当教会の名称には「やすらぎ」という文字が入っている。それは、神の下さる平安を意識してのものである。「平安があるように」とは、当時、祝福を与えるあいさつのことば、また祝福を与える祈りのことばであった。私たちは誰にでも、神の祝福を与えることに努めたい。それは平安の子を見いだすためである。そこで、今年度のテーマは、「人々に祝福を与え、平安の子を見いだす」ということにさせていただく。今日はルカ10章5,6節を中心に、祝福について学んでいく。

場面は弟子70人の派遣に際してのキリストの命令である。キリストはご自分が福音を伝えに行くつもりのすべての町や村へ、まず先だって弟子たちを派遣した。弟子たちは遣わされた町々村々で、みことばを伝え、愛の働きを為すことによって、キリストを受け入れていただくための備えをする。その際、祝福を与えることを命じられている。「どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい」(5節)。「平安」<エイレーネー>は「平和」を意味する。よって「平和」と訳すほうが良いとも言われている。「平和」はユダヤ人の公用語のヘブル語では<シャローム>。その意味は豊かである。「完全、健康、安全、繁栄、幸福、救い」という意味を含む。人間や社会が神の祝福によって理想的状態になることを意味する。それは、気持ちが穏やかなこと、静まっていること、争いがないことといった、この世の平和の概念よりすぐれている。それは神がもたらす満ち満ちた幸福をイメージする。この場合、「平安があるように」というあいさつには、神の救いがもたらされるように、という意味が込められている。神の救いが祝福である。このあいさつは、一つの願望なのではなく、一つのギフトなのである。受けとってもらえるか拒まれるかの違いが生まれるにしろ、神からのギフトを差し出しているということなのである。それは形式的な口上ではなく、実体のないものではない。実体をもつ神からのギフト、祝福なのである。キリストは復活されたとき、「平安があなたがたにあるように」と弟子たちに言われた(ヨハネ20章19節)。私たち日本人はユダヤの文化にはいない。「平安があるように」というあいさつはしない。けれども、向かう家、会う人のために、「平安があるように」と祝福を祈ることができる。「どんな家」「この家」の「家」<オイコス>は、この場合、「家族、家中の人たち」を意味する。私たちがどなたかの家におじゃまするとき、またその家の前に立つとき、家じゅうの人たちの祝福を祈ろう。また、訪ねて来てくださる人や、病院やお店や公共施設で出会う人、電車やバスで同席になる人、そうした人たちのために、ことごとく祝福の祈りをささげていきたい。自分の家の家族、職場の同僚、上司、自分が住んでいる地域住民のためにも、もちろん祈っていこう。外を歩いている時、目に入る人、車を運転している人、そうした人のためにも祈ろう。

キリストは「もし、そこに平安の子がいたら、あなたがたの祈ったその平安は、その人の上にとどまります。」(6節前半)と、「平安の子」に言及しているが、「平安の子」とは、すでにキリストを信じている人物ではなく、救いを提供して、それを受け入れることを願う人物のこと。キリストの救いを受け入れる人物のこと。その人物が「平安の子」「平和の子」。救いを与えるキリストは「平和の君」(イザヤ9章6節)と言われている。パウロはキリストの福音を「平和の福音」(エペソ6章15節)と呼んでいる。ペテロは「神はイエス・キリストによって平和を宣べ伝え」(使徒10章35節)で言っている。イエス・キリストによって神との平和が与えられる。神からの平和が来る。この秋田県南で、「平安の子」がたくさん見出されるように祈っていこう。そのためにはもちろん、出て行く姿勢が必要である。キリストは弟子たちの立場について、3節で「狼の中に子羊を送り出すようなものです」と言っているが、私たちは狼を恐れて、自分たちを孤立させてはならない。やはり、出ていかなければならない。平安の子を見出すために。出て行って、接触して、祝福を祈って、みことばを伝え、平安の子を見いだそう。

キリストは、「だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返ってきます」(6節後半)と付け加えられた。これは私たちにとって慰めである。というのは、私たちは、人に拒絶される場合があるからである。平安を人に与えれば、それが自分に返ってくるというのは神の国の法則である。そして、これは逆もまた真である。「彼はまたのろうことを愛したので、それが自分に返ってきました。祝福することを喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました」(詩編109篇17節)。

私たちが祝福を与える相手とは、私たちに敵意を抱く人も含まれる。「あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6章28節)。「祝福する」<ユーロゲオー>は「善く」+「言う」という二つのことばの合成語で、意味は「善く言う、ほめる」である。自分におもしろくない感情をぶつけて来る人に、感謝やほめることばを言えるだろうか。また、ここでは明らかに祝福の祈りをささげることが命じられているが、それができるだろうか。私たちは嫌な相手の態度をじっとこらえていればそれでいいと言われているのではない。また赦してあげればそれでいいと言われているのでもない。もっと積極的態度が言われている。その人のために祝福の祈りをささげるということ。「のろう」<メタアラオマイ>は「敵対」+「害悪の祈りをする」という二つのことばの合成語。「敵対し害悪の祈りをする、敵対し害悪のことばを吐く」といった意味。「侮辱する」には「ののしる」という意味があるが、「虐待する」という意味もある。そのような人たちに対して、祝福の祈りをささげなさい、と命じられている。こうした精神は態度になって現れることを前後のみことばは証明している。一節前の「あなたを憎む者に善を行ないなさい」(27節)の「善を行う」は、あたりまえながら、「善い事をする」という意味である。「善く言う」と調和する。

「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであってのろってはいけません」(ローマ12章14節)。パウロは迫害する者を祝福するのは難しいということは知っていた。ふつうはできない。逆にのろいたくなる。だからこそ、パウロは、祝福ということばを2回使って、祝福することを強調している。「迫害する」ということばも説明しておこう。原語は、狩のために獲物を追いかけるという意味をもつことばである。だから、「敵意をもってあなたがたを追いかけ、追い回す人を祝福しなさい」と意訳できるだろうか。パウロも昔は迫害する側であった。クリスチャンという獲物を捕まえるために追いかけ回していた。彼は迫害する側がどんな残虐なことをしていたのか、どんな気持ちでいたのか、全部わかっている。のろう気持ちしかない。その彼が命じている。のろいに対してのろいで向かうのではなく祝福で立ち向かう。祝福はのろいに打ち勝つ。

「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです」(第一ペテロ3章9節)

失礼な人、嫌味を言う人、冷たいそぶりの人に対して、ただ涙をぐっとこらえることで終わってはならない。また気を強くして、相手をやり込めて得意がっているだけでもいけない。反対に、同情の念をもって祝福を与えたい。聖書は祝福を与えれば、必ずしもその人の態度が和らぐとは言っていない。たといそうならなくとも祝福を与える。祝福がその人にふさわしくない場合、その祝福は自分に返ってくるだろう。いずれ私たちは「祝福を受け継ぐために召され」ている。私たちクリスチャンはすでに祝福を受けている。そして、その祝福を分け与えるように召されている。私たちの存在は、ただ祝福であるということである。この自覚に立って祝福を与えることを心がけ、それに反する侮辱、悪口、睨み返し、相手の失敗を喜ぶ態度等は慎もう。私たちは少しぐらいのことならやりすごせても、人の悪意でひどいダメージを受けたら怨念の情に支配されることになりかねない。本当の敵は人ではなく、この怨念の情かもしれない。それに気づいたら、この敵を神に差し出し、代わりに聖霊をいただこう。

さて、私たちは相手は誰であっても祝福を与える習慣を身に着けたい。性別も性格の善し悪しも関係ない。年齢は赤ちゃんから夕暮れ時の人まで。範囲ということでは、旅先や仕事先でも、出会う人、出会う家族、その地域の住民を祝福していけるだろう。多民族や他国の人々のためにも主の平安を、御救いを祈っていけるだろう。そうして平安の子がたくさん起こされることを願っていこう。もちろん、私たちは互いのためにも祝福を祈ろう。

祝福を与える対象で他に忘れてならない存在についてお伝えしておく。「すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた」(ルカ1章64節)。おしであったザカリヤに起こった出来事である。「神をほめたたえた」の「ほめたたえる」ということばは、実は先ほどルカ6章28節で見た「祝福する」<ユーロゲオー>ということばである。<ユーロゲオー>の元の意味は「善く言う、ほめる」であった。このことばが神に対して用いられる場合、「ほめたたえる」と表現される。賛美は神を祝福することであるということを覚えよう。私たちの唇に神への賛美を絶えず上らせよう。朝起きたら、すぐに主をほめたたえ、目覚めているとき、すべての行動の節目に主をほめたため、就寝するときも主をほめたたえる。そうでありたい(詩編103篇1~5節参照)。

祝福を与える対象として忘れてならないもう一つの存在がある。それは自分である。

「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように」(第一歴代誌4章10節)。ヤベツという名前は「悲しみ」という意味だが、ヤベツは自分の大変な現状の中で沈んで一生を終わらなかった。ヤベツは自分を大いに祝福してくださいと祈り、それは答えられた。「そこで神は彼の願ったことをかなえられた」(10節)。恥ずかしくて、自分を祝福する祈りができないという人もいるが、その人は何か勘違いしている。「わたしの地境を広げてください」というのは、約束の地での祈りである。だから、これは単純に領地を広げてくださいという祈りではなくて、今でいうと「わたしの働きによって、神の国を拡大してください、神の国が前進しますように」という祈り。ヤベツの祈りは最終的に神の栄光に焦点が当てられている。詩編の作者もこう祈っている。「どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです」(詩編67篇1節)。「神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように」(同7節)。私たちは神の栄光を動機として、ヤベツや詩編の作者のように自分のためにも祝福を祈ろう。

今日は祝福を与えることについて学んできたが、ポイントは、まだ救われていない家族や隣人のために、地域の人々のために祝福を祈り、「平安の子」が見いだされるよう働きかけていくということである。当教会が秋田県南で開拓をするように導かれた意味は、まさしく人々に神の平安を差し出し、「平安の子」を見い出すことにある。今年度、「平安の子」が見い出されることを期待していきたい。そのためには、まず私たち自身が、神との平和を保つことを心がけ、キリストの平安で満たされていたい。

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはいけません。恐れてはなりません」(ヨハネ14章27節)