人はいろいろ、人生いろいろである。しかし、祝福のみわざをなされる神はおひとりである。私たちも、それぞれ生い立ちや歩んできた歩みは違うが、神の祝福に与ることが許されている。その手段がキリストに対する信仰である。キリストのもとには、ひっきりなしに人がやってきた。今日の場面では、先ず「会堂管理者」が訪れている(18節前半)。会堂管理者は、ユダヤ社会では尊敬を受けているハイクラスの人物。会堂管理者は建物の管理人程度ではない。礼拝を指導し、長老たちの監督を務め、教え、民たちの紛争を解決し、会堂に集う人々に対してリーダーシップを発揮する存在。ユダヤの宗教機構を形作る一員。高級官僚のような存在。パリサイ人の可能性も大。

もうこの頃すでに、ユダヤの宗教機構は、キリストに対して批判的であった。この会堂管理人は、もしキリストのもとに助けを求めに行けば、自分たちの取り巻きから非難され、プレッシャーをかけられることは知っていただろう。それを思えば、キリストのもとに来て、ひれ伏して懇願するというのは、相当な行為であったことがわかる。この勇気だけでも賞賛してあげたい。彼の願いは、「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」(18節後半)。何という信仰だろうか。実は、この物語は、マルコ、ルカの福音書にも記されており、特にルカに詳細に記録されている。そこを見ると、会堂管理者が最初懇願に来た時は、娘はまだ死んでいなかった。キリストが会堂管理者の家に向かう途中、娘さんは死にました、という悲報が入る。けれども会堂管理者はイエスさまなら死んだ娘を生き返らせることができるという信仰を持った。マタイはこうしたやりとりは省いている。そこに関心はない。それはちょうど8章5~13節で見た百人隊長のしもべのいやしの記事と同じである。マタイの関心は、登場する人物の信仰である。そこに焦点を当てている。物語の詳細ではない。

この場面で信仰を発揮しているのは、階級の高い人物。これまでのようなツァラアトに冒された者や異邦人、女性、律法を守らない者たちといった、社会的には見下げられていたアウトカーストのような存在ではない。ユダヤ社会で上位に位置づけられる人物。彼は、いわば同僚のようなパリサイ人たちも見ている中、プライドをかなぐり捨てて、へりくだって、そして真剣にキリストに懇願している。「ひれ伏して」という表現は、礼拝を意味する用語でもある。怒りをもってこの行為を見ていた者たちもいるだろう。「ひれ伏して、何を愚かなことをやっているんだ」と。しかし、会堂管理者にとって娘のいのちには変えられない。ルカの福音書を見れば、娘の年齢は12歳であったことがわかる(ルカ8章42節)。彼は娘に愛情を注いで12年間育ててきた。当時のユダヤ社会では、12歳が女性の成人年齢で、満12歳を迎えれば、一人前の大人とみなされ、結婚が許される。しかし、会堂管理者にとっては、まだ小さい愛娘でしかない。何とかしてあげたい。それが親の情というものである。

この会堂管理者の信仰がなぜすぐれているのかと言えば、娘の生き返りを懇願している事実にある。実は、この時点までキリストは、死者を生き返らせるみわざは行ってはいない。にもかかわらず、この会堂管理者は何の疑いもなしに娘の生き返りを願っている。ラザロの生き返りはこの後の出来事である。会堂管理者の信仰は、ヨハネの福音書11章に登場する、死んだラザロの姉たちであるマルタとマリヤをしのぐ信仰である。マルタとマリヤは、弟が終わりの日によみがえることを信じていたが、弟の現世での蘇生までは信じることができなかった。

キリストは彼の信仰に応えようとして、彼のあとをついて行く(19節)。ついて行くキリスト。何気ないこの表現に、キリストのあわれみと仕える愛を感じ取ることができる。会堂管理者とキリスト、そして弟子たちは、死人のいる家に向かって進んでいく。この一行を誰にも邪魔してほしくはない。だが、物見高な群衆がほおっておくはずはない。ルカの福音書では、大勢の人が、ひしめき合って押していたことが記されている(ルカ8章45節)。

ついに、キリストの足を立ち止まらせる事が起きた。群衆にまぎれてキリストにひとり近づく女性がいた。「十ニ年の間、長血をわずらっている女」である(20節)。会堂管理者の娘が12年間、親に愛され、日向を歩んでいた時、反対に日影を歩み、涙にくれていた女がいた。余りにも対照的である。会堂管理者の娘は親の寵愛を受けていたであろうが、彼女の病は、家族からも隔離されなければならないという種類のものであった。「長血」は腫瘍が原因していたか、その他の子宮の病気であったか。いずれこの病は旧約の律法によって儀式的汚れの領域に入れられ、治癒するまで人前に出ることは許されなかった(レビ15章25~27節)。だから彼女は人目をはばかるようにして、キリストのもとに近づいた。この病を負うと、礼拝所である会堂、神殿の出入りは当然のことながら禁じられる。その人のさわるすべての物、すべての人が汚れてしまうからである。家の中にいれば大丈夫かというと、たとい結婚した夫がいたとしても、夫に近づくことはできない。距離を置かなければならなかった。だから彼女は、社会的に孤独の身であった。彼女は12年間孤独であった。当然のことながら会堂管理者の娘とは違う。そして会堂管理者の娘は亡くなったとき、民衆の同情を買っていたと思うが、彼女の場合、その同情の100分の1も与えられていなかったにちがいない。

並行箇所のマルコの福音書を見れば、彼女は多くの医者からひどい目に会わされ、無一文となり、ますます悪くなる一方であったと描写されている(マルコ5章26節)。医者ルカはルカの福音書で「だれにも直してもらえなかった」と描写している(ルカ8章43節)。彼女は孤独の問題だけではなく、経済的には破綻、そして肉体的には絶望という状態にあったようである。不幸の三拍子が揃ってしまっている。ひどい表現かもしれないけれども、息をする死人といった状態。けれども、信仰が残っていた。

彼女は驚くべき行動に出る。それは聖なる方にふれてしまうという行為。8章に入ってから、いやしを願った者たちはみな、キリストの前に出て、どうしてほしいか願いを表明した。でも彼女だけは別。「イエスのうしろに来て」(20節)。前ではなく後ろに行った。そして「その着物のふさにさわった」(20節)。「着物のふさ」というのは、ユダヤ人が着物の四隅につけている房のことである(民数記15章37~39節)。これは単なる飾りではなく、主の戒めを思い起こすという意図があったもの。彼女はその房の一つにさわった。彼女がこの行動をとった訳は、もちろん、自分が汚れた者であるから、堂々正面切って願えないということもあったが、その理由は、「『お着物にさわることでもできれば、きっと直る』と心のうちで考えていたからである」(21節)。

これまで人々は様々な方法で信仰を働かせてきた。御手を置いていただければ…お言葉一ついただければ…。でも彼女は、御手を置いていただくのは申し訳ない、お言葉を面と向かって受けるのも申し訳ない気がする。かといって何もしなかったら、何も起らない。そして彼女流の方法に出た。この方法がベストであったかどうかは別として、信仰の強さは一級品である。これはユダヤ人から見れば、バレたらまずい礼儀のない行為に映るだろうし、着物にさわれば直るという信念は迷信的なものにも映る。けれどもキリストは一切非難せず、彼女の信仰に目を留め、暖かいことばをかける。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです」(22節)。直したのはキリストご自身であるが、キリストに対する信仰が直したということも事実。キリストは彼女の信仰を賞賛している。

信仰を働かせる方法は様々である。聖書を見ると、キリストに食い下がって、断られてもあきらめようとしない異邦人女性の話も出てくれば、言葉も発せず、後ろから近づく彼女のような人もいる。様々である。しかし共通するのは、イエスさまにはできる、と信じる信仰である。キリストは宣言された。「あなたの信仰があなたを直したのです」。ここでの「直す」ということばは、「救う」ことを意味することばで、通常は「救う」と訳すことが一般的(22,21節の欄外註参照)。このことばは罪からの救いを意味することばである。よって彼女は、肉体的に救われたばかりではなく、霊的にも救われたと判断することができる。これを機に彼女は孤独から解放され、社会生活に復帰し、普通の生活を営むようになっていっただろう。何よりも、喜びと賛美をもって主に仕える者となったであろう。

このすばらしいみわざを会堂管理者自身が目撃していた。会堂管理者にとって、自宅に向かう途上で起こったこの出来事は、非常な励ましとなったにちがいない。そして会堂への出入りを禁じられていた長血をわずらっていた女が、一礼拝者として復帰し、彼が管理する会堂に足を運んだ時、お互いに主のみわざをほめたたえ、喜びあったと想像できる。それまで接点のなかった二人が、同じ主の恵みに与ったことによって、信仰の家族という実感を味わうことになったのではないか。

では、長血をわずらった女のいやしの後の出来事を見ていこう。キリストには会堂管理者の家での一仕事が待っていた(23節)。死んだ人の家だから静まっていると思うのは日本の話で、ユダヤではそうではない。「笛吹く者や騒いでいる群衆」という表現に、日本人の感覚ではお祭りを想像してしまう。ユダヤの慣習では、人が死ねば、笛吹く者たちと泣き女たちを雇った。貧しい家でも必ず雇う習わしがあったので、この騒々しさは当たり前のことであった。泣き女たちは大声で泣き、死人の名前や過去にその家で死んだ人の名前なども混ぜて、叫びうめいた。笛吹く者たちは悲しみの感情を表わす音楽で、悲しみを盛り上げた。しかし、これから起こることを考えれば、このような演出は無用であった。キリストはそれをことばに出している。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです」(24節)。キリストは、泣いたり、叫んだり、悲しんだりする必要はないと言わんばかりに退場を命じる。そして少女は死んだのではなく、今から起き上がるという意味で「眠っている」という表現を使う。悲しみを演出していた者たちは、そんなことはあり得ないと、その演技を解き、一転してあざ笑うという態度に出る(24節終わり)。しかし、そのあざ笑いをあざ笑うかのように、キリストは静かになった環境で少女を生き返らせる(25節)。もう笛吹く者や泣き女はいらない。お疲れ様。

今日の物語では、これまでにない幾つかのことを見ることができる。キリストはこれまで、病に対して、悪霊に対して、自然界に対して権威を示して来られた。病気をいやし、悪霊を追い出し、荒ぶる波を鎮めと。しかし、それで終わらない。今日の箇所では、最後の敵とされる死に対して権威を発揮された。これは心に留めるべき一つの点である。キリストの死に対する権威は、やがてご自身の復活において明瞭に証されることになる。死とは聖書において、罪の最終的、必然的結果として描写されている。死はアダムの罪によって世界に入ってきた呪いである。キリストの福音、キリストのいのちは、これを打ち砕く。会堂管理者がキリストに懇願する直前に、キリストは「新しいぶどう酒を新しい皮袋」に入れることを語っておられた(17節、18節前半)。新しいぶどう酒であるキリストの福音、キリストのいのちは、古い皮袋は許さない。この場面では、過去の葬儀の姿を許さない。

そして今日の箇所において、階級の高い会堂管理者と階級社会から追放同然のアウトカーストの女性が並列して描かれていることを心に留めたい。社会的クラスの全く違う二人。キリストはこの二人を差別なく扱われた。神は平等なゆえに、信仰は本来、平等である。それを発揮するかしないか。信仰は階級の別、貧富の別、学識の別、そういったことと一切関係ない。信仰を発揮し、祝福に与る機会は誰にでも与えられている。

会堂管理者が信仰を発揮しなかったらどうなっていたか。12歳になった娘は、成人年齢に達してこれからという時に死ななければならないということだけでなく、キリストのすばらしさを知らずに世を去るしかなかった。しかし会堂管理者が信仰を発揮したがゆえに、家庭に祝福がもたらされ、生き返った娘は生涯、キリストに従う者となったのではないかと思う。12年間長血をわずらっていた女は、信仰を発揮したがゆえに、からだのいやしや社会復帰に与ったばかりではなく、永遠のいのちをいただくことができたはずである。もし彼女が信仰を発揮しなかったら、孤独に日影の生活を送り続け、肉体、精神がボロボロになって、数年後に社会の片隅で、汚れた女性として人生を終えていたかもしれない。しかし、今や、彼女は、二千年の長きに渡って、聖書の記述を通して、人々を励ます存在となった。

信仰は発揮しなかったら損である。皆さんも、その眼差しをキリストに向け、信仰を発揮し、皆さんの個人史に信仰の物語を刻んでいただきたい。また、その証を互いに分かち合い、ともに励まされ、信仰の家族として歩んでいきたいと思う。