今日は愛の物語をご一緒に味わおう。人は愛なしには生きていけない存在と言われている。神聖ローマ帝国時代、ある皇帝が赤ちゃん55人を使って愛情の実験を行った。赤ちゃんに対して、目を合せることも、言葉をかけることも、微笑むことも禁じた。結果、すべての赤ちゃんがことばを話す前に死んだという。人間にとって一番必要なものは愛である。逆に言うと、人は愛があれば生きていける。今日は、最高の愛をご紹介したい。

これまで、イエスさまが山の上で語られたという山上の説教を学んできた(5~7章)。今日の箇所は、その後の物語である。「イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った」(1節前半)。イエスさまの行くところ、人だかりとなった。そこに、イエスさまのうわさを聞きつけて、一人の男性が近づいて来た。「ツァラアトに冒された人」と言われている。いったいこの人はどういう人なのだろうか。「ツァラアト」は、全身の肉を蝕む重い皮膚病のようである。今お読みした聖書では、聖書の原語のヘブル語の発音そのままの表記で、実は日本語で病名として訳していない。昔は「らい病」と訳していた。ご存じのように、らい病に罹患すると隔離されていた。らい病は正式には「ハンセン病」であるが、「ツァラアト」はハンセン病と同一の病ではない可能性が出てきた。ハンセン病は文献上において紀元前6世紀から登場し、それ以前はない。ツァラアトはそれよりはるか昔のモーセの時代の紀元前1500年頃に言及されている。またハンセン病には特色的な症状として神経マヒがあるが、ツァラアトの症状にその言及はない。だからツァラアトはハンセン病ではない何か特異な病気であろうと推測されているが、それ以上のことはわかってはいない。病名を特定できない。かといって「重い皮膚病」と訳すと、漠然すぎていろいろな皮膚病が含まれてしまう。ツァラアトという表記にはそのような事情がある。ハンセン病のように皮膚に重い症状が出ることだけは確かである。

この病の特徴についていくつか挙げておきたい。①恐怖の病であった。皮膚が変色し腐って行った。しわやシミを気にしているレベルではない。②不治の病であった。治るケースはまれである。だからこの病に冒されると絶望した。③汚れの病の代表格で隔離された。彼らの住居は町や村の外と決められた。その理由は接触すると汚れが移るとされたからである。この汚れは不衛生の汚れというよりも、宗教的汚れという側面が強い。いずれ彼らは汚れた者として社会的には疎外された身であった。一般の人がツァラアトに冒された人に近づく機会も生まれる。このコンタクトを避けるために、この病に冒された人は、「わたしは汚れた者でございます、汚れた者でございます」と叫ぶことが定められていた。④この病に冒された者は神に呪われていると受け取られた。いやおうなしに。以上の特徴を見たときに、この病に冒された者は、どんなにかつらかっただろうということを思わせられる。体を蝕むひどい病だし、治る見込みはほとんどないしつこい病であるし、汚れた者として隔離され、人から嫌われて生きていかなければならないし、神にまで見捨てられた存在とみなされていたし、孤独で希望を失って生きていた人が多いはずである。当時、そして古代日本もそうだが、汚れた存在の最大の代表格は死人。人は死人に近づくこと、ふれることを恐れた。日本でも古代では身内の死体さえ嫌った。ツァラアトに冒された人は、いわば死人に等しい存在で、生きる屍と言ってよい。彼らはセルフイメージは極端に低かっただろう。人からの評価も自己評価も極端に低かったはずである。そして孤独の闇に沈んでいた。生きる希望を断ち切ることも容易であったはず。しかし、イエス・キリストに希望を見出した一人のツァラアトに冒された人がいた。

では、イエスさまに近づいたツァアラトに冒された人の心理的特徴をいくつか挙げよう。①治りたい一心不乱の心境であった。この病に冒された人は町の外で生活しなければならず、町の中に入ってはならなかった。人に近づいてはならなかった。ところが彼は、イエスさまが町の外にいたとしても、「みもとに来て」(2節)と近づいていることがわかる。彼の決死の思いが伝わってくる。彼は非難を浴びながらも、イエスさまのみもとに真っ直ぐ向かったのだろう。イエスさまなら許してくださると。②謙遜であった。彼はイエスさまのみもとに来た後、「ひれ伏して」いる(2節)。欄外注の別訳は「拝んで」とあるが、このことばは礼拝用語でもある。彼はイエス・キリストを神として認めていたのだろうか。その可能性が高いことは、「主よ」と神への呼び名を使って語りかけることからも受け取れる。彼は、自分などイエスさまの前に出る資格ないことは重々承知である。その意味も込めてひれ伏している。③キリストの力と愛に信頼を寄せている。彼が発したことばは、「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます」(2節)。彼は「わたしに手を置いて治してください」と、通常の病人が願うことを願っていない。願いのことばを発すること自体おこがましいと思ったのか。それにまた汚れた者であるので、「わたしに手を置いて」などと願えるはずはない。彼はただイエスさまに信頼し、イエスさまのことばを待つ姿勢を取ったと思う。「お心一つで」という訳にふれておく。原文では「意志する」「望む」ということばが使用されている。原文を直訳すると、「もしあなたが意志を働かせてくだされば」「もしあなたがお望みくだされば」。そうすれば私はきよくしていただけます、ということである。イエスさまには治す力があるという信頼がなければ、またイエスさまは愛のお方だからそうしてくださるという信頼がなければ、このことばを発することはできない。さて、イエス・キリストの意志はどこにあるのだろうか。イエス・キリストは、きよめるという意志を発動してくださるのだろうか。

「わたしの心だきよくなれ」(3節)。これは直訳すると、「わたしの意志だ。きよくなれ」「わたしの望みだ。きよくなれ」ということばである。こうしてキリストは、一言で、この男をきよめ、いやされた。このみわざは、イエス・キリストが神の救い主であることの証明となる。もう少し、キリストのみわざを注意深く観察すると、キリストはことばだけで治すことがおできになったのに、わざわざ、「彼にさわり」と、汚れた者である彼にふれられていることがわかる。ツァラアトに冒された人は差別されていた。ひどく嫌われていた。汚れた者の代表格のような存在で、誰にもふれてもらえない存在だった。それどころか目撃した者は彼らから遠ざかった。まともに声もかけてもらえないし、スキンシップのスの字もない生活を送ってきた。おぞましい存在、汚れの固まりとみなされてきた。そんな人にふれることの意味は重い。普通はツァラアトに冒された者にふれたら、自らも汚れた者とされ、差別されていくわけだが、そういう現実にありながら、あえてふれておられる。この男はキリストにふれられ、愛の電撃ショックが全身に走ったはずである。キリストは人がどう評価しようとも、その人がどれだけ汚れていても、実際、罪深い存在であっても、その人を愛しておられる。私たちを愛しておられる。その愛は最大限に、十字架で表わされた。

第二コリント5章21節には「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」とあり、第一ペテロの手紙2章24節には「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」と、キリストの愛のみわざが証されている。キリストは私たちを罪から救いたい一心で、十字架で犠牲となり、自発的に、私たちの汚れた罪を負われた。キリストは私たちの汚れと一体となられた。キリストは罪なきお方であるにもかかわらず、罪に汚れた者として、裁きを受けられた。それは私たちを愛しているからである、私たちを罪から救いきよめ、そして私たちに新しい人生と永遠のいのちを約束するためにである。ここに愛がある。このキリストの愛を受け入れていただきたいと思う。このキリストの愛によって生きることができるのは幸いである。どんな艱難辛苦にも耐えていける。そればかりか、死は終わりではないという希望をもって生きていくことができる。今は救いの日、恵みの日なのである。だれでもキリストに近づき、信じる者には永遠の救いが約束される。

最後に、すでに信仰をもっておられる方に、一つの実話を紹介して終わりたい。自動車会社フォードの副社長でジョー・カーディックという方がいた。彼はクリスチャンであったが、神さまに死にゆく人に仕えるようにと迫りを受けた。彼には人を助ける賜物があったのである。だが彼は次期社長候補にも名前が挙げられていた存在。彼は葛藤のすえ、フォードを辞職してホスピスで働くことになった。彼はある日、上司から一人の青年のエイズ患者の担当になるように言われた。事前に他のスタッフから、患者にふれないように忠告を受けた。彼は特製の上着を着て、ゴム手袋をはめて、いざ病室に入ろうとしたが、ふと思うところがあって、防護服を脱ぎ捨て、いつもの服装で病室に入った。そして患者の上に身をかがめ、腕を廻して患者を抱きしめた。患者は当然、驚いた。「わたしはジョー・カーディック。あなたを愛しているからここにいます。ある日、イエス・キリストがわたしの心の中に入ってくださり、愛をくださいました。ですから、あなたを愛します」「はん。なるほど。おまえも信心深いやつらの仲間か」「ええ、やつらの仲間です」「でも、おれにさわってくれたね。だれひとりさわろうとしないのに」。彼は同性愛の罪を犯し、相手の男性はすでに感染して死に、その家族からは憎まれて生きていた。もう何の希望も残されていなかった。ただ待つのは死と暗闇のみ。そして彼は死んだ。けれども、ジョーはある人にこう語ったと言う。「彼はしばらくして死にました。でもわたしは、彼をイエスさまのもとに導くことができました。天国に行けば、彼に会えるのです」。ジョーという方は、ふれる愛で裂け目を乗り越え、キリストを伝え、彼を永遠の救いへと導いた。私たちもキリストの心を自分の心として周囲の人に仕えたい。