今日はズバリ、罪を赦すキリストの権威について見よう。今日の物語の場所は「ご自分の町」と言われている(1節)。先週はキリストの一行が舟でガダラ人の地に渡り、悪霊に苦しめられている男たちを救った記事であった(8章28~34節)。この後、キリストと弟子たちは舟でUターンした。その地は8章5節で「カペナウム」と言われている町である。この町は湖畔の町であるが、この町をキリストはホームタウンとしていた。伝道活動の拠点としていた。

キリストの帰りを待ちわびていた人たちがいた。中風の人とその取り巻きの人々である(2節前半)。「中風」というのは、全身の神経が麻痺してしまう病気。神経麻痺の病である。彼はキリストのもとへ行きたくても自分ひとりでは当然行くことはできない。寝たきりになっていた。周りの人が言いだしたか、本人が言いだしたかわからないが、担架に乗せて、キリストの前に連れて行くことになった。この時、キリストは家の中で大勢の人たちに囲まれていたため、屋根に穴を開けて、上から中風の人を吊り下ろしたことが他の福音書には記してある。

実は、この物語も、マタイ、マルコ、ルカの三福音書に記されている。そして、記事としてはマタイが一番短い。費やしている文字は原文で126文字。ルカは212文字と一番長い。マタイは、人々がこの中風の人をどのようにしてキリストの前に置いたのかという詳細は省いている。マタイの強調は罪を赦すキリストの権威にあるようである。よって、その線で見ていきたい。

中風の人のいやしの記事は意外な面がある。「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された』と言われた」(2節後半)と、病のいやしではなく、罪の赦しが宣言されている。先ず、「彼らの信仰を見て」とあるが、複数形で言われているので、中風の人と中風の人を連れてきたお友だちを併せて「彼ら」と呼ばれていると思う。彼らには、イエスさまであればいやすことがおできになるという揺るがぬ信頼があった。「彼らの信仰を見て」の「信仰」とは、この場合、信頼という意味である。イエスさまならいやすことが必ずできる。その信頼を受けとったキリストは、先ずいやしのわざを行ったのではなく、罪の赦しを宣言した。ここがユニーク。

キリストの時代、ここユダヤ人の文化では、すべての病気や艱難は、本人か誰かの罪の直接の結果であると信じられていた(因果応報のようなもの)。中風の人を知っていた人たち、そして今、中風の人を見ている見物人たちがどう考えていたか、容易に想像がつく。「彼の神経麻痺は、彼自身の罪に対する裁きか、彼の両親、彼の祖父母の罪に対する裁きなのでは」。罪と病の問題は単純ではない。病そのものは、アダムとエバの時代にこの地上に罪が入り、人間の堕落によって引き起こされたものであると聖書は告げている。世界に罪の呪いが入り、人は病に冒され、死ぬ者となった。ある意味、人は事故によらない限り、ほとんどの人が病によって死ぬ。病は罪によって引き起こされたものであることは疑いえない。病の原因は罪である。だが、しかし、聖書は旧約聖書も新約聖書も、因果応報的な見方に警告を発している。すなわち、病はその人個人の罪に対する裁きであると短絡的に決めつけてはいけないと。病はその人個人の罪の直接の結果であると決めつけてはならないと。神の裁きとしての病は限定された数しかない。もちろん、神の裁きとしての病の記録は聖書に幾つかある。だが、それが病のすべてではない。本人の直接の罪の結果によらない病のほうが多い。そして複雑になってくるが、その人の罪が間接的に病を引き起こすということはある。たとえば心の怒りは、胃腸障害、高血圧、動脈硬化、脳卒中、心臓麻痺を引き起こす。またノースカロライナ大学の教授の敵対心の調査では、敵対心が強い人はそうでない人の7倍も死亡率が高いことがわかった。フロイトという精神分析学の創始者がいる。彼の理論が正しいかどうかは別としての話であるが、彼が40歳になった時、父親が81歳で死亡した。その後、彼は、不安、あせり、胃腸障害の症状に悩まされた。なぜか?彼は自己分析を試みた。そして、それは、心の中で憎んでいた父親が死んだことによる罪責感から来るものであることに気づいた。病というものは様々な要因がからみあっている。心理的要因、遺伝子、環境、その他。旧約聖書のヨブや使徒パウロのように、特別な神のご計画の中で病を引き受けることになった人物もいる。病の背後にあるものを見きわめるのは困難である。しかし、不思議と、人は病気を通してへりくだらされ、内省の結果、自分の罪を意識するようになるものである。中風の人もそうであったかもしれない。彼は、「自分は罪人だ」という自覚をはっきり持っていた人であった。心貧しくなり、自分の罪を悲しむ心を持っていた人であったと言って良いだろう。

さて、彼が周囲から厳しい眼差しで見られていたということを覚えるときに、キリストのことばは暖かい。「子よ」という呼びかけは、暖かい、フレンドリーな呼びかけである。「子よ」、これは、フレンドシップの用語。また相手と自分を一つにするような親しい呼びかけ。人々の冷たく厳しい視線を思えば、このことばは、凍てつく寒さの中でホットミルクを味わうようなもの。続く「しっかりしなさい」は、励ましのことば。なんとありがたいことか。こうしたことばが、罪の赦しの宣言の前置きになっている。

では、その宣言である「罪の赦し」について見よう。「赦す」ということばのもとの意味は「借金を免除する」である。皆さんには、払いきれない借金が1億数千万円あると想像してみてください。一生、死にもの狂いで働いても返しきれない。家と土地を売っても、身売りしてもどうにもならない。それを返すことができなかったら牢に投げ込まれてしまう。まさに、地獄の借金である。それが全額免除されたらどんなに嬉しいことだろうか。その借金を罪に置き換えて考え見ればいい。神に対する莫大な罪、罪に対する報酬は永遠の死の刑罰。その罪がすべて免除される。「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」(イザヤ43章25節)。「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った」(イザヤ44章22節)。「主の御告げ。『わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ』(エレミヤ31章34節)。これらのみことばからもわかるが、「赦す」ということばには「忘れる」という意味を見出すことができる。アラスカで活動していた宣教団体がエスキモー人のことばに聖書を翻訳しようとして、困ったことがあった。「赦し」に相当する言語が見つからなかった。そしてこう翻訳した。「それについてもう考えることができない状態」。神さまは、もうその罪について考えない、思い出さない、忘れるよ、と言ってくださる。これは、どんなにすばらしい恵みであろうか?「もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください」(ミカ7章19節)。この恵みを保障するみわざが、あのキリストの十字架であったわけである。キリストの十字架上の救いのみわざを「贖い」と表現するが、その元々の意味は、「身代金を払って解放すること」である。キリストはご自身の尊いいのちを代価として、私たちの罪の借金を返済してくださり、救いのみわざを成し遂げてくださった。キリストは今も生きておられ、誰でも悔い改めと信仰をもって、キリストのもとに行くなら、「子よ、あなたの罪は赦された」という宣言を聞くことができる。

さて、この宣言を聞いて、心の中で屁理屈を言う者がいた。ユダヤ教の専門家で「律法学者」と言われる人たちである。実は9章から律法学者やパリサイ人たちとの論争に入っていく(3節)。彼らの心のつぶやきである「神をけがしている」であるが、「けがしている」ということばは、彼らの用法では、神の御力と尊厳を冒涜していることを指す。よって、「けがしている」を「冒涜している」と訳してもよい。なぜキリストが神を冒涜していると思ったのかと言えば、彼らの文化において、罪を赦す権威を持つのは神だけである、というのが社会通念としてあったからである。

すると、「あなたの罪は赦された」という宣言は、そんなことを口にするなんて、という驚きの宣言であったことがわかる。彼らは、キリストは自分を神と等しくしている、と心の中で非難した。確かに、罪を赦す権威を持つのは神だけであると思う。では、それを口にしたキリストとはいったい誰なのか?これまでキリストは病をいやし、自然界を静め、悪霊を追い出し、とご自身の神性というものを証明してきた。そして、ここでは、罪の赦しということにおいて、ご自身が何者であるかを明らかにしようとされている。

キリストは、律法学者たちの心の中の考えを見抜いておられた(4節)。これもすごいことである。2節において「彼らの信仰を見て」と言われているキリストは、今ここで、彼らの心の中を見ておられる。キリストの前に人の心というものは裸にされる。キリストは「なぜ心の中で悪いことを考えているのか」と言われたが、なぜ彼らの考えていることが「悪いこと」と言われているのだろうか。「あなたがたの判断ミスです」というのではなく「悪いこと」である。彼らはどんな悪いことを考えていたのだろうか。キリストを罪に定めようと悪い計画を立てていたということなのだろうか。そういうことよりも、キリストを悪く見ていたということだろう。つまり、「自分を神と等しくするなんて、ペテン師め」という風に。彼らは心の中でキリストを悪者に仕立て上げていた。だが彼らのキリスト評価はまちがっていた。キリストは彼らの心の非難を封じ込めるみわざをこの後されることになる。キリストは口から出まかせではないことを証明される。罪を赦す権威を持っていることを立証するみわざをされる。

その前に、キリストは質問を投げかけておられる。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか」(5節)。皆さんは、どちらがやさしいと思われるだろうか。大方の判断は「あなたの罪が赦された」と言うほうがやさしい、である。それで良いだろう。もし、いやしを宣言するなら、当然のこと、目に見える結果を要求される。それに対して、罪の赦しの宣言については、罪が赦されているかどうか、確証も反論も、ある意味しようがない。たましいの領域、目に見えない領域のことだから。だから言うだけなら、罪の赦しを言うほうがやさしいとなる。しかし、より深いレベルでは、また律法学者たちがどう見るかという文脈の中では、「起きて歩け」と言うことのほうがやさしいとも言える。というのは、罪を赦す権威を持っているのは神だけである、とされていたわけである。罪の赦しは神だけができるみわざ。神にしかできないみわざ。だから、罪の赦しを口にすることはやさしいことではない。

キリストはご自身の質問について何も答えておられない。質問を投げかけ、そのままにしておかれている。そして、この後、わたしにとっては両方ともやさしいと言わんばかりに、「あなたの罪は赦された」「起きて歩け」、この両方のことばを実証してしまう。それがすごい。

キリストは中風の人に命じられる(6節)。しかし、この時、「人の子が地上で罪の赦しの権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために」と見物人を意識しておられる。8節に「群衆」とあるので、多くの人がこの時、見ていた。しかも「群衆」ということばは、原語では「群衆」という単数形のことばをわざわざ複数形にしており、かなりの大人数がいたことを強調している。大人数の取り巻きの中でいやしのみわざをされる。福音書において、キリストのいやしのみわざというものは、神の支配、神の国到来のみわざである。それはキリストが神であることの証明であるということである。彼らはそのみわざを間のあたりにすることになる。ちょっとユニークなのは、その命令が「起きなさい」でとどまらず、「家に帰りなさい」で終わっているということ。すると、そのとおりになる。「すると、彼は起きて家に帰った」。彼は家族の中に帰っていったわけだが、キリストは彼の家族環境のこともすべてご存じであられたのだろう。

このみわざの結論は、「群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた」(8節)。群衆は必ずしもキリストに対して良い感情を持つ者たちばかりではなかっただろう。しかし群衆は畏敬の念にとらわれている。神の臨在を感じ、このいやしのみわざは神から来ていることを認め、神をあがめている。しかし、そういうことだけではない。ここでカギとなることばは「こんな権威」である。神だけが持つ罪を赦す権威、至高の権威、それを、今目の前にいる人物が持っているということ。このことを含めて、神をあがめている。キリストが罪を赦す権威を持っているということを素直に受け止めれば、人として来られたキリストは誰であるのか、わかるはずである。だが群衆の多くが、キリストは一人の預言者止まりという認識で終わったかもしれない。またいくら証拠を突きつけられても、信じようとしない者は頑として信じないと言われているように、律法学者たちはキリストをペテン師扱いし続けるのも事実。しかし、こうしたみわざのゆえに、キリストはまことの人となられたまことの神、神の救い主と認める者が増えていくことも事実。次回見ることになるマタイがまさしくそうである。彼も中風のいやしの事件は当然聞いていたはずである。そしてキリストを信じる者となっていた。あとは行動に表わすかどうかである。マタイについては次回、詳しく見よう。

今日のポイントは、キリストは罪を赦す権威を持っている神の救い主であるということである。このお方に全く信頼し、このお方に罪を雲のように、かすみのように拭い去っていただき、心を晴れ渡らせ、このお方についていこう。