今日のテーマは、みことばを信じる信仰である。神さまからいただくみことばを、そうなると、心の中で実体としてもつことが大切である。それが信仰というものである。私たちは、これからご一緒に見る百人隊長と同じ信仰を発揮するよう招かれている。舞台はガリラヤ地方にあるカペナウム(5節)。カペナウムは大きくはない町といってもガリラヤの中では小さくはなく、守備隊駐屯都市としての機能を果たしていたと思われる。ここはヘロデ・アンティパスの領地であるが、彼は兵隊をガリラヤ地方以外から、おそらくはレバノンやシリヤ辺りからリクルートしたのだろうと思われる。つまり兵隊は異邦人ということになる。「百人隊長」というのは歩兵百人を統率する指揮官を意味する。彼の権威は最終的にローマ皇帝から来ていた。百人隊長は当時の絶対者であったローマ皇帝の権威をまとっていたということになる。

百人隊長のしもべが「中風」であると言われている(6節)。「中風」と訳されていることばは、身体障害者に広く用いられることばで、これを「全身麻痺」と訳す聖書もある。このしもべはただ体が動かなかっただけではなく、ひどく苦しんでいた。並行箇所のルカ7章を見ると、死にかかっていたことがわかる。「しもべ」と訳されていることばは、欄外注の直訳を見ると「子(若者)」となっている。「しもべ」という訳は、通常、原語で<ドゥーロス>であるが、ここは<パイス>ということばが使われている。意味は「少年」である。おそらくは、百人隊長の奴隷の家で生まれた子どもか誰かであっただろう。百人隊長はこの子をかわいがっていたようである。

この百人隊長が異邦人であるというポイントはみのがしてはならない。異邦人はユダヤ人にとって汚れた民族とされていた。前回の記事は重い皮膚病にかかった男のいやしであった(1~4節)。彼は汚れた者として疎外されていた。そして異邦人もまた、ユダヤ社会では疎外されていた身であった。マタイは意識して、社会的に疎外されていた人々がキリストの祝福に与った記事を並べている。この百人隊長は、異邦人でありながら、聖書の神を敬う信仰があったようである。神が唯一であるならば、ユダヤ人にとっても異邦人にとっても、信じるべき神はただおひとりである。ルカ7章を見ると、この百人隊長は、礼拝所、すなわち会堂の建設において援助してくれたことがわかる。会堂建設の寄進をしてくれた、そういうところだろう。彼も神を敬う人物のひとりであった。

さて、この百人隊長は、どうやってキリストに助けを求めたのだろうか。その詳細は(開かないが)ルカ7章に記されている。そこを見れば、キリストと百人隊長の間で取次ぎをする存在として長老や友人のたちの動きが記されている。マタイの福音書には、こうした取次ぎの詳細にはふれていない。というのは、マタイの福音書のねらいは、やりとりの詳細を伝えることにあるのではない。マタイが伝えたいことは、ズバリ百人隊長の信仰である。それは、キリストも驚くほどの信仰である。どういう人たちが仲介に立ったかではなく、彼の信仰。では、マタイの福音書の文脈で見ていこう。

百人隊長の懇願に対して、キリストは気安く返事をした。「行って、直してあげよう」(7節)。行って直すということは、異邦人の家に入ることを意味する。ユダヤ教の意味する宗教的、儀式的汚れにおいては、異邦人も、異邦人の家も汚れの部類に入る。そしてその汚れは、接触によって移るとみなされていた。よって、ユダヤ人は異邦人と交際したり、異邦人の家に入ることを敬遠していた。「行って、直してあげよう」、このことばで差別はすでに撤廃されている。前回、キリストがツァラアトに冒された汚れた病人にふれられたことを見た(3節)。このキリストにとって、異邦人の家に行くことは何でもないことであった。「お願いします」「いいよ」。実に気安い態度である。キリストは相手が誰であろうと関係ない。相手が異邦人であるとか、軍人であるとか、下役のしもべであるとか、立場がどうとか、いっさい関係がない。キリストはやすやすと差別の壁を乗り越えようとされている。キリストは救いを求めている人がいれば、「よし、わかった」と何の躊躇もなく応じてくださるお方。だから安心してキリストに求めていい。聖書には、「主の御名を呼び求める者はだれでも救われる」(ローマ10章13節)ということばもある。「だれでも」である。

ここで、初めてこの物語を読む読者にとっては、予想外なことが起きる。百人隊長はいやしのために向かっておられるキリストにストップをかけたことが8節に記されている。キリストに「来られなくてもいいです」とストップをかけた理由は幾つか考えられるだろう。まちがいなくそれは、死にかかっているのでいやしをあきらめた、ということではない。また、キリストを信頼できなくなったというのでもない。理由は二つ考えられる。

第一番目に、キリストを家にお入れする資格はないと判断した。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」(8節前半)。彼は、確かに、自分が汚れた異邦人であるという自覚がある。異邦人である私の家にイエスさまをお迎えすることは礼儀に反すると。けれども、それだけではないだろう。彼はユダヤ教の考え方から来る、社会通念上の汚れを意識しているだけではないだろう。主キリストという偉大な人格を意識していた。彼が使った「資格は、私にはありません」の「資格」<ヒカノス>は、「価値、値打ち」ということばである。だから「資格はありません」は「値打ちはありません」と訳せる。かつてバプテスマのヨハネは、キリストについてこう語った。「私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません」(3章11節)。「値打ちもありません」の「値打ち」もやはり<ヒカノス>。バプテスマのヨハネはユダヤ人であって異邦人ではない。しかも、キリストに、女から生まれた者でヨハネ以上に偉大な者はいないと言われた人物。その彼であっても、「私はその方のはきものを脱がせてあげる値打ちもありません」、すなわち、キリストに仕える奴隷の値打ちもありません、と告白せざるをえなかった。どれだけキリストは偉大であるかということである。キリストは三位一体の第二位格、神の御子である。

第二番目に、キリストのことばの権威を信じた。「ただ、おことばをください。そうすれば、私のしもべは直ります」(8節後半)。百人隊長は、「手を置いていただかなくても、距離が離れていても大丈夫。ただ、おことばをいただければ」と、キリストのことばの権威に絶対的な信頼を寄せた。彼は、その理由を9節で語っている。「と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに、『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに、『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします」。百人隊長の権威はローマ皇帝に属し、ローマ皇帝の権威を代表するものであった。百人隊長は皇帝の権威の下にあった。百人隊長は皇帝の権威の下で命令を下し、歩兵はそれに従った。もし歩兵が百人隊長の命令に逆らえば、それは皇帝に逆らうことであった。百人隊長は自己理解をキリストに適用した。イエスさまの権威は神から来ている。イエスさまのことばには神の権威がある。イエスさまがことばを発せられれば、それは成る。イエスさまの権威は神の権威。イエスさまのことばは神のことば。それは必ず実現する。

聖書を読めば、世界は神のことばによって創造されたことがわかる。「神は仰せられた。『光があれ』すると光があった」(創世記1章3節)。こうして、神のことばによる創造物語が続く。ヘブル人のことば観は、ことばは実体をもち、ことばは真実で、それが発せられれば、それは必ず現実となるというもの。神のことばが発せられれば、それはそのとおりに成就する。そこに疑いを差し挟む余地は全くない。信じられないことばとは、有限で、かつ罪深い人間のことばだけである。人間界においては、ことばで裏切られることは数知れない。人間のことばは実体をもつのではなくて空虚で、しかも不真実で、そのとおりにならないことが多い。こうした体験から、私たちはことばそのものを信じられなくなっている。人のことばは信じられないという感覚を抱き、愚かにも神のことばさえ疑う。だが神のことばは信じるものである。それは実体を持ち、現実となる。

参考として、聖書の他の箇所を開こう。→イザヤ55章10~11「・・・わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる」。

マタイの福音書からはキリストのことばの権威について二箇所開こう。→24章35節「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」。→28章18節「わたしは天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」。キリストのことばの権威、みことばの権威を信じよう。

→ヘブル11章1節「信仰は望んでいる事がらを「保証し」(欄外注別訳:「実体であり」)、目に見えないものを確信させるものです」。信仰とは、神の約束にかなう事がらを心の中で実体としてもつ、ということである。これをわかりやすく例を使ってお話しよう。今朝、皆様は朝食に何を食べられただろうか。具体的に、一つ一つ思い出してみよう(ごはん、みそ汁、焼き魚、梅干し…)。心の中に朝食のメニューを実体としてもつことができただろうか。これは過去のことであるのでイメージできた。これを未来に転換してみよう。夕食のメニューは未来となる。まだ食べていないけれども、今晩食べたいと望む夕食のメニューを、今、心の中で具体的にイメージしてみてください。しかも今晩必ず食べるという意気込みで。イメージしたものは数時間後に現実に食べることになる。信仰はこれと似ている。神の約束を実体的なリアリティとして心の中でイメージする。神の約束はみことばによって与えられる。それは権威あるみことばで信頼できる。それを心の中で実体化させる。そうなるのだと。これが信仰である。

信仰とは、しっかりした聖書信仰を土台とした上で、みことばに信頼することである。8節の「ただ、おことばをください」は、「ただ、みことばをください」と訳せる。私も思えば、みことばによって支えられてきた。救われて間もなくして、虚弱体質に悩み、床に伏せっていた時、「わたしの恵みはあなたに十分です。わたしの力は弱さのうちに完全に現れます」のみことばをいただき、自分の弱さを受容できた。献身して神学校に行く時も、みことばが与えられ、確信をいただいた。神学校入学前、肺炎になりかかり、絶望しかけていた時、みことばをいただきいやされた。在学中、夏のキャンプの奉仕前に衰弱していた時、「主を待ち望む者は新しく力を得る」のみことばをいただき、そのとおりに力をいただいた。これまで、会堂建設を三回手がけたが、人間的にはどれも資金がなく不可能であったが、不思議と、その時々にふさわしいみことばが与えられ、不可能は可能となった。体の弱さや実家の問題で牧会をこれ以上続けられるのかと思い悩んだ時もあったが、みことばから来る召命は変わらないので、それが支えとなった。関東で牧会した後、秋田に移る時もみことばが与えられ、秋田が自分の仕える地であると確信できた。湯沢市から横手市に移る時も、もちろん、みことばをいただいた。みことばを固く握りしめていれば、霧が深く先が見えなくても、波に揺られても、前に進める。私は、人にもお金にも環境にも頼らず、ただみことばだけに頼るというスタンスは守りたいと思う。みことばを心の中で実体化し、その実現を待ち望もう。

10節に目を落とそう。イエスさまは百人隊長の信仰に驚かれている。実に、めずらしい場面である。これまで、このような信仰は見たことがないと驚かれたのだが、もう少し考えたい。病人との距離があったにもかかわらずいやしを信じたので驚かれたというよりも、ご自身の権威を見抜き、おことばだけで十分という信仰を発揮した事実、ここまで完璧に信じた人はこれまでいなかったという事実に驚かれたのだと思う。百人隊長は異邦人で聖書に精通しているわけでもない。日々、神の教えに親しんでいたはずのユダヤ人でさえ、ここまで信仰を発揮した者は誰もいなかった。弟子たちでさえ、キリストに対してここまでの信頼を寄せることができたとは思えない。弟子はこの後、何度も信仰の薄さを責められるはめになる。

11~12節は、異邦人の百人隊長がすばらしい信仰を発揮したのに対し、肝心のユダヤ人たちはそうでないので、ユダヤ人たちを責めている。「御国の子ら」(12節)とはユダヤ人たちのことで、彼らは本来、御国の民とされる選民のはずなのに、御国に入ることができず、祝福を失うということ。「歯ぎしりする」というのは、苦悩、苦痛の表現である。マウスピースをすればいいんじゃない、という問題ではない。彼らはキリストに対する態度が全くだめなので、こうなってしまう。

13節を読んで終わろう。「あなたの信じたとおりになるように」。何を信じたのか。みことばである。みことばを信じること、これに尽きるのである。みことばは実体をもち、それは必ず現実となる。成就する。みことばの約束を固く握りしめること、その約束を実体的なリアリティとして心にイメージし、待ち望むこと。それを実践したいと思う。みことばは必ず現実のものとなり成就する。