聖書を読むと、賢さと愚かさの基準がこの世と随分異なっていることに気づく。当時、賢い人と思われていたのは律法学者やパリサイ人といったエリートだったが、キリストは彼らを賢いとは思っていない。24~27節には賢い人と愚かな人がたとえで記されている。たとえは家の建築と風水害で記されている。舞台はイスラエルであるが、パレスチナでは、水なし川が豪雨で激流に変わることで知られていた。賢い人は岩の上に家を建て、愚かな人は建てやすい砂地に建ててしまい、砂地に建てた家は風水害で壊されてしまうということは現実にあった。日本でも最近は水害が多いので、興味を引かれるたとえである。このたとえは山上の説教全体の結論である。たとえの意味を探るのにひとつのカギとなることばが、24節の「だから」である。この「だから」は21~23節と24~27節を結びつけている。よって、たとえの意味を探るために、前回も学んだ21~23節に目を通すことから始めたい。

21~23節は「主よ、主よ」と言うだけで、主のみこころを行わない人たちについて言われている。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなくて、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」(21節)。続いて、「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか』」(22節)という言い訳が記されている。それをいつ言うかと言えば、22節冒頭で「その日」となっている。「その日」とはいつの日なのか。マタイ24章36節をご覧ください。ここでも「その日」とあるが、世の終わりの教えが言われている中での表現である。それはキリストの再臨と関係している。キリストの再臨の日はまことの信者にとっては救いの日となるが、そうでない者たちにとっては裁きの日となる。続く37節を見れば、洪水でほとんどが滅んでしまった「ノアの日」と比較されていることがわかる。よって、「その日」とは、世の終わりの裁きの日のことである。すると、たとえの中の洪水や強風は、終末的な裁き、世の終わりの裁きを外しては考えられないことがわかる。

ではマタイ7章に戻ろう。キリストは「大ぜいの者」(22節)が裁きの日に弁明すると言っている。「大ぜいの者」とは、13節で学んだように、広い門をくぐり広い道を歩く多くの者たちのことであり、続いて15~20節で言われている悪い実を結ぶ人たち、すなわち、行いの悪い人たちが入る。彼らは一見すると信者に見えるが、そうではない。それは実でわかる。23節では「不法をなす者ども」と言われているので、行いが悪い人がにせ信者ということになる。ただし、本当の信者であっても罪は犯してしまう。地上で罪なき完全に達することを聖書は認めていない。ではどうやって本当の信者とそうでない信者を見分けるのか。「不法をなす」ということばは、原語を見ると、継続的、習慣的行動であることを指している。悔い改める意志なく常態的に故意に悪を行い続けているということである。そういう人たちのことである。23節は最終宣告、最終判決のことばとなっている。「わたしは、あなたがたを全然知らない」。キリストはその人が誰かは知っている。ここで「全然知らない」というのはアイディンティの問題で、すなわち、キリストに全く属していないということ、キリストの弟子ではなく無関係であるということ。キリストの羊ではないということ、キリストにとどまっていないということ。「わたしから離れて行け」ということばは、世の終わりについて教える25章41節にも登場する。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ」。このような裁きが待ち受けている人々だが、前節の22節の弁明では、主の名によって預言し、悪霊払いをし、奇跡をたくさん行ったことを主張している。しかし、これらは前回もお話したように、主の弟子であることの証拠にはならない。彼らがこれらを行いながらにせ信者であるということは、三つの可能性がある。第一に、神の御目にかなう者ではないけれど、一時、力を与えられて驚くべきことをすることができるということ。民数記には、にせ預言者バラムが神によって預言した記事がある。そこにはメシヤ預言が含まれる(24章17節)。邪悪な大祭司カヤパはキリストの死について預言している(ヨハネ11章51,52節)。第二に、悪魔の力で驚くべきことをすることができるということ。「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをしてみせます」(マタイ24章24節)。彼らは口には主の名を上らせる。そして人々を欺くが、彼らの心と生活に主はいない。第三に、単純に、でっちあげの演技であるということ。これまでも、いやしの奇跡と見せかけるために、ある人に病人のふりをしてもらい、打ち合わせておいて、車椅子か何かで前に来てもらい、祈りの後に杖なしですたこら歩けたという演技をしてもらうことにより、これが神のわざだと皆を信用させるという手口が使われることがあった。また奇跡のデマを飛ばすというものも聞かれる。彼らに共通しているのは、口に主の名を上らせるが、心と行いには主がいないということ。

21~23節を学んだら、たとえの真意が見えてきた。では、たとえに移ろう。賢い人と愚かな人に共通する点がある。第一に、両者ともキリストのことばを聞いていたということ。文脈の中で具体的にそのことばとは、キリストの山上の説教ということになるが、つまり神のことばを聞いていた。第二に、両者とも家を建て始めたということ。これは、人生を築くことの比喩と言っていいだろう。第三に、両者とも同じ災害に遭遇したということ。平等に起きて欲しくないことが降りかかった。第四に、両者とも家の外観は一見すると、そう変わらないということ。どちらの家もマイホームとしては十分であると映る。これは、人の暮らしぶりを見ただけでは本当のところはどういう人なのかわからないということだと思う。

そして両者には違いもある。この違いが大きい。賢い人は岩の上に自分の家を建てた。岩は堅固で安定していて揺り動かされることはない。「岩」<ペトラ>ということばは、砂利や丸石のことではなく、露出している大きな岩、大きな岩床を意味することばである。堅いので建てるにはめんどうな土台。しかし後のことを考えると、選択肢としてはベスト。岩の上に建てるとは、神のことばを聞いて、それを行うこと。愚かな人の方は砂の上に自分の家を建てた。おそらくは川そばの建てやすい場所に建てたのだろう。だがそこは砂地で、砂は軟弱で不安定でくずれやすい。柔らかいので建てやすいが、けれどもこれは安易な選択。これは、神のことばを聞いても、それを行わないこと。キリストのことば、神のことばを聞いていた人たちの中には律法学者やパリサイ人がいた。彼らは宗教に熱心で、外面的には、りっぱな家を建てている人たち。彼ら以外にも、一見すると、りっぱな家を建てているように見える人たちがいただろう。けれども、彼らは人間的伝統や人間的教えにすがりつくことに固執し、神のことばをないがしろにしていた。結局、彼らは別物を土台にしていた。別物の土台とは今述べたように人間の教えである。「彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えるだけだから」(マルコ7章7節)と言われているとおりである。前回お話したように、パリサイ人たちはクラシカルなにせ預言者たちである。結局、偽りの教えを土台にしているということである。また別物の土台とは、自己義、肉の欲望、名誉心、そういった言い方もできるかもしれない。金銭も入るかもしれない。それらはどれも確かな土台ではない。平穏な時はそれで良いと思っていても、試みの日に、足元が消えていくような感覚に襲われることになるだろう。確かな土台とは神のことばである。本当の信者のしるしは、神のことばを聞くだけではなく、聞いて信じて行うこと。神のことばに従う姿勢を持つこと。それが神のことばを土台とするということである。それを別の表現を取ると、キリストを信じて、キリストのことばに従うということ。それが岩の上に家を建てる賢い人。なぜならば、キリストは主なる神であり、神のことばそのもののお方であるから。キリストとキリストのことばの上に人生を築き上げる人は幸いである。

賢い人と愚かな人のもう一つの違いは、賢い人の家はひどい風水害にも最後まで耐えるが、愚かな人の家は同じ風水害でめちゃくちゃに壊れてしまうということ。「しかもそれはひどい倒れ方でした」(27節)が、たとえの最後のことばである。最後が悪ければすべては終わりである。実は、旧約聖書には、このたとえと似ている描写がいくつかある。一つ紹介すると、エゼキエル書13章10~14節である。この参照箇所を見てわかるように、たとえの中の風水害は、神の裁きを意味していることはまちがいない。特に、先ほど見たように、終わりの日のさばきが意識されていることはまちがいない。人生は最後の最後に決まる。神の裁きに耐えうる人生を送りたい。皆さんが今住んでいる家が壊れても、皆さんが天の御国に迎え入れられてほしい。だからキリストを罪からの救い主として信じ、キリストに従う決心をしていただいたい。

最後に、今日のたとえに関して、二つのことを付け加えさせていただく。一つは信仰と行いの関係である。私たちを天の御国に導くものは何かというと、それはキリストが十字架の上で流された血潮であって、私たちの良い行いではない。「私たちは、イエスの血によって、まことの聖所(天の御国)に入るのです」(ヘブル10章19節)と言われている。私たちの罪を赦すために流されたキリストの血が、私たちを天の御国に入れさせてくれる。「私たちの良い行いによって天の御国に入るのです」とは言われていない。「血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはないのです」(ヘブル9章22節)。罪滅ぼし的に良い行いをしても罪は赦されない。キリストが流された血潮だけが罪を赦し、御国の扉を開いてくださる。よってキリストが十字架の上で血を流してくださったのはわたしの罪のためと、キリストの血潮を信仰によって自分に適用するとき、救いが訪れる。私たちは、キリストが私たちの救いのために十字架の上で血を流してくださった意味を忘れないために、毎月、聖餐式を守る。私は本当に天の御国に救い入れられるのだろうかと不安を覚えておられる方がいるなら、今一度、キリストとキリストの血潮を仰ごう。もう一つの参考箇所にも目を留めよう。「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります」(ヘブル7章25節)。「完全に」ということばは珍しいことばで、「完全」ということばと「永遠」ということばの合成語である。キリストは私たちを完全に永遠に救うことがおできになる。私たちは自分の弱さや罪にだけ目を注ぎ、キリストに信頼することを忘れることは、神が望まれることではない。私たちは悔い改めと信仰をもって、常にキリストを仰ぎ、キリストの救いのみざわに信頼することである。そしてキリストにとどまり続けることである。キリストは言われた。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことはできません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(ヨハネ15章4,5節)。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」と言われたキリストにとどまるということが信仰である。もし信仰をもっているなら、キリストの似姿に似ることを求めることは自然なこととなり、キリストのいのちと滋養分を受けて必ず良い実を結ぶようになる。だから、良い行いとは、救われ、キリストに結び合わされている信者のしるしである。信仰と行いは不可分の関係にある。確かにキリストに対して信仰をもっていたら、それは必ず行いに繁栄される。信仰と行いはメビウスの帯のような関係にあると言えるかもしれない(表と裏がつながっている帯)。もし行いが常態的に悪く、悔い改めの意志もないのなら、その人は信仰をもっていないか、信仰から故意に離れてしまったか。すなわちキリストから離れて、無関係になっているということ。キリストご自身は私たちを見捨てることは決してされない。完全に永遠に救ってくださる。けれども、そのキリストの御手を故意に無理やりに振り払ってしまうなら、それは、その人の責任である。キリストにとどまるということが私たちにとって大切なこと。キリストにとどまるということは、今日の最後のたとえでは、神のキリストと、そのキリストのことばという岩を土台にするという言い方ができよう。聖書では、主なる神が、しばしば岩にたとえられている「まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか」(詩編18編31節)(その他~同2,46節)。もし揺るがない人生の土台をお捜しの方がおられるとしたら、キリストとキリストのことばを土台とすることをお勧めする。キリストは言われた。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません」(マタイ24章35節)。現代はたくさんのことばが溢れ、たった一年間の間にも、一生かかっても読み切れない分量の本が出版されているが、滅びないことば、消え去らないことば、揺るぎないことばは確かにある。それが、神のことば、キリストのことばである。

最後にもう一つ付け加えたいことは、たとえの風水害は、世の終わりの裁きのみならず、この地上で起こる様々な試練にも適用できるだろうということ。試練の嵐を受けない人はいないだろう。しかし、よりどころをしっかり持っていれば、病、経済的問題、人間関係のあつれき、災害、いろいろあっても、守られるだろう。もしそれで肉体のどこかが損傷したり、いのちが奪われたりしたとしても、永遠のいのちをその人から奪うことはできないだろう。そればかりではなく、キリストにある平安をその人から奪うことも誰にもできないのである。