今日のテーマは「にせ預言者」である。「にせ預言者たちには気をつけなさい」(15節)。これまでの歴史を振り返れば、キリストがこのように警告を与えてくださっているにもかかわらず、多くのクリスチャンたちが、牧師も信徒も含め、にせ預言者(偽りの教えを説く者)にだまされて来た。皆様には偽りを見分けて欲しい。

初めに、にせ預言者の特徴と思われるものを七つ挙げさていただく。その後に、本物と偽物を見分ける方法をお話する。では、にせ預言者の特徴を述べよう。

第一に、魅力的である。「羊のなりをしてやってくる」(15節)とある。多くのにせ預言者たちは、愛想のいい人、人好きのする人、感じの良い人であったりする。魅力的で、快活で、ポジティブで、一緒にいるだけで元気をもらえるような人。親切で、真面目に見える人。素敵な人物。多くの人がこうした外見や雰囲気でだまされている。だが、それは、良い人に成り済ましているに過ぎない。「こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです」(第二コリント11章13,14節)。コリントの信者は、使徒パウロを非難していた。外見は冴えないし、話しぶりはなっていないし、行動も怪しいし、本当に使徒なのかと非難していた。そして多くの人が、かっこいいにせ使徒たちにだまされていた。やれやれである。そして今もそれは繰り返されている。

第二、人の気に入ることを語る。ご利益心を満足させるようなことを語ったり、安易な幸せを約束したり、余り、耳が痛くなるようなことは語らない。それは罪であるから悔い改めなければなりませんよとか言わないことが多い。耳に心地よいことばを語る。13節において「滅びに至る門は大きく、その道は広いからです」とあるが、ようするに、こちらに誘ってしまう。罪人の願いは、「私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りの預言をせよ」(イザヤ30章10節)。にせ預言者は人の気に入ることを語り、こうして狭い門、狭い道を避けさせる。まじめに求道している人がいても、「なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです」(ローマ16章18節)と言葉巧みに言いくるめてしまう。今、多くの宗教が性善説に立ち、人間には罰せられる罪などないとする人間観を標榜している。今、人々を魅了しているニューエイジムーブメントもまさしくそうである(テレビに出ている霊能者のたぐい)。ニューエイジムーブメントは、愛や平和ということばを多用して、また気持ちを高揚させることを語り、人々を欺いている。またにせのキリスト教も、罪や悔い改めや神の義を表舞台から下げ、神の愛や優しさだけを強調し、さらに成功、繁栄といったことを謳い文句に、人々の心を欺く。

第三に、貪欲である。「うちは貪欲な狼です」(15節)。狼は貪欲な動物とされていた。パウロはエペソの長老たちにこう語ったことがある。「私が出発したあと、凶暴な狼があなたがたの中に入り込んで、群れを荒らしまわることを、私は知っています」(使徒20章29節)。不思議とにせ預言者たちは、金銭愛が強い。物欲が強い。卑しい利得を求める。初代教会で重んじられ、聖書に準ずるものとされ、教会の法規に関して最古の文書として知られているものに「ディダケー」(十二使徒の教え)がある。「ディダケー」には、にせ預言者を見分ける手段についても記されている。「使徒は立ち去る際、次の宿をみつけるまでに、(必要な)パン以外携えてはならない。もし金銭を求めるなら、彼はにせ預言者である」。(事例:メガチャーチの牧師たちの横領事件~繁栄の神学、ミラクル伝道者の金銭要求等)

第四に、聖書信仰がない。パウロはエペソの長老たちに、「あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう」(使徒20章30節)。「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります」(第一テモテ4章1節)。彼らは、聖書から逸脱したことを教える。「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています」(第二ペテロ2章1節)。エホバの証人、モルモン教といった異端に共通することは、教会に属していたと言われる人たちが、ある時、御使い(悪霊)の啓示を受ける。そして聖書の教えを曲げて、プラスアルファーの教えを付け加える。彼らに共通することは、キリストの神性の否定である。ニューエイジムーブメントの源流になっている教えは使徒ヨハネが手紙で反駁しようとしたグノーシス主義だが、異端、ニューエイジムーブメント、新興宗教、イスラム教といった教えは共通してキリストを被造物としてしまう。ヨハネは言っている。「なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです」(第二ヨハネ7)。ヨハネが言わんとしていることは、まことの神がまことの人となられた、この事実を信じない者が反キリストであるということである。

曲がった教えには、この世の哲学に影響を受けているものも多い。「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません」(コロサイ2章8節)。パウロの手紙を見ると、ギリシャ哲学等が教会の教えに混入してしまっているのを見て、教え諭そうとしていることがわかる。当時の世界観はギリシャ哲学が席巻していた。ギリシャ哲学の影響は今日も教会を毒しているが、現代では人間の理性を信頼する啓蒙主義との戦いが大きい。啓蒙主義は知的合理主義と言えるかもしれない。その影響で、聖書は人間のことばでほとんど誤りのようにみなす「自由主義」が19世紀に生まれた(ブルトマン等)。彼らは聖書を神話に近いものとし、キリストの神性さえはく奪した(影響を受けた著名人~遠藤周作)。20世紀に入り、聖書の権威の回復を試みる「新正統主義」が台頭してきたが、振り子は戻りきれなかった(カール・バルト等)。この立場は一見福音的だがグレーゾーンである。彼らは、聖書は神のことばであると謳い、キリストの神性を認めながらも、科学的、歴史的、地理的、道徳的には誤謬があるといった見解にとどまってしまった。例えば科学に関しては、奇跡の否定が見られる。これでは信仰を働かせる余地がなくなる。歴史に関しては、アダムの創造や堕落物語の否定、その他、聖書の歴史的記録をそのまま真実だと受け取らない。新正統主義の問題は、聖書を客観的に誤りのない神のことばであると認めていないこと。結局、自分の理性で信じたいこと、信じられることを信じているだけの話である。こうした人たちは悪魔や悪霊の存在も否定していく。聖書は救いの面のみならず、科学的にも、歴史的にも、地理的にも、道徳的にも、すべての面において誤りがない神のことばとして、聖書の権威を尊ばなければならない。20世紀後半からは、人間の理性よりも感性や直感を重んじる動きも出てきた。つまり神秘主義がもてはやされる傾向が強くなってきた。そして神の声が聞こえた、幻を見たと言って、それら怪しいものを神の啓示と呼んだりする。このようにして、結果的に神の啓示の書である神のことばの権威を軽んじてしまう。先ずは聖書信仰に立つということが絶対条件だが、残念ながら、日本のプロテスタント教会の多数が、聖書信仰を失っている。ペテロはにせ教師たちが、「作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします」(第二ペテロ2章2節)と言っている。聖書信仰に立たない場合、どうしても作り事のことばが混入してくる。ローマカトリックがまずそうだった。聖書プラス人間の言い伝え(伝承)や教皇の権威を、聖書と同等に権威があるものとみなしてきた。よって、聖書にない教えがいくつも見出される。そして現在、ローマカトリック、聖公会、聖書信仰がないプロテスタントの各教派でエキュメニカル運動(宗教一致運動)を進めている。彼らは偶像の神々にも救いがあるかのような見解を標榜してきているため、実際、偶像崇拝を許容している(カトリック事例:神社参拝、先祖崇拝)。「偶像を拝んではならない」という戒めを堂々と犯している。そして他宗教にも真理の光がかすかにでもあるとし、他宗教の神々を信じても救われると主張する。カトリックをはじめエキュメニカルな流れに乗っている諸教派が、仏教、ヒンズー教、イスラム教に接近している。プロテスタントの幾つかの教会ではイスラム教に敬意を払い、教会堂の中で、聖書の隣にコーランを置いて、モハメッドの教えを教えていると聞いている。ペテロを何と言っただろうか。「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」(使徒4章12節)。彼らは、十字架についてくださったキリストが唯一の救い主であることを事実上認めていないかのような見解を標榜してきている。よって万人救済主義に傾いている。万人救済主義とは、悔い改めてキリストを信じなくても、誰でも救われるという主義。使徒の働きを見ると、使徒たちはしつように悔い改めを説き、すべての人に悔い改めとキリストに対する信仰をはっきりと主張してきたと証言している(使徒20章21節)。そうした使徒の精神と反対のことをしている。こうした教えは、何よりもキリストの十字架への侮辱にしか思えない。

山上の説教の最終区分は13節からであると先週述べた。13節以降、二つの門~狭い門と広い門、二つの道~狭い道と広い道で始まって、すべてが対比で語られていく。それらの二つの対比は、本物のキリストの弟子と偽りのキリストの弟子との対比である。先週学んだ13~14節からわかることは、狭い門をくぐり狭い道を歩く弟子は少ない、つまりは本物の弟子は少なく、それ以外の人は広い門をくぐり広い道を歩んでしまうということ。広い門をくぐり広い道を歩く人は、神さまを信じていないこの世の人たちのことが言われている勘違いしてはならない。文脈を見れば誰たちのことが言われているか明らかである。キリストの聴衆はすべて、神の存在を信じていた人たち。無神論者たちではない。その中には、キリストに対して「主よ。主よ」と口にしながら、実は偽りにすぎない信者たちが入っている。その数は圧倒的に多いということ。皆さんは、どちらに属したいと願っておられるだろうか。もし狭い門をくぐり狭い道を歩く者でありたいと願われるならば、先ず、しっかりとした聖書信仰をもつことである。広い門、広い道に誘う、耳障りのいい教えにだまされてはいけない。福音派の中からも、時々、おかしな教えを説く人々が出現しているので要注意である。私は、信仰をもつ前、高校生の時に、黙示録の次のことばを読んで身震いした記憶がある。「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神はこの書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除く」(黙示録22章18,19節)。

第五、預言が外れる。「預言」という漢字は言葉を預かると書き、神のことばを預かって語ることであり、預言者の話す内容は、必ずしも未来に関することばかりとは限らない。だが、この場合、未来の預言が外れるという意味とさせていただいた。最近のにせ預言の傾向は、表面上、聖書信仰を標榜しているものが多い。神は創造主であることを語り、キリストの神性を認め、キリストの贖いを告白し、聖書は神のことばであると宣言する。だからだまされやすい。しかし、そこに奇妙な預言が加えられる。○○○○年にキリストが再臨すると聖書から計算できるとか、○○○○年に再臨するという啓示があったとか。そして外れる。私も外れた再臨の預言を五つほど記憶している。再臨に関しては、年数など聖書に記されていない。再臨の日を割り出す計算方法なども記されていない。キリスト自身、知らないと言って口外されなかった。また再臨は目に見えないかたちで1世紀にすでに起こったと主張するにせ教師たちもいる。世の終わりに関する偽りの教えに関しては、語り尽くせないので、時を改めて取り扱わせていただく。

第六、しるし、不思議といった奇跡も行うことができる。22節では預言、悪霊追い出し、奇跡をにせ預言者は行うことが記されている。キリストは終わりの日についてこう言われる。「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます」(マタイ24章24節)。神はご自身の証として奇跡を行われることがある。キリストも使徒たちも行った。現代も神のみわざとしての奇跡はある。だが悪魔も同様に行う。異端、信仰宗教、ニューエイジムーブメント、オカルトでも普通にある。出エジプトを見ると魔術師のことが記されているし、使徒の働きにも魔術師が人々を驚かせていたことが書いてある。だから、しるし、不思議イコール神のわざであると思ってはならない。けれども人間はこうした奇跡に弱い。それが神から来たものであると容易に信じ込む。それを行った人のことばを安易に信じ込んでしまう。

第七、行いの実が悪い。16~21節において強調されているのがこれである。悪い木は悪い実を結ぶので、つまり、行いの実で見分けなさいと。先ほど紹介したディダケーにもこうある。「霊において語るすべてが預言者なのではなく、主の生き方に添う者が預言者である。したがって偽預言者と預言者はその行いから見分けられる。」教えが正統的に思えても、しかしにせ預言者の場合がある。行いの実がそのことを証明する。あるカリスマ派の伝道者のケースを聞いたことがある。一見、魅力的な教えをし、愛を語り、聖霊の働きを強調するのだけれども、ある時、彼の不道徳が明らかになった。そのことを彼に指摘すると、「キリストが何と言おうとも」と話し出したそうである。彼の本性が明らかになった。日本では、ある弟子訓練運動が盛んになったことがあった。多くの教会がこぞって参加した。ある韓国の牧師が始めた運動で、一見、福音的に見えた。けれども私は、みことばから離れていると感じたので乗らなかった。そうこうするうちに、その牧師は未信者の方も驚くような不道徳の罪を日本の週刊誌ですっぱ抜かれ、母国に逃げ帰っていった(他の事例:メガチャーチの牧師、死人を生き返らせる奇跡をするという牧師)

これまで多くの信徒、牧師たちが偽りのキリスト教にだまされてきた。私が信仰を持った頃は、ロバート・シューラーの説く可能思考がもてはやされていた。信じた通りになる、不可能は可能になるのだと。その象徴として、彼は世界をあっと驚かせるガラスできた教会堂を造った。カリフォルニアにあるこの会堂はNHKのニュースでも取り上げられた。彼の死後、教会は空中分解し、ガラスの会堂はカトリック教会に売られてしまった。シューラーは罪などという暗いことを言うものじゃないと持論を展開し、人間の罪の性質を軽んじているようだった。積極思考を説き、強い信念を抱いてすべては良くなることをイメージするように誘ったが、彼が説いているのは福音ではなく、人間中心の心理学に思えた。だが、人々は彼の教えに夢中になり、ビジネス界でもひっぱりだこだった。

その後、第三の波運動が活発になった。従来の異言を強調するカリスマとは違って、異言は強調しないが、しるし、不思議を強調する聖霊運動だった。これにも教会は夢中になった。この運動の中から、人をとりこにする怪しいにせ預言者が幾人も排出された。この第三の波の先駆者のジョン・ウィンバーは、晩年、自分の神学は正しくなかったことを認めた。

つい最近のにせ預言者の事例も挙げておこう。昨年、神社の油かけ事件がニュースで話題になった。犯人は「IMM JAPAN」という宣教団体を立ち上げたドクター金山である。彼はアメリカで産婦人科医をしている。昨年、IMMの幹部たちが、当教会を訪問し、仲間に入らないかと誘ってきた。「私たちはカリスマとは違って奇跡など強調しない。神のことばを黙想し、神の声を聞くことを大切にする」。これだけ聞くと、健全な団体に思ってしまう。そこで、彼らに教会観を尋ねた。なぜかと言うと、宣教は教会に託された使命だからである。だが教会を通して宣教するという考えが全くない。教会形成という概念を全く有していなかった。私はそこで偽りと判断した。彼らが帰ったあと、IMMについてさらに詳しく調べると、Dr.金山は、日本の各地を回って悪霊との霊的戦いをし、ある時、日本を支配する悪霊の首領(ドン)を私が追い出したと主張していることがわかった。彼は、自分がもたらしたこの勝利のゆえに日本の宣教はこれからしやすくなると自信たっぷりに語っていた。彼は悪霊や天使が見えた話や、幻、神の声といった話を良くする。彼の神学の骨格は第三の波で話題となったネオカリスマのそれとほぼ同じだった。にもかかわらず、牧師も信徒もけっこうだまされて、彼を支援したり、全国各地で開催されたIMMのセミナーに足を運んでいたようである。その矢先、先の事件が起きた。彼は油(香油)をかけたら、悪霊がバタバタ落ちてくるのが見えたとか言っている。だいいち、悪霊追い出しに香油を使うなんていう話は聞いたことがない。それに彼は、聖書は絶対的な神のことばであると言いつつ、わたしにこのような啓示があった、だからこうしなればならない、このようなことが将来起きると、自分のことばを神のことば同様にして、それを信じ込ませようとしていた。カルトの手法と同じだった。だが彼はそうした話以外では、謙遜の大切さや、みことばに従うことの大切さや、キリストへの献身も謳っていた。そこだけを聞いてしまうと、彼の教えは問題がないようにも思えるが、そこにとんでもない偽りが前後に盛り込まれていた。悪魔は真理の大海に一滴の毒を盛り込んで欺こうとしてくるので、注意しなければならない。人は真理が含まれているから騙されてしまう。全部が偽りであったら誰も騙されないだろう。

最後に、にせ預言者(にせ教師)を見分ける方法について確認して終わろう。それは「教えと行いの実」で見分けるということである。教えが正統的で問題がないように思えるということがある。オーソドックスで健全な教えを説いているように思えてしまう。それこそ、その時は行いの実で見分ける(このポイントについては次週も引き続いて学ぶことにする)。

反対に、表面的には行いは問題ないように見える、誠実で信頼できる人に見える、神の人に見えるということがある。信頼できそうじゃないか。しかし一呼吸置いて、教えで見分ける。私の青年時代、求道心が芽生えていた時、高田馬場の街頭で誘われて、一度だけ統一教会の集会所に行ったことがある。そこで応対してくれた女性たちは、純粋で、清くて、模範的クリスチャンのように見えた。この人たちなら信頼できると。しかし、後で調べて、統一教会はとんでもない異端で、詐欺師まがいのことをやっていたことも知ることになる。異端なら見分けがつく人も、キリスト教会内で語られると、まんまとだまされてしまうことがある。語っている人は長年牧師をしてきた有名な先生だとか、学者であるとか、人柄が良く見えるとか、そういう場合が多く、そういうことだけで信頼してしまう人が案外多い。また、この教えは自分だけではなく多くの人たちもそう信じているから大丈夫なはず、と多数決の論理で信じてみたりする場合が多い。だが、広い門をくぐり広い道を歩く人が多いという現実を忘れてはならない。皆が信じているから、それは正しいということではない。だから鵜呑みにしないことである。人が何と言っているかではなく、聖書はどう言っているかである。最近の偽りの教えの傾向として、みことばを強調してくる。偽りを教えている彼ら自身が、偽りの教えにだまされないために真理のみことばに堅く立ちましょう、と説教してくる。そして自分たちの説を擁護するために、次々とみことばを引用してくる。しかし、前後の文脈を無視した都合のよい引用であることが非常に多い。マタイ4章の荒野の誘惑の場面で、悪魔がイエスさまをみことばを使って誘惑したことを思い出していただきたい。私たちはだまされないためにどうしたらいいのか。ある人が、偽札を見分ける専門家の人に、どうやったら偽札を見分けることができますか、と尋ねると、いつも本物に触れていることです、と答えたと言う。私たちに適用すると、聖書の権威を認めた上で、毎日、聖書に親しむということである。そうすれば、自然と、にせの教えには違和感を覚え、見分けることができるようになる。

にせの教えを語る人たちは、意図的に私たちをだまそうとしているのか。「しかし、悪人や詐欺師たちは、だましだまされたりしながら、ますます悪に落ち込んでいくのです」(第二テモテ3章13節)。「だまし」ということで、意図的にだましてくる人たちがいる。しかし、ある人たちは非意図的である。「だまされたりしながら」。つまり自分は真理に立っていると思い違いをしている。神に忠実なのだと勘違いしている。キリスト教系の宗教、キリスト教のある宗派に集う多くの人がそうだろう。彼らはだまされ、偽りの鳥かごに入れられたかわいそうな人たちである。人間のことばを信じ込まされ、自分たちがだまされたことも知らないでいる。聖書に誤りがあるなどと本気で信じ込まされている。特定の神学を押し付けられているだけなのにそれに気づかないでいる。最近の偽りの教えは、聖書66巻は誤りのない神のことばであると主張しつつ、特定の神学を押しつけて、聖書の教えを捻じ曲げてくる。自分の信じたいことに対して、強引にみことばの方を無理やり合せているだけである。

聖書に登場する律法学者やパリサイ人たちは、にせ預言者のクラシカルな見本だと言われる。彼らは神への熱心を自負してきたが、キリストによって、悪魔に従っていると批判された。彼らは、自分たちは神に熱心だと思っていた。自分たちこそが神に仕えていると思い込んでいた。彼らは、キリストによって聖書解釈の間違いを指摘されたばかりか、偽善、貪欲といったいわゆる行いの実を厳しく責められた。彼らは教えも行いも間違っていた。それが現実だった。現代でも、彼らのようなクラシカルな律法主義、禁欲主義のキリスト教も流布している。聖書は律法主義、禁欲主義も偽りであるから避けるようにと警告を与えている(ガラテヤ人の手紙、コロサイ人の手紙)。最近もそうした人たちの文書が送られてきた。彼らは福音派の教会さえを批判し、イエスさまを信じただけで天の御国に入れると思ったら大間違いだ、それプラス罪のない生活をしなければ御国に入れないと説く。救いは神の恵み100%であるのに、神の恵み50%、人間の努力50%の救いを謳う巧妙な教えだった。食べることに関する禁欲も説いていた。彼らは自分たちこそ聖書的と言いつつ、偽りの教えに気をつけなさいと言いつつ、彼ら自身、聖書の教えをねじ曲げ、聖書に書いていないことまで教え込んでいた。

私たちは偽りに引き込まれないために、まず聖書信仰を保とう。聖書は客観的に誤りのない神のことばである。そこに立って、神のことばは何と言っているかと、いつも注意を払い、毎日聖書に親しんでいきたい。人間中心の巧妙な教えにだまされてはならない。人が何と言っているかではなく、聖書は何と言っているかである。聖書信仰とはまた、ただ聖書は誤りのない神のことばであると信じているだけではなく、神のことばに従うことを心がけるということである。次週はそのことについて学ぼう。