前回は今日と同じ箇所から夫ヨセフに焦点を当て、ヨセフはマリヤの夫としていかにふさわしい人物であったかを中心に観た。今日はマリヤとキリストに焦点を移そう。

前回、婚約期間にマリヤがみごもってしまったという事実から観ていったが、そのみごもりは聖霊によるものであった。今日は最初に、聖霊によって処女がみごもったということの意味を探ろう。まず、聖霊によるみごもりということにおいて、マリヤは婚約期間処女であり、神のみこころにかなう清純な女性であったということがわかる。また聖霊によるみごもりということにおいて、生まれた子は姦淫の罪によって生まれたのではないということがわかる。しかし、それだけではない。一番大事なことは、イエス・キリストが人の意思と行為によってマリヤの胎に宿ったのではないということがわかるということである。

聖霊によるみごもりについてもう少し詳しく観ていくが、その前に一つの誤解について触れておきたい。ある人たちは、キリストが罪をもって生まれてこないために処女のみごもりが必要であったと言う。もし普通の方法で生まれていたら、キリストは原罪をもって生まれてきた、すなわち、堕落した罪深い性質を受け継いでいただろうと言う。人間が生まれながらにして持っている堕落した性質を一般に原罪と言う。これは親から子へと受け継がれるわけだが、この原罪の汚れから守られるために、処女懐妊、処女降誕が必要であったと言う。しかし、これは一つの説として受け止めること以上のことはできない。つまり、これは男親の関与がないなら生まれてくる子どもは罪がないということになってしまうから。これは、次のことを意味させてしまう。母親ではなく父親が堕落の源。堕落した性質は男だけが持っているのであって女は持っていないということになる。すると、男が関与しない女から生まれる子どもは清く、男が割り込むと子どもは汚れる(男親の汚れが移る)ということになる。これでは男性は病原体みたいである。女性の方はこれで満足かもしれないが男性は不満が残るだろう。

父親を通して子どもに堕落の性質が移るということだが、今述べたように、これは男性は汚れていて、女性は清いと言っているようなもの。第一テモテ2章14節では「アダムは惑わされなかったが女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました」と、アダムよりエバのほうが先に誘惑に負けて罪を犯したことが言われている。女も男同様に罪人であり、ともに罪に汚染されている。NHKの朝ドラのヒロイン、女性実業家として名を馳せた広岡浅子は60代前半で信仰を持ち、教育活動に邁進したが、彼女はこう言っている。「女性の第二の天性は猜忌、嫉妬、偏狭、虚栄、わがまま、愚痴であり・・・」。かのマリヤも神に選ばれた器とは言え罪人の末裔。ヨセフは法律上の父親でイエスさまとは血のつながりはないが、マリヤはイエスさまと血のつながりがある。原罪は親から受け継がれる。よって処女降誕が、キリストが罪を持たないためにどうしても必要であったと結論づけるのは乱暴すぎる。

マリヤのみごもりの秘密について見落としてならないことは、聖霊によるということである(18節)。聖霊は非常に力がある神の霊であり、堕落した性質が人から伝わらないように、マリヤからイエスさまに罪が移ることのないように、イエスさまを聖別されたということ。

では、この聖霊による処女降誕はどのような積極的意味があるのだろうか?確実に言えることを二つ述べよう。

第一に、この処女降誕は、キリストの誕生及び私たちの救いが全き神のみわざであることを証している。私たちが救われることを「新しく生まれ変わる」と言われている。そして、それは聖霊の働きに帰されている。イエスさまは「人は水と御霊によって生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われた(ヨハネ3章5節)。ここでイエスさまは聖霊による生まれ変わりを言われた。生まれ変わった者たちについて使徒ヨハネはこう言っている。「この人々は血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ神によって生まれたのです」(ヨハネ1章13節)。このように自然的誕生と、救いという霊的誕生を比較している。救いは人間の意欲や努力や働きによっては来ない。人間の力によって、人間の行為によって霊的誕生はもたらされない。それはただ、神のみわざ、聖霊のみわざである。イエスさまは私たち救われた者の長子と言われているが、イエスさま自体が、肉の欲求や人の意欲によってではなく、ただ神によって、聖霊のみわざによって生まれられた。処女降誕において証されていることは、イエスさまの誕生は、肉の欲求や人の努力や働きかけによってもたらされたものではなく、全く聖霊のみわざであったということである。それは全く人間の何かによらなかった。全く神のみわざであった。処女降誕はこの事実を強烈に証している。またこの処女降誕は、私たちの救いという霊的誕生は、人間の何かにはよらず、それは全く神のみわざ、聖霊のみわざであるということの一つの型になっているということである。イエスさまは、救われて神の子どもとされた者たちの長子として全くふさわしい生まれ方をしてくださった。

これに関して、次のような意見があるかもしれない。ヨセフとマリヤの普通の関係によっても、そこに聖霊が働き、イエスさまを罪の汚れから守ることができたはずではないかと。しかし、普通の夫婦の営みによる誕生では、イエスさまの誕生は二人の肉の欲求、意欲、努力、行為による誕生であると人の目に映ることになり、聖霊のみわざという面が証されないで終わってしまう。またある人は次のように言うかもしれない。神のみわざと言うのなら、マリヤも介せず、人々が見ている前で、天から赤子のイエスを吊り降ろせば良かったのではないかと。しかし、それでは人間の罪からの救い主となるにはふさわしくない。イエスさまは私たちに人間の罪の身代わりになることが目的である(21節)。イエスさまは私たち罪人と同じ出生の道を選び取られなければならなかった。1章でキリストの系図を学んだが、罪人を先祖としてもつことに意味がある。罪人の家系に生まれるということに意味がある。そして罪人と同じ人生の道筋を経験することに意味がある。人間の母の胎から生まれ、周りの人間と同じ生活を営むことに意味がある。

第二に、処女降誕は、キリストが唯一の神の救い主であることを証している。処女降誕において、明らかに神の全能の力が証されている。これは奇跡中の奇跡である。後にも先にも、処女から生まれたのはイエスさまただおひとり。この誕生はイエスさまが誰であるかを証するものである。イエスさまは神のキリスト、すなわち救い主である。

次に、キリストの二つの名前を観よう。一つは「イエス」である。当時は名前だけで、姓はもたなかった。「キリスト」という呼び名は救い主を意味する称号である(将軍、太閤などと同じ)。それは姓ではない。「イエス」という名前は、当時、一般的な名前であった。旧約聖書に「ヨシュア」という人物が登場するが、そのユダヤ名が「イエス」である。意味は「主は救いたもう」「主は救い」である。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(21節)という働きにふさわしい名である。

次に、次の名前である「インマヌエル」について観よう(22,23節)。23節は旧約聖書イザヤ書7章14節にある預言である(この預言の詳細な分析は別の機会にゆずる)。今日は「インマヌエル」という名前に集中したい。イエスさまが生涯の間、この名前で呼ばれていたということではなく、このことばは、イエスさまの性質を伝えている。「インマヌエル」の意味は「神は私たちとともにおられる」である。

中世のユダヤ教の註解者で最も有名な人物の一人に、ラシィという方がいる。彼はイザヤ書7章14節をこう解説している。「『処女がみごもり、男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる』。その意味は、私たちの創造主は私たちとともにおられる、である」。キリストは人となられた神。神とは天地万物を造られた創造主である。

旧約聖書を見れば、創造主なる神は、契約を結んだイスラエルの民とともにおられたことがわかる。旧約時代は、幕屋が神がともにいてくださっていることを示す主な目に見えるシンボルであった。幕屋とは、イスラエルの民が神を礼拝する場所であったわけだが、幕屋は原語のヘブル語で<ミシュカン>と発音し、このことばは「住む」を意味する「シャカン」から来ている。幕屋とは神の住む家ということになる。そこで開いていただきたい箇所はヨハネ1章14節である。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」。この「ことば」は、1節において永遠のはじめからおられた神とされている。そのことばなる神が人となった。すなわち、それがキリストである。そして「私たちの間に住まわれた」。「住まわれた」という動詞は、原語で「幕屋を張る」を意味する。よって14節の直訳は、「ことばは人となり、私たちの間に幕屋を張られた」。新約時代の幕屋とは、神ご自身であるイエス・キリスト。神は私たちの上に住むためではなく、私たちの間に住むために来られた。つまり、神は私たちとともに住んでくださるということ。そのお方がキリスト。キリストは私たちとともに住み、また私たちのうちに住んでくださる神。このことは神が私たちの生涯のあらゆる経験を分かち合ってくださることを意味する。私たちが喜ぶ時も、苦しむ時も、それらを分かち合おうとされる。使徒パウロがキリスト教徒を迫害していた時に天から届いたキリストの声はこうだった。「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」。「なぜ彼らを迫害するのか」とは言われなかった。キリストはご自身を信じる者たちと一体であられる。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28章20節)という、マタイの福音書最後のことばを思い起こす方もおられるだろう。

イエス・キリスト以上に皆さんに対して関心を持ち、人生をともに歩んでくださる方はいない。このお方は家畜小屋での誕生を選び取られ、十字架への道行きを歩んでいかれた。それは私たちの罪を背負い、身代わりとなるため。そして十字架で私たちの死を死んでくださり、罪のさばきを受けられたが、死よりよみがえり、今、私たちひとりひとりのためにインマヌエルとなってくださる。

次のような文章をみつけたので、最後に読んで終わりたい。「このクリスマスの季節に、私はあなたにお尋ねしたいと思います。あなたにとってキリストは現実の方となっておられるでしょうか。彼はあなたの心のうちに実際に住んでおられるでしょうか。キリストはあなたの生涯に住み込んでおられるでしょうか。きょう、神の御子イエス・キリストが、あなたの心の中に誕生することを願いませんか」。

「神は私たちとともにおられる」、この真理は、キリストを救い主として信じ受け入れるとき、実現するのである。そして、すでにキリストを信じておられる方は、「神は私たちとともにおられる」という事実を信仰をもって受け留め、臨在信仰に歩んでいただきたいと思う。