前回、マタイの福音書に記されている山上の説教の最後の講話を学んだ。岩の上に自分の家を建てた賢い人と砂の上に自分の家を建てた愚かな人のたとえだった。そこでは、揺るがされない人とはどのような人であるかが教えられていた(マタイ7章24~27節)。雨、洪水、風が家に襲いかかる。それは世の終わりにすべての人に襲い来る神のさばきを意味し、また試練も意味しうるということだった。試練の嵐にも終末の裁きにも耐えうるのは、岩の上に自分の家を建てた人、すなわち、神に拠り頼み、神のみことばを実践する人のほうであった。「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからである」(マタイ7章25節)。神ご自身が、そして神のみことばが揺るがされない岩である。この岩の上に人生を築き上げようとする人こそ、幸いな人である。

詩編15編は、「このように行う人は、決してゆるがされない」という結語で終わっている。まさしく、岩の上に自分の家を建てた賢い人である。山上の説教のほうでは砂の上に家を建てた人の結末、「それはひどい倒れ方でした」(マタイ7章27節)で終わっていた。それとは対照的である。次週からマタイの福音書の講解メッセージに戻るが、今日は、山上の説教の解説の集大成として、詩編から学んでみたい。

山上の説教は「心の貧しい者は幸いです」(5章2節)で始まっていたが、実は一つ前の詩編14編6節には、「心貧しい者」について言及されている。「悩む者」がそれである。ここでは「貧しい」ということばが使われていて、だから多くの聖書は、ここを「貧しい人」と訳している。それは何も所有していない一文無しの貧しさを表わすことばで、経済生活ばかりではなく、心の状態も指すことばである。1節では、「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている」とあるが、この愚か者は高慢であるということが分かる。俺様が神だと言わんばかりに。それに対して心貧しい人(悩む者)は、自分の心は貧しくて自分に頼れないとへりくだっている者であり、だからこそ、6節後半で「しかし、主が彼の避け所である」と言われる謙遜さがある。彼は神の恵みに拠り頼む。神に恵んでくださいと寄りすがる。この心貧しい人は、神のことばを無類の宝として尊ぶ。結果、この人は揺るがされない人になる。

では15編を学んでいこう。1節「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか」。これは砕いて表現すると、「だれが神との関係を十分なものとするのでしょうか」。または「神の心にかなう人物の特性は何でしょうか」ということである。それに対する答えが2節以降で述べられている。

では、神の心にかなう人物の特性を見ていこう。2節前半「正しく歩み、義を行い」。「正しく歩む」ことが最初に言われている。「正しく歩み」の「正しく」ということばに注目してみたい。ヘブル語<タミーム>は、聖書の完全用語の一つである(新共同訳は「完全な道を歩き」と訳出)。<タミーム>の根本的概念は、「すべての部分を全部備えた全体としての完全」である。旧約聖書では88回見出され、この語が「正しく」と訳されているのは、実はここを含めて三箇所しかない。実は<タミーム>はイスラエルのいけにえに一番多く用いられており(48回)、すべて「傷のない」と訳出されている(<タミーム>の根本概念を反映している)。では人に対する用法は見てみよう。この語は旧約聖書を代表する人物たちに用いられている。この語は最初にノアに用いられている。「ノアは正しい人であって、その時代にあっても、<全き>人であった」(創世記6章9節)。この語はアブラハムに用いられている。「あなたはわたしの前を歩み<全き>者であれ」(創世記17章1節)。これらの場合の「全き人」、「全き者」をどう理解するかであるが、神に対する態度、神との関係性において理解すべきである。「全き」という態度は、神に対する「誠実」という意味を汲み取ることができる。というのは、この語はイスラエルの民に用いられ、「誠実」と訳されているからである。「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい」(ヨシュア24章14節)。誠実に神に仕えることが私たちに求められている。それは、真心をもって神に仕えること、と言い換えることができよう。実際、この語は「真心」とも訳されている(士師記9章16節)。<タミーム>は形容詞であるが、この語の動詞形はダビデ王に用いられている。「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は<全き者となり>、大きな罪をまぬがれて、きよくなるでしょう」(詩編19編13節)。ダビデはこの地上で罪なき完全に到達できることを言っているわけでないことは明らかである。彼は傲慢の罪を嫌っている。<タミーム>が当てはめられる人物はみなそうである。彼は神を恐れ、心貧しくなることを目指している。ここで言われている「全き者になる」とは、罪なき完全ではなく、神を恐れるところから生じる「道徳的健全さ」という意味を読み込むことができる。

以上の事例より、「正しく歩み」の意味を掴み取ることができる。ノア、アブラハム、ダビデの信仰者としての歩みも模範になっている。もちろん、彼らにも汚点があった。それらは聖書に記録されている。しかし彼らは、神を恐れる心、悔い改める心をもち、神に対して誠実に仕え、真心をもって仕え、傲慢の罪を嫌い、健全な生き方を全うしようとした。

次は「義を行う」ことである。「義を行い」の「義」にもふれておこう。「義」<ツェデク>は、先ほど読んだ創世記6章9節でノアに対して使われていた。「正しい人」の「正しい」ということばがそれである。あとで、じっくりノアの洪水物語を読んでいただきたい。神は地上に悪が増大したとき、洪水によって世界を滅ぼすことに決められたが、ノアとその家族を箱舟に乗せて救おうとされた。<ツェデク>の反意語は「悪」ということになる。ノアは悪を嫌った。神は私たちがノアに倣うように招いておられる。

さて、神の心にかなう人は行いだけではなく、会話もかなっている。「心の中の真実を語る人」。これはどういう意味であろうか。心から真実を語る人であるということで、二枚舌を使うことはない。うそ、へつらいとは無縁である。心から真実を語るのだから、この人は信頼できることを語る人ということになり、人からも信頼されるだろう。「その人は、舌をもってそしらず」(3節a)。この人は中傷、悪口のたぐいを口にしない。沈黙を守る。「そしる」には「歩き回る」という意味もあるらしい。とすると、ゴシップのたぐいをばらまくことが想像されるが、そのようなことはしないということ。世間はゴシップ好きで、ゴシップでお金儲けしている出版業界にはいつもあきれさせられるが、ゴシップを喜ぶ風潮がそもそも間違っている。「友人に悪を行わず、隣人への非難を口にしない」(3節b,c)。「隣人」の直訳は「彼に近い者」で、顔を合せることが日常的になっている人のことであろう。どうしてもあらが見えるし、関係で気まずくなることもあるだろうし、どうしても、その人の非難を口にしたくなってくる。その非難とは、陰口を言う、冷たくあしらう、やり込める等、様々なかたちをとる。しかし、それをしないという口のきれいさがある。非難は現代において、電話でだれかに言うということもあるだろうし、メールに書き込んだり、ネットで書き込むということもあるだろう。キリストが山上の説教で言われた、「さばいてはいけません。さばかれないためです」(マタイ7章1節)を思い起こそう。ヤコブは「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます」(ヤコブ3章9節)と言っているが、そのようなことはないようにしよう。

さて、行い、会話と続いて、価値観についてである。「神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ」(4節前半)。「神に捨てられた人」はギリシャ語七十人訳では、「神の前で悪をなす者」となっている。ここでは、神の前で悪をなす者と神を恐れる者と、あなたはどちらを敬いますかと私たちに問いかけてくる。聖書では神を恐れる者とそうでない者の両者が登場する。あなたはどちらの側につきたいですか、と聖書は問いかける。出エジプト後のイスラエルの民たちの荒野の旅を見ると、モーセに逆らう民たちがしばし登場する。モーセに逆らう者たちは、神を恐れない者たちであった。民たちはいつも、モーセの側につくのか、モーセに反対する者たちの側につくのか、と試された。モーセがリトマス試験紙のようになって、民は二分された。後の時代になると、預言者エリヤが登場する。その頃、イスラエルの国は堕落していて、バアルという不道徳を喜ぶ邪悪な神を拝み、快楽に走っていた。エリヤはある時、人々をカルメル山に集めてこう言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え」(第一列王記18章20節)。その反応は、「しかし、民は一言も彼に答えなかった」とある。民たちはバアルの預言者のところに足を運んでいたからである。不道徳を楽しんでいたからである。未練があって、心はよろめいていた。新約の時代、キリストが出現した時、キリストに従う者とそうでない者とに二分されることになる。初め、キリストは民衆のヒーローだった。キリストが行く所どこでも人だかりとなり、民衆はキリストを王として祭り上げようとした。ところが、キリストは敵国に対して反旗をひるがえす様子もない。国民の暮らしを豊かにしてくれるのかと思ったら、真の関心はそこにもなさそうである。ということがわかると、反対していたユダヤ教の指導者たちに乗せられ、キリストを捨てる決心をし、十字架につけろと叫びだした。最後までキリストにつこうとした者はわずかであった。もし私たちが、誰を敬い、誰につくのか定まらず、よろめいていたり、風見鶏のように、くるくると定まらないで、時代の風に翻弄されているだけなら空しい。

続いては、誓いである。「損になっても、立てた誓いは変えない」(4節後半)。皆さんは、誓い、約束、契約、ということをされたことが多々あるだろう。この時試されるのは、口で約束したり、書面に判を押したり、サインした後、そんなはずじゃなかったのにと、自分に不利益が生じるとか、損失をこうむるという時である。だいたいにして人は自分の利益に執着する。「損になっても」は、「害をこうむっても」と訳せることばである。それでも自分が口から出したことは守るということである。決まったことには従うということである。約束、契約は遵守するということである。こうした誠実さが神の心にかなう人物の特性である。決まり事を遵守して、約束を果たしたのはいいけれども、無理をして体を壊したとか、一文にもならなかったとか、借金を肩代わりして大変だったとかあるかもしれない。けれども長い目で見る時に、損になっても自分の言ったことに責任を最後まで持った人には、朽ちることのない、神からの正当な報いが期待できることがわかる。

最後は、お金である。「金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない」(5節前半)。聖書は同国民から利息を取らないように告げている(レビ25章35~37節)。そこでは、利息を取らないことは神を恐れることであるという並行関係で言われている。また利息を取らないことは、兄弟があなたのもとで生活できるようになるためであると、隣人愛の実践の視点で言われている。お金の使い道が自分の利得のためのことしか頭になかったら空しい。わいろなどというのは、一番悪いお金の使い道である。ここではわいろを受け取ることのほうが言われているが、相手は、わいろを差し出すから、受け取って便宜を図って欲しいという意図がある。金に物を言わせて、自分に有利になるようにお願いする。裁判や取引を踏まえてそうする。受け取る側は、わいろ、金を目当てに公正さを欠いた判断し、行動に出るということになる。結果的に、弱者や貧しい者の側の立場が踏みにじられたり、正義が曲げられるということが起きる。現代も利権をめぐって社会の裏で巨額の金が動いている。暴露されているのは社会の末端のほんの一部である(事例)。表ざたにならなくても神はご存じである。5節では「罪を犯さない人にそむいて」と、裁判が想定されているようである。お金で弱者を踏みにじる、正義を曲げる、ということがあってはならない。これは旧約時代、常習的に行われていた社会現象である。聖書では、お金というものは神から管理を託されているものであると教えられている。だから、その使途には慎重でありたい。危ない投資に乗り出したり、手をつけていけないお金に手を出したり、透明会計を避けて人の目をくらます会計処理をしていたりと、クリスチャンの世界でも誘惑はある。神の国とその義とを第一に求めていくという方向性の中で、お金の使途というものは決まってくる。隣人愛の精神も表裏一体である。

今、2~5節で見てきた、揺るがされない人、神の心にかなう人物の特性というものは、特性の代表事例ということになる。

結語は、「このように行う人は、決してゆるがされない」(5節後半)。「決して」とは「永遠に」とも訳せることばである。まさしく、岩の上に家を建てた賢い人である。その人たちは神のみ教えを尊ぶ。私たちの生活基準はすべてみことばにある。ある人たちは、善悪の価値基準などというのは相対的なものに過ぎず、その時代が決めた基準に従えばそれでいいのだと言う。また、聖書信仰に立たない人たちは、聖書に書かれていることは、その時代の影響を受けて書かれているのだから、現代はそれに従う必要はないということも言いだしている。これらは、結果として、悪を許容し、不道徳を許容し、偶像崇拝を許容し、自己中心を加速させることになる。旧約聖書には神のみことばが疎んじられていた時代について記録された「士師記」があるが、そこでは「めいめいが正しいと見えることを行っていた」という表現が目立っている。「めいめいが正しいと見えることを行っていた」。めいめいの勝手な基準で生きていたこの時代は「暗黒時代」とも言われている。今も同じような時代である。だからこそ、私たちは聖書の権威を尊び、日々、みことばに親しみ、みことばに聞き、従おう。人がどう言っているかではなく、聖書は何と言っているか。自分がどうしたいかではなく、聖書は何と命じているのか。自分がどの考えを気に入っているかではなく、聖書は何と言っているのか、聖書はどうすることを望んでいるのか。私たちにとって聖書のみことばがすべてである。