今日はセルフイメージについて、聖書の視点からご一緒に考えたいと思う。皆さんのセルフイメージはどうだろうか。セルフイメージの問題を解決するのは愛である。

今日の箇所はキリストのみわざが記されているが、印象的というだけでなく、とっても奇怪なお話となっている。狂人がキリストと対決するという物語である。キリストの生涯を伝える福音書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと四つあるが、今日の物語はマタイ、マルコ、ルカの三福音書に記されている。それぞれの福音書には、それぞれの福音書にしかないキリストの講話やキリストの活動が記されているが、共通して記されているものもある。今日の物語がその一つである。なぜ、このような奇妙な物語が聖書でクローズアップされているのだろうか、と思ってしまうが、それだけ重要な内容であるということを受けとめて見ていきたい。

キリストはイスラエルのカペナウムという町を拠点に活動していたが、この時、弟子たちと一緒に舟に乗って湖を渡り、約10キロ先の対岸にある「ガダラ人の地」と言われている地域に出かけた。岸から上がると間もなくして凶暴な二人の人と出会う(28節)。「二人は墓から出てきて」とあるが、この地では、横穴(洞穴)が墓として使用されていた。そこを住処としていたということである。私たちはこの人たちのことを特別な存在と見てしまうかもしれない。確かに特別な存在であるが、だが、無関係な存在でもないということを知る。私たちも彼らと共通点があるということである。

20世紀に入って、人間の心の残虐性を証明する様々な実験がされてきた。イェール大学ではアイヒマン実験と呼ばれることになる実験を行った。これは普通の平凡な市民が、一定の条件下では、冷酷で非人道的な行為に出ることを証明する実験だった。アイヒマンとはヒトラーの部下の名前で、東欧地域の数百万のユダヤ人を収容所に送った戦犯である。彼を追跡していたイスラエルの情報機関が、彼が妻の誕生日に花屋で花束を購入していたのを目撃。それがきっかけで逮捕された。彼は普通の愛情を持ち、一介の平凡で小心な男に過ぎなかった。

実験は教師役と生徒役に分かれ、教師役の被験者が、生徒役に電気ショックを与えるというもの。ちょっと痛さを感じる45ボルトから死の苦痛を感じる450ボルトまで電圧を上げていく。電圧が上がれば苦痛のアクションは大きくなり、叫び声も大きくなる。教師役は低い電圧のスイッチを押すことから始め、より高い電圧へと進む。生徒役の悲鳴も当然のことながら大きくなっていく(実は、実際は電流は流れておらず、演技。だが教師役は本当に電流が流れていると思い込んでいる)。人はどこまで残虐になれるのか。被験者の教師役の62.5%が最高の電圧のスイッチを押すところまで進んだという。

スタンフォード大学では、健全な学生を囚人役と看守役に分け、実際と同じような環境のもとで、24時間体制で演じさせた。囚人は鎖でつながれ、看守には権威が与えられる。それでどうなったか。2週間続くはずの実験は、看守役のグループの暴力が制御不可能なまでにエスカレートしたため、6日間で打ち切りとなった。

実は、こうした実験を待つまでもなく、人は環境や条件の変化で、残忍になりうるという実例はたくさん報告されている。古い話では、石川五右衛門の釜ゆでの刑が知られている。彼は妻子とともに釜に入れられたという。熱くないうちは、自分が釜の底に身を置いて、家族を守ろうとしていた。ところが、熱くなってきたら、がまんできなくなってきて、家族を下に敷いてしまったと言われている。イギリスの文学者で、C.S.ルイスがいる。彼の小説は日本でも数多く翻訳され、映画化もされている。彼はこう言っている。「自分が最も明敏であったとき、私は自分がよい人間だと考えなかったばかりではなく、自分が非常に汚れた人間だということも知っていた。私は自分がしてきたことのいくつかを恐れと嫌悪感とを持って見ることができる」。彼は非常にすぐれたキリスト者で、善と悪をテーマに小説を書いてきた方である。彼は、自分の心を正直にみつめていた。私たちは人が見ているからとか、様々な社会的条件によって制約されて、人目につく悪に走らないでいるだけなのかもしれない。私たちは自分を正直に見つめれば、自分は罪人にすぎないと、わかるのではないだろうか。昨年BSの番組を見ていたら、ある有名大学で、学生たちを使って、うそに関する実験を行っていたのが放映されていた。学生たちにある計算をさせ、制限時間内に計算ができたら自己申告で意志表示をしてもらう。計算ができたらその時点でポイントをもらえ、それがおこづかい稼ぎになるという実験。制限時間をオーバーしたらだめである。計算問題は幾つか出される。学生たちはまだ計算ができていないのに、おこづかい欲しさに、できたという意思表示を次々にし出した。それがバレていることには気づいてない。こうして優秀な学生の大半がうそをついたことが実験で判明した。

マタイ9章13節の後半を見ていただきたい。そこに、キリストのことばが記されている。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」。これは、「わたしは自分が罪人であることを素直に認める人を招くために来たのです」ということである。私たちは自分の内側を覗き込んでみれば、制御不可能な自分が潜んでいることに気づく。

この物語では悪霊について言われているが、ヤコブの手紙3章14,15節にはこうある(P449)。「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです」。「苦いねたみと敵対心」すなわち、苦々しい思い、ねたみ、憎しみ、こうした思いは他人事ではないだろう。聖書は私たちに罪責感に目覚めさせたい。私たちは、他の人ばかりでなく自分も罪に捕らわれていることを素直に認めたい。セルフイメージの最初は自分が罪人であることを認めるということである。でも、それではセルフイメージが悪すぎではないかと思われるかもしれない。

そこで、次に、私たちは、神に愛されている自分であることを認めたい。愛を信じられないときに人のセルフイメージはゆがんでしまう。結果、自分は嫌われている、嫌われるかもしれないという不安にとりつかれ生きることになる。人によっては、それは引きこもりとなったり、攻撃的な反応になったりする。不安を埋めるためにギャンブルとまでいかなくても、口にするものや何かで不安と不確かさを埋めようとする。無意識のうちに病気に逃げ込むこともある。人によっては自傷行為に出る。今日の箇所の狂人は、マルコの福音書のほうでは、「石で自分のからだを傷つけていた」と描写されている(5章5節)。まさしく自傷行為である。自己嫌悪の姿である。

私は個人的に、劣等感と自己嫌悪は区別すべきであると考える。よく「劣等感からの解放」といった表現を聞くが、安直に感じている。劣等感には二種類あって、自分の努力で克服できるものと、克服できないものがあると思う。自分の努力で克服できるものは例えば、数学が苦手だ、英語が苦手だというようなこと。これらは自分の努力である程度何とか克服できる。劣等感も成長のために役に立つ。しかし克服できないものもある。克服できないものは、生まれつき鼻が低いとか、身体に関すること等がある。これは努力では何ともならない。私は今でも痩せすぎの劣等感、胃弱の劣等感がある。劣等感はどんな人にでもあるものだと思うし、それを不自然とは思わない。あって当たり前。しかし、ねたみとか自己嫌悪の縛りの中にあるというのは問題である。自己嫌悪の問題を解決してくれるのが神の愛である。

神の愛について見ていく前に、もう少し、物語を進もう。キリストは悪霊に対して権威があるお方である。悪霊どもはやがて裁かれる日が定められている。それだから29節のわめきがある。悪霊どもは地獄に投げ込まれるのを恐れ、豚に入る許可を願う(31節)。しかし、なぜ豚に入ることを願うのかと思ってしまう。マルコの福音書には豚の頭数まで記されていて、「二千匹ほどの豚の群れ」(5章13節)と描写されている。豚の大群はこのあと、32節を見ると、湖へかけ降りて行って溺れ死ぬわけだが、

豚の大群が死んでしまえば、キリストに対して非難の矛先が向けられるのは必定。豚飼いと、その地方の住民たちは、キリストに対して非難の気持ちを向けるだろう。あの人のせいで、私たちは多大な損害を招いたと。このように、キリストの評判を落とすことがねらいだったかもしれない。

この物語で、私たちが心に留めなければならない最大のポイントは、このふたりの人への見方が、キリストと住民とでは全く違っているという点である。住民にとって、彼らは、有害で消えてもらいたいような存在でしかない。彼らよりも豚のほうが大切。経済優先である。けれどもキリストにとってそうではない。この物語の前の記事を見ると、キリストと弟子たちは湖で大暴風雨に遭遇し、波をかぶって、死と隣り合わせの海難を経験した(23~27節)。そこまでの危険を犯してガダラ人の地に来る理由はあったのか。9章1節を見ると、キリストは、彼らを救った後、舟に乗ってとんぼ返りしたことがわかる。結果論になるかもしれないが、まさしく、彼らを救うためだけに危険な船旅をしたという印象である。二人は有害で消えてなくなってもいいような存在。彼らのために時間と犠牲を払うのは無駄。しかし、それは人の見方であって、キリストにとってはそうではない。現代でも、あの人は有害な人だからいなくなってもいいと思われている人たちはたくさんいる。またセルフイメージの低さのゆえに、自分という存在が消えてなくなってもだれも困らないだろう、と思っている人もたくさんいる。かつての自分もそうだった。福島の実家で過ごした青年時代のこと、体は弱いし、特に何かができるわけでもないし、自分は役立たずで、生きている意味も資格もない、自分ひとりぐらいこの地球から消えたって何の問題もない、と思い悩んでいた。そんな時、この聖書のことばに出会った。「わたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43章4節)。このことばで、私は、自分がこのままで、あるがままで神に愛されていることを確信した。何もできないようであっても、背伸びして自分を大きく見せようとしなくても、人にどう思われようが関係なく、自分は神に愛され、受け入れられていると確信できた。これが私の人生のひとつの転機となった。

神の愛はキリストの十字架を通して表わされた。先ほど、私たちは罪人であり、罪に捕らわれている、ということを見た。しかし、キリストはそのような私たちを愛しておられ、十字架の上で、清い、尊いいのちをお捧げくださった。十字架の上で釘づけとなってくださった。それは私たちの罪の身代わりとなり、罪の刑罰を受けるためである私たちの免罪のための十字架である。この犠牲ゆえに、私たちがキリストを罪からの救い主として信じるときに、私たちの罪がすべて赦され、永遠のいのちを受けることができる。キリストが人となられ、この地上に来られた最大の目的は、十字架について救いのみわざを成し遂げるためである。ここに罪からの救いのみわざと神の愛が表わされている。

あるところに一人の少年がいた。その少年はおばさんに育てられていたが、その少年には物を盗むというくせがあった。おばあさんはこの少年の罪を悲しんでいた。ある日、おばあさんが、この少年を呼んで言った。「いいかい。よくお聞き。今度盗みをしたら、おまえの手のひらに焼け火箸で穴を開けるよ」。少年はびっくりして、しばらくの間は我慢していたが、とうとう自分の心に負けて、また盗みをしてしまった。おばあさんは心が裂かれるほど悲しんだ。そして少年をつかまえると、「さあ、罪がどんなに恐ろしいものか、おまえに教えてあげよう」と言って、少年の腕をぐいっとつかみ、焼け火箸を少年の目の前に差し出した。少年は恐ろしさの余り、青くなって、震えた。そして目をつぶって叫んだ。「おばあちゃーん、ごめんなさーい」。その時、ジューッと肉の焼ける音がした。少年は力いっぱい手を引いて、自分の手のひらを見た。でも何でもない。同じ時、おばあさんが床にドサッと倒れた。見ると、おばあさんの手のひらには焼け火箸が刺さっていた。おばあさんは弱々しい声で言った。「おばあちゃんの手のひらを見てごらん。これほど、おまえを愛しているんだよ」。これは実話である。また、キリストが私たちの罪のために十字架上で釘づけにされたことも実話である。「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」(第二コリント5章14節)。このキリストの愛が私たちを生かし、健全なセルフイメージを回復させてくれる。

過日、私は同じような夢を立て続けに見たことがある。学生の自分になっていて、クラス全体で何かに取り組もうとしていた夢である。しかし、自分は能力不足で、自分の役割は何もなく、自分の居場所がない、自分は必要とされていないという夢であった。ひとり孤独に外に出て行くしかなかった。その夢の終わりに、愛がなければ人は生きていけない、とつぶやいている自分がいた。

神聖ローマ帝国時代、55人の赤ちゃんを使って実験をした皇帝がいた。愛情の実験である。赤ちゃんと目を合わせてはいけない、話しかけてもいけない、ほほえみかけてもいけないという残酷なルールを科した。赤ちゃんたちは言葉を話す前に全員死んだという。ハーバード大学では268名の男子学生を対象に75年間にわたる調査を行った。90歳になった被験者たちに、人生の長期にわたる幸福と満足感のために何が必要かと尋ねたら、一番多かった答えは「愛」という答えだった。

私たちは人の評価でセルフイメージを固めてはいけない。以前、テレビで、日本も武器輸出が可能となったいきさつを解説していた。経団連から経済成長のためにやったほうがいいという要望があったとの事。この話の前に、世界で戦争がなくならない理由は、戦争で企業も政府ももうかるからだという実体を伝えていた。日本もその流れに乗ったということであった。この解説を聞いていた一人の女性ゲストのことばが心に留まった。経済成長は大切なことだけれども、その結果、戦争でどこかの誰かが死んでしまうと思えば、複雑な気持ちになるという内容のコメントだった。一人の命よりも経済成長が現実としてある。5年前の福島原発の放射能流出は世界を震撼させた。実際、原爆が落ちたのと同じである。けれども、コスト等を理由に原子力エネルギーに頼る体質は変わらない。人命の安全確保は二の次とされている。使用済み核燃料の保管に10万年も要するが、そのコスト等は考慮に入れられない。やはり目先の経済成長が優先である。人の命より経済である。ガダラの住民だけではなく、今の世界の価値観もそう変わりはない。人よりも豚、人よりも経済。あなたの価値は経済効果を生み出してくれる豚ほどもない、である。この現実は変わっていない。だから、私たちは、「わたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という神の声を繰り返し聞いていきたい。神は私たち人間を造られた創造主であり、私たちを高価で尊いと見ていてくださる。神の愛はキリストの十字架で証された。十字架を仰ぎ、キリストの愛を信じて生きて行きたい。

最後に、住民たちがキリストにどう反応したかについて触れて終わろう(34節)。「町中の者がイエスに会いに出て来た」。湖の向こうの岸の町々では、同じように、町中の人がキリストに会いに出て来た。人々はキリストに敬意を抱き、キリストの講話に耳を傾け、キリストに触れようとした。舟で渡って来たこのガダラ人の地でも、町中の者が会いに出て来た。しかし、その理由は、「どうかこの地方から立ち去ってください」と願うためであった。全く対照的である。そして、これは不幸な姿である。湖の向こう岸の町々では、多くの人がキリストによって全人格的な祝福を得ていた。ここ、ガダラ人の地の住民はそれを拒んだ。彼らは、反抗心をむき出しにして、石をもって集まってきたわけではない。キリストをあからさまに非難したりはしない。ただ、迷惑だから去ってほしいという態度。彼らは霊的なことにさほど関心はない。今の生活だけが大事。今の生活に干渉しないでほしいという態度。彼らは、自分たちのこれまでの生活をこわされたくないし、これまで通りでいいと、変化を嫌った。ガダラ人の地は、実は神々を信奉する地である。神々に生活の守りと安全を願い、平穏無事に食べるために生きることを願うという生活。それ以上を望まない。食べるために生きるのか、生きるために食べるのか、深く考えることもない。真理や救いに対して関心はない。あとはただ死を待つのみの人生である。多くの方が、人は何のために生きるのかとか、何のために生まれたのかとか、そういう問いと真剣に向き合うことはしない。人間は私たちを造られた神を求めるようにできている。その求める思いを日々の忙しさによってかき消してしまわないで、神を求めていきたい。神と出会わなければ、自分とは誰なのか、何なのか、罪から救われる方法は?自分の価値は?という答えは見つからないのである。キリストはまことの人となられたまことの神として、その答えを下さるために来られた。私たちはキリストを通して神の愛を受入れ、キリストを罪からの救い主と信じ神に立ち返った時、本当の自分を見出し、新しい生き方へと踏み出すことができる。