新年最初の礼拝は、毎年、詩編から味わいたいと願っている。詩編8篇は、私たちを神への賛美と招いている。また私たちに人間としての責任を告げている。

まず、私たちが賛美すべきお方はどのようなお方なのかを観よう。詩編8篇から明確にわかることは、神は万物の創造主であるということである。月星太陽、そして私たち人間に至るまで、すべてが神の作品である。栄光は創造主に帰そう。

このお方は1節で「私たちの主、よ」と呼びかけられている。この繰り返しの呼びかけは、詩編で初めて登場する表現である。二回目の「」は太字になっていることに気づく。原語のヘブル語では、二つとも違うことばなので、苦心して訳し分けている。「私たちの主」の「主」の読みは「アドナイ」である。意味は、「主」「主人」である。神は主権者として、私たちが従うべきお方である。また敬うべきお方である。さて、太文字の「」は何を意味しているのだろうか。太文字の「」は四文字から成っているが、ユダヤ人たちによって神聖な発音してはならないことばとされた。よってユダヤ人はこれを発音してはならない神聖四文字として、便宜上の発音として「アドナイ」と読み替えた。でも、これは本当の読みではない。本当の読みは何かということだが、実は、長年発音しないできたために、わからなくなっていた。だが近年の研究によって、この神聖四文字の読みは「ヤハウェ」というのが定説となっている。では神聖四文字「ヤハウェ」の意味は何か、ということになる。それをひも解く参考箇所は、出エジプト記3章14節である。ここで「」が「わたしは『わたしはある』という者である」とご自身を啓示された。よって、「」ということばに、「在る」「実在する」という意味を読み込むことが可能である。「ヤハウェ」は実在する唯一の神と言うことができよう。「わたしはある」に第一コリント8章4~6節を思い起こす。「・・・世の偶像は実際にはないものであること、また、唯一の神以外は神は存在しないことを知っています。なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで・・・」。神々と呼ばれるものは八百万、いや、それ以上、地球上では億に達するほどあるが、まことの神は唯一であり、このお方だけが在る。このお方だけが神として唯一実在する。このお方が万物の原因であり、万物の創造者であり、万物の支配者である。このお方だけが神として在る。このお方の御名をほめたたえよう。

2節によると、神を賛美する者たちに、「幼子」や「乳飲み子」が選ばれている。「幼子、乳飲み子」を文字通り、乳幼児と解釈するのではなく、地位も肩書きも権力も何もない、弱い者、取るに足らない者、無力な者、と解釈もされる。私たちはそのような者たちかもしれない。神はすべての人格的存在によって賛美されるべきお方であるが、神は取るに足らない小さな者たちによって賛美されることを計られている。

3節以降から、神のみわざを観察することによって、神をほめたたえるとともに、私たち人間の責任について考えていきたい。「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに」(3節)。神が天と地を造られたお方であることが証されている。ここで宇宙の創造が「指」のわざと言われている。全知全能の無限の力をもつ神であるならば、この果てしない宇宙も指のわざ程度で済んでしまう。「わざ」の別訳は「作品」である。また「整えられた」ということばは、「考えをもって造る」という意味がある。神はこの宇宙を考えて、デザインして、作品として造られた、ということである。神の創造のみわざのすばらしさのゆえに、賛美と誉れと栄光をおささげしよう。

「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」(4節)。広大な宇宙と比較しての人間のちっぽけさについて言われている。現在観測できる一番遠い宇宙は60億光年のかなたにある。それほど果てしなく広い宇宙にあって、神は私たちちりに等しい人間を顧みてくださる。「人」と訳されているヘブル語は「エノシュ」、意味は「か弱い存在」である。本当にその通りである。壁が倒れてくればつぶれてしまう、何かにぶつかれば壊れてしまう、寒さ、暑さ、飢えで衰弱してしまう弱さがある。そういう肉体的なことだけではなく、心も弱く、わかっていてもできない意志の弱さがあり、感情もうまくコントロールができなく、もうだめだとなってしまう。人間はすべてにおいて限界がある。「人の子」の「人」はヘブル語で「アダム」である。その意味は「土」である。それは人間がもろくてはかない存在であることを告げている。ちりに等しい。こうした人間を神に祭り上げてしまうことはやめよう。そうではなくて、ちっぽけで、弱くて、もろくてはかない人間に心を留め、顧みてくださるお方を神としてあがめよう。

「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶせられました」(5節)。人間は、ちっぽけで、弱くて、もろくてはかないけれども、特別な地位が与えられていることがわかる。他の被造物と区別され、特別な位置が与えられている。「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし」。前半を読むだけで、人間は被造物の中で特別な存在であることがわかる。「神」のヘブル語は「エロヒーム」である。神の力、威光、尊厳を強調するとき、この神の名が用いられるが、エロヒームは他の訳も可能である。なぜならエロヒームは他の霊的存在を表わす場合にも用いられるからである。一つは「神々」と訳せる。詩編82篇1節では「神々」と訳されている。そして「御使い」とも訳せる(欄外注参照)。よって5節のエロヒームは三つの可能性がある。「創造主なる神」「異教の神々」「御使い」。どの解釈が妥当なのかということについては脇に置く。ただ事実として述べておきたいことは、詩編8篇4~6節がヘブル人への手紙で引用され、そこでは「御使い」として表現されているということである。2章7節を見よ。これが事実だとするなら、人間は御使いと動物の中間的存在ということになる。トマス・アクィナスという聖徒は次のように述べている。「御使いは霊をもつが肉体をもたない。動物は肉体をもつが霊をもたない。しかし人間は霊と肉体の両方をもつ」。もし人間が単に御使いと動物の中間的存在なら、詩編の作者は、「あなたは人を獣よりいくらか<優る>ものとし」と描写しても良かった。しかし、そうしなかったのは、人間は単に、御使いと動物の中間的存在ではなく、御使いももっていない特権と責任が与えられているからである。それは、創世記1章27節が証しているように、人間が神のかたちに創造されたという事実と密接な関係がある。「神のかたち」ということばは、「神の代理者としての王権、支配権をもつ」ことを意味している。神の代理者としての王権、支配権をもつということは、5節後半の「これに(人に)栄光と誉れの冠をかぶせられました」という記述からわかる。人間は神にもっとも近い者であり、王の王、主の主である神の似姿なのである。ですから被造物の長なのである。

被造物の長としての責任は、被造物を治める、管理するということであることは明らかである。「あなたは御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました」(6節)。さて、人間は万物を正しく治め、管理しているだろうか。努力の跡はあっても、現実はうまく治めていない。戦争による破壊、殺戮。公害、地球温暖化、生態系の破壊。企業の利益中心の製品開発と流通システムによる害。核開発。ひとつひとつ取り上げていったらきりがない。人間の罪がそうした害悪をもたらしている。「神よりいくらか劣るもの」「御使いよりいくらか劣るもの」というよりも、獣のようにふるまってしまうことがある。J.ボイスという方は、「私たち自身が獣のようにさえ見える。私たちは獣のようにふるまう。事実はそれどころか、獣より悪い。なぜなら、しまいには、動物さえ夢にも描かなかったことをするからである」。人間は神の似姿としての知恵を悪用し、それらを自分たちの罪深い欲望のために用いてきた。私たちは政治家でも学者でも企業のリーダーでも何でもないかもしれない。凡人である。けれども、この宇宙船地球号の一員である。私たちは獣のように、食べて、飲んで、動いて、欲を満たして、それが生きる目的というような者たちではない。食べるために働き、働くために食べ、自分の楽しみのために生き、それで一生が終わるというような、牛や馬のような人生に召されていない。私たちは主の祈りにあるように、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と、神のみこころはどこにあるのかとそれを判断し、自分で実践していきたい。ただ周囲に流される生き方であってはいけないだろう。天国に行く日を、ただ何もしないで待っているというような消極的姿勢でいることは、みこころではないだろう。無害な人間として生きるというよりも、やはり、「地の塩、世の光」として歩んで行きたい。日々の小さな関わりの中でも、「小さな事に忠実な人は、大きい事にも忠実である」(ルカ16章10節)とあるように、小さな事にも忠実でありたい。そして、ひとりひとりに与えられた役目、使命というものがあるのだから、それをつかみ、神の御名がほめたたえられることを究極の目的として歩んで行きたい。

新しい年がスタートした。今年、皆様が心に留めて実践していきたいと願わせられていることがあるだろうか。自分のしたい事をするということと、自分のしなければならない事をするということでは、ニュアンスが若干違う。私たちは、自分のしなければならない事は何かと問いつつ、神の栄光のために新しい年を歩んでいきたい。