たち、からだが贖われた者たちが住む。ここでキリストは永遠に王として治められる。キリストを単に地上的メシヤとするのもまちがいであり、キリストを単に天上に招くメシヤとするのもまちがい。キリストはやがて再び地上に来臨され、天と地を一つにし、神の国を完成してくださる。これがメシヤの務めである。いつの時代も誤った教え、ゆがんだ教え、バランスの悪い教えが横行するので、私たちはいつも、聖書は何を言っているのかと注意深くあらなければならない。

今日の福音書の物語の時点で、盲人たちやキリストの弟子たちのキリスト理解はまだまだ不完全なものであっただろう。けれども、彼らは、イエスはキリスト、神の救い主と信じる信仰があった。また、主の御力を信じ、それに頼る信仰もあった。「わたしにそんなことができると信じるのか」「あなたがたの信仰のとおりになれ」という主の御声が私たちにも響いて来る。先に信仰を口で告白し救われた私たちも、これからも信仰を発揮するように召されている。キリストをさらに知ることを求めるとともに、信仰を発揮し、キリストのみわざを拝させていただこう。今、キリストは御霊によって、変わらないみわざを行ってくださる。