嵐の中でも心は動じないという姿勢を私たちは持ちたいと願う。聖書では嵐を困難の比喩として捉えているようである。今日の物語から、私たちは困難に対処する秘訣ということを学ぶことができるだろう。

今日の物語はキリストが嵐を静めるという物語である。キリストはこれまで、群衆に語り、群衆に仕えと、群衆とともに過ごしてきた。しかし、群衆から一旦身を引くことを決断され、舟に乗って、湖の向こう岸に行こうとされる(18節)。この時、キリストの心にあるのは、自分について来る者たちに対する訓練である。人生の訓練、弟子訓練である。私は教会に行くようになる前から、人間は死ぬまで訓練と思っていたが、皆さんも同じように感じておられたことだろう。障害物競争のような日々。しかし、一人でその戦いを戦う必要はない。

23節で「イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った」とあるように、キリストが主導権を握っている。キリストがリーダーとして、行く時間帯、行く場所、そこに行く方法を決められ、弟子たちはそれに従うという構図である。キリストに従えば万事が順調かと思いきやそうではなかった。嵐が待っていた。皆さんには、これから弟子たちともに不安な世界に入っていただきたい。けれども、自分たちの勝手な行動や勇み足で困難に直面するのと、キリストに従って困難に直面するのとでは意味が違う。

船出したのは真っ暗になってからであると考えられる。なぜなら16節の時点で「夕方になると」と言われているから。彼らは夜の休みたい時間帯に、暗闇の嵐を体験させられることになる。暗闇プラス嵐。キリストは舟に乗ってどうしていたかといえば、「眠っておられた」(24節)。一日中、群衆に向かって説教し、押し寄せて来る人々に仕えと、くたくたに疲れておられただろう。キリストは20節で「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」と言われ、安定性のない生活について語っておられるが、今日の場面で、もうそれが実現している。キリストの夜のねぐらはどこか。揺さぶられる小舟の中、まさしく「枕するところもありません」である。

舟が浮かんでいたのはガリラヤ湖である。ガリラヤ湖は突然、突風が吹く湖で知られていた。この湖は海面下211メートル。北にはヨルダン川の河口があり、その先はヘルモン山がある。「嵐」という漢字は、山から風が吹き下ろすという意味であるが、冷たい風がヘルモン山からヨルダン峡谷を通って、まっすぐに吹き下ろし、ガリラヤ湖面の暖かい空気と接したときに、強い風が起こる。その風は、東岸の標高300メートルの丘陵にぶつかり、風はうずまき、湖面は逆巻き、荒れ狂うという現象が起きる。24節の「大暴風雨」の直訳は欄外注を見ると「振動」とあるが、元の意味は「揺れること」。それはちょうど、大男が大水の入ったコップを揺すっていることにたとえられる。ガリラヤ湖はそのようになった。その上に浮かんでいる舟は、おそらく漁師が使う小舟である。弟子たちの主要メンバーが漁師だったから。小舟は激しい揺れにひとたまりもない。当然、大波をかぶり危険な状態になる。

このような状況にあって普通であればパニックになる。「ところが、イエスは眠っておられた」。群衆相手に忙しい毎日、休む暇もない毎日を過ごしておられた。疲れていないはずはない。この姿は、キリストの人としての人間性を表わすのに良く取り上げられる。けれどもキリストが眠っておられたということについては、もう一歩踏み込んだ説明が必要であろう。というのは、弟子たちも同じように疲れていたはずである。実は旧約聖書からわかることは、苦難の中で寝ていることは、神への信頼のしるしなのである。「私は身を横たえて、眠る。私は目をさます。主が支えてくださるから」(詩編3編5節)。「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに眠らせてくださいます」(詩編4編8節)。これはちょうど、親に信頼し切って眠る子どものようである。不眠症で寝ることができないケースは除外しなければならないと思うが、このように眠るといのは疲れだけが関係しているのではない。この場合、寝ている、寝ていないという見た目の姿以上に、安眠できる心の状態に注意を向けなければならない。嵐の中での信頼、そこから来る平安、落ち着き、それがキリストにはあり、弟子たちにはなかった。

弟子たちの姿に注目してみたい。キリストには湖で大暴風雨が発生することはわかっていた。わかっていた上で船出された。弟子たちを訓練するためにである。湖の横断距離は約10キロといったところだろうか。途中、どうすることもできない事が起きた。弟子たちの中には漁師たちが4名はいたと思うので、舟の操縦は慣れていたはずである。しかし状況は彼らの能力を超えていた。彼らの能力範囲ならば、信仰というものは鍛えられない。人は自分の限界にぶつかり、そこで神という存在がリアリティを帯びて来る。他人事のようだが、これは彼らにとって良い訓練だった。困難から逃避できない状況に置かれている。四方を荒れ狂う水で囲まれていて、逃げ道がない。走って逃げることができるわけでもない。彼らは泳ぎは得意だったが、泳げる状況にはない。それに現代のように通信手段を使ってヘリコプター救助を待つということもできない。知恵を尽くしてもアウト。キリストに向かうしかない。

今見たように、弟子たちは、もはや自分たちの手ではどうしようもないところまで来ていた。舟が沈むというイメージ、自分たちは溺れ死ぬというイメージで心は占領されていた。そしてキリストに向かった(25節)。キリストは弟子たちの訴えに対して、以外にきついことばを返されている。「なぜ、こわがるのか。信仰の薄い者たちだ」(26節前半)。真夜中、舟は大波をかぶり、沈む危険にある。恐れて当たり前で、これが普通の反応であると思える。しかしキリストは彼らの反応を是認しなかった。それは漁師たちのくせに情けないということではなかった。問題にされているのは、舟を操る彼らの技量、技術でも、根性でもない。信仰の薄さということである。舟が沈むというイメージ、溺れるというイメージは持つべきではなかった。そういうイメージを心の中で実体化させてはならない。キリストを信頼し、舟は無事に向こう岸につくというイメージを心の中で実体として持つということが必要。

キリストは、「お前たちの判断ミスで、こんな危険な航海になったのだぞ。お前たちのせいだ」とは責めておられない。船長として船出の判断を下したのはキリストご自身であったから。キリストは弟子たちを溺れ死なせるために「わたしについて来なさい」と言われたのでないだろう。だが、弟子たちは主権をもって導いたキリストを心の中で非難している。先ず、船出を命じなければ良かったのにという気持ちがどこかにあったはずである。だがキリストは弟子たちを溺れ死なせるわけはない。でも弟子たちに、そのような信頼の心はない。先ほど見たように、この時キリストは平安の境地にいた。弟子たちを無事に向こう岸にたどり着かせるということも心にある。どこかの国の船の難破事件、沈没事件のように、船長が乗客を見捨てて、救命ボートで逃げ出すというようなことはない。しかし、キリストの存在の偉大さをまだ見抜けないでいる弟子たちは、この姿にイラついた。並行箇所のマルコ4章38節では「先生、私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」という非難のことばが記されている。

船出を命じ、この舟に乗っておられたのはだれか。弟子たちの前で数々の驚くべきみわざを行われた主なる神。宇宙、自然界を創造されたまことの神、神の救い主。彼らはイエスさまを尊敬しつつも、有限で小さい存在とみなしてしまっている。神ご自身であられるのに。それで、あわてふためく反応に弟子たちは出ていた。嵐が起こったとき、彼らの心も嵐になってしまった。平安はない。そこに問題があった。

嵐の時に、何とかしようという動作に出ること自体は当然のことである。キリストは、「あなたがたも全員、眠っていれば良かったのだ」などとは言っておられない。嵐でなくてもナビゲーターは必要である。寝ないで操船する担当者は必要である。そして嵐が起きたのなら、他の者たちのことも起こして手伝ってもらうことは自然な反応である。けれども、「大丈夫だ、向こう岸に行ける」という確信はない。イエスさまが船出を命じ、イエスさまが乗船している意味をしっかりと心に留めておくことがなかった。また彼らにはイエスさまの偉大さが余りわからないでいた。彼らの心は大波に揺れる小舟のように、いっしょになって木の葉のように揺れていた。「おぼれることはない」という平安と確信をもつことができないでいた。「おぼれて死んでしまう」という恐怖で心が占められていた。それでも、「主よ。助けてください」と言えたのだから、まだいい。けれども、信仰が薄かったことは否めない。

「それから起き上がって、風と波とをしかりつけられると、大なぎになった」(26節後半)。これはキリストのことばで、一瞬にして風が止んだことを物語っている。著者のマタイは、徐々に風が弱まったという描写はしていない。突然、嵐の動きが止まった。「大なぎになった」は、「完全に静まった」と訳せる。ガリラヤ湖で漁をしてきた弟子たちも、これは初めての経験であったろう。だから、「人々は驚いて言った。『風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう』」(27節)。弟子たちは、キリストの自然界に対する権威に驚愕したのである。実は、旧約聖書において、海を従わせるというのは、神の主権のしるしとされている。「万軍の神、主。だれが、あなたのように力がありましょう。主よ。あなたの真実はあなたを取り囲んでいます。あなたは海の高まりを治めておられます。その波がさかまくとき、あなたはそれを静められます」(詩編89篇8,9節)(参照;詩編65篇7節、詩編107篇23~30節)。よって、イエスさまのここでのみわざは、イエスさまが神のキリストであるということを表わしている。イエスさまは8章に入り、病のいやしと悪霊追放のみわざを行われている。人間、悪霊といった被造物に対する権威を示され、ここでは自然界に対する権威を表わされた。このようにしてキリストは、ご自身が神であることを証されている。

そして、キリストが神であることが証されることになった最大のものは、復活である。キリストは公生涯の終わりに十字架につけられるが、三日目によみがえった。そして今も生きておられ、信じる者とともに歩んで下さる神の救い主である。人間の最大の敵と目される死もキリストの前に降伏した。私たちは何を最大の現実とするのだろうか。弟子たちは嵐という現実を恐れた。けれども嵐を静められる、嵐より偉大な生ける神のキリストという現実を見失っていた。キリストは今も生きておられる。そして私たちの生活の現実となってくださる。私たちは、形あるもの、目に見えるものだけを現実とし、嵐を静め、死よりよみがえってくださったキリストを現実とすることを忘れてしまう。そして目に見える世界にだけ絡みとられ、困難という嵐に翻弄されてしまう。不安、恐れ、絶望に陥る。だが本来なら、キリストにありて嵐の中で不動の心を持つことができる。

神は今日の記録を、スリル満点の物語程度で読み過ごすことを願ってはおられない。皆さんにとって、このキリストが生活の現実とならなければならない。キリストは今も生きておられるよみがえりの主である。生けるキリストを体験して生きていく世界に私たちは招かれている。弟子たちと同じように。どうかキリストを過去の偉人にしないでいただきたい。キリストは私たちひとりひとりの救い主となり、私たちを導き、平安を与え、ご自身の力を体験させてくださる。キリストは全能の神である。私たちに対して、ただ永遠のいのちをくださるだけではない。日々の生活の現実となってくださるお方である。キリストを自分の心と人生に招き入れていただきたい。そしてキリストとともに生きる冒険を楽しんでいただきたい。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです」(ヘブル13章8節)。

すでに信仰をもっておられる方は、キリストは私たち対して弟子たちと同じような失敗をいつまでも繰り返すことを願ってはおられないことを覚えよう。モーセの後に次いでエジプトを出て荒野を旅したイスラエルの民のように、余りに困難が多いと言って不平を言ってはならない。そしてただパニックに陥って、「主よ、助けてください。何とも思われないのですか」と叫ぶだけならば、「信仰の薄い者」にすぎない。それを繰り返すだけであってはいけない。キリストの導きを信じる摂理信仰、キリストがともにおられることを信じる臨在信仰、嵐の日でもゆだねきって信頼している全き信仰へと進もう。私たちは信仰を働かせることにおいて失敗することがしばしある。だが、その失敗から学習し、次にはよりよい信仰を発揮し、前進しよう。キリストを目に見える世界以上の現実とし、キリストの弟子として歩んで行こう。キリストは現実の中の現実。このお方をしっかりと見つめ、このお方に従い、信頼し切ることを学び、成長していこう。