今日のテーマは裁くことについてである。「さばいてはいけません」と単刀直入な命令で始まっている。誰しもがグサッとくることばではないだろうか。この命令が与えられているのは、裁きやすい、という弱さが私たち人間にあるからであり、山上の説教の文脈では、パリサイ人たちの精神が特に意識されていると思われる。5章20節では「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」とあり、パリサイ人を意識した教えが続いていくのだが、彼らの問題は自分を義とすること。彼らは自己義の世界に生きる人たちである。この人たちは容易に他者を批判しやすい。へりくだって相手に接することが苦手で、高ぶって相手を見下す。自分を正当化して、自己義の立場から見下ろし、あわれみのない裁きをくだす。あわれみなく、寛容さなく、赦しなく、ただ切り捨てるような冷たい裁きで終わる。ルカ18章9~14節の「パリサイ人と収税人の祈り」の物語が参考になるだろう。パリサイ人は「ことにこの収税人のようではないことを」(11節)と取税人をちらっと見やって、見下して裁いている。けれども義とされたのは収税人のほうであった。裁いたパリサイ人のほうではなかった。身につまされる話である。自戒したい。

自分を義とする者はエゴイスティックな裁きをする。あわれみのない裁きをする。その人たちは、自分が持ち上げられたいので、相手を尊敬して見ることはできない。相手のあら捜しをする。そのあら捜しをするエネルギーの十分の一でも自分に向ければいいのだが、自分を義としたいがためにそれができず、あら捜しが趣味である。また、相手を助けるとか建て上げるとか、愛の動機から相手を見て関わろうとしているのではない。こうした人たちは時間をかけて判断することもなく、先走って判断する。少ない情報で、一面的な見方で、簡単に決めつけて、あの人はああだと踏んづける。経歴がどうだ、化粧がどうだ、髪型がどうだ、衣装がどうだと外見だけで判断し、だから性格悪いに決まっているとなったり、あの人の素行を見ていれば、もう誰にも言われなくてもわかる、と軽はずみの裁きをしたり。性格が自分と合わないとか、物の考え方や価値観が違っているというだけで相手を低く見たり。そして裁いて快感さえ覚えている。

いったいこうした人たちの何が一番の問題なのか。それは高慢になり神の裁きの座について、裁いてしまっているということ。神の大権を自分のものにして、神に成り代わって裁いてしまっているということ。次の参考箇所を読もう。→ローマ14章10~13節 私たちは自分がやがて神の裁きの座の前に出されて裁かれる身分である。私たちは裁かれる者にすぎない。このような者が神の裁きの座についてはいけない。→第一コリント4章3~5節 人々は高慢になりパウロについて先走ったさばきをしていた。本当に賢い人は時間をかけて判断し、先走った裁きはしない。人の一面だけを見て判断しないし、少ない情報だけで判断することもしない。→ヤコブ4章10~12節 裁き主である神を恐れよう。神の裁きの座について人を裁く資格は私たちにない。ヤコブは11節で「悪口」についても言及しているが、ここで暗示されているように、高慢心から見下して裁いていることばは、ただの「悪口」にすぎない。

では、今日のテキストに戻ろう。1~2節では、裁いてはならない理由として、相手を量る量りで裁かれるからだと言われている。「あわれみを示したことのない者に対するさばきにはあわれみのないさばきです」(ヤコブ2章13節)。神の裁きを恐れよう。それがどれだけ厳しい裁きなのか。

3~4節では、裁く側が自分の罪や欠点に無頓着なことが指摘されている。こうした無頓着さについては、ローマ人への手紙2章1~3節が参考になる。私たちは相手のまちがいや問題は良く見える。というより、相手を裁くことにエネルギーが集中し、自分の罪などには無頓着である。イエスさまは、この愚かさを最高の皮肉で描写している。相手の目の中にあるものを「ちり」と表現し、それを取り除こうとしている自分の目の中にあるものは「梁」と表現している。「ちり」は原語で、「小枝、細枝、木のとげ」を意味する。切りくずのようなものである。つまようじを想定してもいいかもしれない。「梁」は「丸太」を意味することばである。つまようじと丸太を比較してみよう。丸太はつまようじの何倍の大きさだろうか。何倍どころか何千、何万倍の大きさである。イエスさまが言われたいことは、批判する側の罪は、批判される側の罪より大きいということだろう。そしてこの比較は、少しだけ梁のほうが大きいという大きさではない。巨大であるという大きさである。けれども、それを認めたくないのが私たち。その巨大さに目をつむる。へりくだることができない。パリサイ人になって、「私はあの人のように、こんなことをする者、あんなことをする者ではありません。私はあれをしています、これをしていますと、やおら自分の正しさを数えだす。自分を義とすることに終始してしまう。自分の義を巨大化させる。それは仮想現実にすぎず、現実は自分の罪と欠点が巨大なものとしてある。けれども、それを人に指摘されたくないし、自分で認めたくもない。見ようともしない。この盲目さをイエスさまは指摘している。

5節は注意深く読みたい。相手の目からちりを取り除く作業を禁止してはいない。ただ優先順位として、まず自分の目から梁を取り除くことが言われている。冒頭で「偽善者よ」と言われている。偽善者は自己義を主張し、自分が善人であることを装っている悪人である。しかし自分が悪人であることを認める人こそ相手のためになる善人で、その人こそ、相手の目からちりを取り除く資格がある。自分が悪人であることを認めている人は他者に対してあわれみを持てる。目に異物が入っている場合、それを取り除くには注意深さを要するだろう。それは愛とあわれみの心がなければできないということである。自分の罪深さを認め、十字架を仰ぎ、こんな罪人の私でも愛されていると日々感謝するしもべは、その心に愛を与えられるだろう。そしてはっきり見える。つまり、相手の何が問題でどうしてそうなのかと問題を正しく見据えることができるようになるだろう。そして問題解決の手段は乱暴ではない。愛の心から問題を指摘し、愛をもって慎重にちりを取り除く作業を行うだろう。愛のないただのののしり、悪口になってしまうようなことはしないだろう。

今日の教えで、受け取り違いしてはならないことは、善悪の判断をしてはならないとか、悪を放置することが言われてはいないということである。「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞きいれたら、あなたは兄弟を得たのです」(マタイ18章15節)。このように兄弟の罪を責めることが言われている。相手の罪を指摘せず、ただ受容してしまうことが、近年のカウンセリングの主流のアプローチになっているが、それはまちがっている。愛をもって真理を語るのである。またヨハネの手紙を読むと、愛の使徒と言われているヨハネは、異端に対しては厳しく対処するように命じている。教会は愛のところだからといって、いろいろな悪が温存されることを認めてはいない。イエスさまが禁じているのは、自分を義とし、自分を持ち上げ、高慢から来る裁き。自分そっちのけのあら捜しや優越感から来る裁き。相手のことを思っているようでそうではない愛のない批判。それは誰のためにもならない。

6節の教えも、5節までの教えを極端に受け取ることのないようにということで、前節までの教えと関係している。愛は必要だが、決然とした態度を取る必要がある場合はそうせよ、ということである。それはどのような場合なのか。「聖なるものを犬に与えてはいけません」。「聖なるもの」とは、第一義的には祭壇に供えたいけにえや捧げ物のことであるが、ここでは神のために取り分けたもの、すなわち神に属するもの、と言った意味だろう。神のことばは明確に聖なるものである。「犬」とは半分野生化した犬のことで、腐肉をがつがつむさぼり食う、凶暴で危険な犬である。そして、ここでは、その犬のような人物が想定されている。神に属するものを尊ぶ気持ちが全くなく、冒涜的な行為に出る人物のことであろう。不敬神な人たちのことである。

「豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうか」。これも先の言い換えである。「豚」も半野生化した犬同様嫌われていて、豚も貪欲で、がつがつむさぼり食い、凶暴であった。町の外れで、しばしゴミあさりをしていた。豚に真珠は関係ない。「真珠」は当時、最も価値があった宝石だが、真珠は神のことば、また神の国を意味していると言えるだろう。「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです」(13章43節)。不敬神な人たちに神の国という真珠は意味をなさないので、その人たちには決然とした態度を取ってしかるべきである。今見てきたように、決然とした態度を取らなければならない場合がある。開かないが、第二ペテロ2章1~3節では、にせ教師、異端についての言及があり、貪欲で、作り事のことばをもって食い物にすることが言われている。私たちはこうした人たちを、私たちと同じ信仰者として受け入れることはできない。そこにケジメは必要である。

今日の中心的教えは「さばいてはいけません」という一文である。この教えを実践するには、まず自らの高慢さを砕かなければならない。よって、山上の説教の最初の教えに立ち戻ることである。「心の貧しい者は幸いです」と、自分の内に何もないとわかるまでへりくだり、心の乞食になければならない。「悲しむ者は幸いです」と、徹底的に自分の罪を悲しまなければならない。そうして、あわれみ深い者となり、平和をつくる者とまでなるのである。さばかない者となり、相手の目からちりを取り除くことができる者となるのである。先ずは自らが神の前にへりくだる習性を身につけよう。