ことわざの幾つかは聖書に由来している。「狭き門より入れ」ということわざは、今日の聖書箇所から来ている。私がこのことばを初めて知ったのは、中学の時に出された夏休みの宿題を通してだった。アンドレ・ジッドの「狭き門」を読んで感想文を書きなさいという宿題であった。その本にはマタイ7章13節のみことばが記されていた。物語の主人公は、神の備えた狭き門は独りでくぐる狭さしかないから結婚はできない、独身でいなければならないと信じ込んでいた。私は中学生ながら、主人公は間違っている、聖書はそう言っていないと思うと感想文に書いた記憶がある。「狭き門」は色々な意味で使われてしまうのだが、本当の意味を探っていきたい。

今日の箇所はキリストが語られた山上の説教の一部である。山上の説教は5章1節より始まり、7章の29節で終わる。今日の箇所は山上の説教のラストの区分に入る。ラストの区分とは、実際の教えでは13~27節である。ここではキリストの本当の弟子の姿について教えている。すべてが対比で語られていくことに気づく。今日の箇所では、二つの門~狭い門と広い門、二つの道~狭い道と広い道、二つの行く末~いのちと滅び、こうした対比が山上の説教の終わりまで続く。

キリストは二つを対比させて、いのちに至るのはどちらか、天の御国に至るのはどちらか、と問うている。キリストは表現を色々変えながら、私に従う者にこそ救いがあるのだと教えている。

今日の教えは「門」と「道」がキーワードになるわけだが、道を歩いて門に行き着くのか、門をくぐって道を歩くのか、どちらだろうか。正解と思われるのは、今日の箇所の原文の文法から、また新約全体の記述から、門をくぐって道を歩くということである。

キリストは「狭い門から入りなさい」と命じている。原文を見ると、決断を促す命令文になっている。まず決断して狭い門をくぐれと。私たちの人生は決断で満ちている。今日何を食べるか、何を着るか、何を話すか、何の職業に就くか、誰と結婚するか、旅行はどこに行くか。病院はどこに行くか。葬儀屋はどこにするか。実は、決断の多くは取るに足らないものである。どのお菓子食べるか、夕飯は肉にするか魚にするか・・・。どこのスーパーで買い物をするのか。キリストはここで、人生で最も大切だと思われる決断について言及しておられる。それは失敗したでは済まされない決断である。生か死か、いのちか滅びか、どちらかが待っているという決断である。それはキリストを信じ従うことを選ぶかどうかという決断。どの門をくぐっても、どの道を行ってもいっしょということばに騙されないようにしよう。ある人が分かれ道に来た時に、一本の棒を倒して倒れたほうに行こうとしていた。その人は棒を倒しては拾い、また倒してはまた拾いと同じことを繰り返していた。どうしてだろうと思って見ていたら、その人は、自分の行きたい道のほうに棒が倒れるまで繰り返していたという。これは人の心を良く表している。自己愛の精神で、自分の気分が優先するほうを選んでしまいたい。そのためには屁理屈やこじつけも辞さない。キリストは多くの人が滅びに至る門と道を選んでしまうという。それがくぐり易く、歩き易いから。けれども結末は良くない。

最終結末の「滅び」(13節)ということばを説明しておこう。「滅び」とは燃えて消えて無くなってしまうことではない。永遠に幸せを失った状態が続くことを意味する。マタイ25章41節を見よ(「永遠の火」)。同46節を見よ(「永遠の刑罰」)。これが滅びである。では「いのち」(14節)とは何か。それは、新約聖書で繰り返し言われる「永遠のいのち」である。それは「天の御国」で生きるいのちと言えよう。

キリストを信じることが、どうして狭い門をくぐることに置き換えられているのか。「狭い」ということばは「うめく」ということばに由来している。圧迫されてうめくというイメージがそこにある。望まないプレッシャーがかけられるというイメージがある。そこには罪人である私たちには嬉しくはない何かがあるようだ。実は、キリストは私たちに罪と向き合わせる。そして悔い改めを迫る。それは罪人にとって到底ありがたいことではない。キリストは罪からの救い主とされているが、狭い門をくぐるためには、罪からの悔い改めが求められる。自分の罪を直視して、それを正直に認めて、罪の結果は滅びであることを認めて、神に罪からの救いを求めるということ。自分の罪を認めるなんてプライドが許さないという人がいる。それは心地良くはないから。罪を罪として認めたくない。この罪を温存していたい。今のままでいたい。人はそんな思いで広い門、広い道を求める。山上の説教は、何で始まったのだろうか。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(5章3節)とプライドを捨ててへりくだることが言われている。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」(5章4節)。自分の罪を悲しまなければならない。ふつう人は、こうしたことをしたくない。けれども自分の罪を認めてキリストを罪からの救い主と信じる人は幸いである。キリストがいのちに至る唯一の門であるから。キリストがなぜ、いのちに至る唯一の門なのかというなら、第一に、キリストは神が人となられた唯一の存在だからである。キリストはまことの神である。第二に、罪のない生涯を人として送られた唯一の存在だからである。キリストは地上の人生において、罪の汚点が一つもない生涯を送られた。第三に、私たち罪人のために十字架につき、身代わりとなって罪の刑罰を受けてくださった唯一の存在だから。他の教えになくて聖書の教えだけにあるもの、それはキリストの十字架である。キリストは十字架の上で尊いいのちを捧げ、それを代価として、私たちの罪の借金を支払おうとしてくださった。第四に、キリストは今も生きておられる永遠のいのちそのもののお方であるから。ヨハネの手第一5章20節では、キリストが「まことの神、永遠のいのち」と言われている。自分の罪を認め、キリストを罪からの救い主として信じることは狭い門をくぐることであるけれども、それはいのちに至る唯一の門なのである。使徒ペテロは説教して言った。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」(使徒4章12節)。どうか、狭い門をくぐる決断をしていただきたいと思う。

次に、「その道は狭く」ということだが、信じるとは従うということが当然含まれる。キリストに従って行く、それが狭い道を歩くということである。なぜこの道が狭いのだろうか。それは先ほどの狭い門からも察しはつく。一つは罪との戦いは続くから。神が罪とすることは、この世の人がどう言おうと罪と認める。罪を犯したと気づいたら悔い改める。「心の貧しい者は幸いです」「悲しむ者は幸いです」といった教えは、本当の道を指し示している。もう一つは、キリストに従うゆえの痛手も覚悟しなければならないということ。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものであるから」(5章10節)。キリストの教えを義として生きるとき、すなわち、キリストの教えが正しいとそれに基づいて生きるとき、ある意味で、川の流れに逆らって遡る魚のようになる。この世の流れに身をまかせてしまうことはしない。それは「長いものには巻かれろ」とはならない。けれども、キリストに従うことは、いのちを選び取る道、天の御国に通じる道なのである。キリストが言われた有名なことばがある。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天の御国)に来ることはありません」(ヨハネ14章6節)。皆様には、狭い門をくぐり狭い道を歩む選択をしていただきたいのだが、それは、キリストを信じ、キリストに従うことを選び取ることなのだということをぜひ覚えていただきたい。

最後にクリスチャンの方々に、狭い道を歩くということについて、もう少し説明を加えさせていただく。キリストのメッセージを聞いていた聴衆は、すべての人が唯一の神の存在を信じていた人たち。無神論者ではない。進化論者ではない、神々を信じている人々ではない。キリストに対して「主よ、主よ」と口にする人たちも入っている。けれども、キリストは彼ら全員に、天の御国を約束していない。それは今日のメッセージ箇所からも明らかである。クリスチャンの方々には心ゆるめることなく、キリストに従い通していただきたい。私たちは自分の良い行いによって救われるのではない。努力、修養によって救われるのではない。キリストが十字架の上ですべての犠牲を払ってくださったので救われる。救いはただ恵みである。ただ、私たちはキリストから離れては救いはない。キリストが道であり、真理であり、いのちなのだから。キリストが私たちの救いであるから。キリストに従い続ける歩みが必要である。

キリストに従うという狭い道を二つの別の言い方をしよう。一つは自己否定の道である。マタイ16章24~26節をご覧ください。キリストは私たちの罪のために十字架でいのちを捨てるという尊い犠牲を払ってくださった。私たちはこの恩に応えるべく、自分の十字架を負って、キリスト優先で歩んでいきたい(参照:マルコ10章29,30節)。

もう一つは忍耐の道である。ヘブル12章1~4節をご覧ください。聖書の著者は信仰者の歩みをしばし競技に例えている。これもその一例である。ゴールを目指してマラソン等をした方はわかると思うが忍耐が必要である。そして、ここでも罪との戦いがあることや反抗があることが言われている。だからそれは障害物競争に例えることもできるかもしれない。ヘブル人への手紙は試練に会っている信仰者を励ますことが主要な目的である。「私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(1節)という勧めを心に留めたい。また「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(2節)を実践しよう。イエスさまご自身が狭い道を歩まれた。イエスさまから目を離さないことが、狭い道を歩む秘訣である。