アドベントは「待降節」とも言われ、主キリストの来臨に思いを潜める期間である。今年はマタイの福音書より、キリストの来臨に思いを潜めたい。マタイの福音書は新約聖書の最初の書であるが、新約聖書は「系図」で始まっている。いきなり耳慣れない名前の羅列である。万人に読んでもらうためであったなら、いきなり系図から始まらないで、序文のようなものがあってもいいのではと思ってしまうかもしれない。しかしながら、系図で始まるのには理由がある。

ユダヤ人は系図を重んじる民族である。ユダヤ人は系図を見て、先祖たちの流れに、神の摂理というものを見て取った。系図は神の摂理の証なのである。誰と誰が結婚して誰が生まれたという動きは偶然のことではなく神の御手によるということ。夫婦の出会いと結婚は神の摂理によるのであり、それは紅海が二つに分かれた奇跡に匹敵するとまで受け取る人たちもいた。そして系図は、自分たちの血統の純粋性を証明するものとしても重要なものであった。キリストが誕生する時代のユダヤの王はヘロデであるが、彼は半ユダヤ人に見られていたエドム人の血統であったため、純粋なユダヤ人たちから馬鹿にされ、その腹いせに、ユダヤ全国の家系図を焼き捨てるように命じたと告げられている。系図はどの家も所有していた。現代のユダヤ人であっても、自分はユダ部族の家系の子孫であると把握できている人たちがいる。つまり、数千年も前からの家系が分かっている。系図があるからである。このように系図を重視する民族であるから、書物の最初に系図が来ても珍しくはない。1世紀に活躍したユダヤ人の歴史家ヨセフスも、自叙伝を書くにあたり系図から始めている。

マタイの福音書のテーマは、「イエスは王である」ということである。ユダヤ人は、旧約聖書の約束に従い、王なる救い主がアブラハムの子孫から、またダビデの家系から、誕生すると信じていた。よって、系図はより重要な意味をもった。1章の系図は、約束されていた王の系図と言えよう。

1節の「イエス・キリストの系図」ということばをご覧ください。「系図」の原語は<ビブロス・ゲネセオース>である。<ビブロス>は「記録」という意味。<ゲネセオース>は「誕生」という意味がある。同属の<ゲネシス>が18節で「誕生」と訳されている。よって、「系図」は「誕生の記録」と訳せる。実際、そのように訳している聖書がある。また<ビブロス・ゲネセオース>は「歴史の記録」と訳される。創世記5章1節では「これはアダムの歴史の記録である」とある。その後、アダムからノアに至る系図が記されている。「歴史の記録」はギリシャ語七十人訳では<ビブロス・ゲネセオース>である。著者マタイは創世記を意識して、新しいアダムの歴史の記録、新しい時代の歴史を書こうとしたのかもしれない。聖書でキリストは、第二のアダムとも言われている。では、キリストの誕生の記録を、キリストの歴史の記録を、四つのポイントで見ていこう。

  1. アブラハムとダビデを通して(1節)

アブラハムはユダヤ人の先祖であり、信仰の父と呼ばれる人物である。そしてマタイの系図では、ダビデ王家の血統としてキリストが誕生することに強調を置いている。キリストは王であるという基本的メッセージがそこにはある。1節の「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」を直訳すると、「イエス・キリストの誕生の記録、ダビデの子孫、アブラハムの子孫」。マタイはダビデを強調していることがわかる。ある時、神はダビデに対し、「とこしえまでも続く王国を、あなたの世継ぎが打ち立てる」と約束された(Ⅰサムエル7章12~16節)。そして時は満ちて、その子孫が世に現れた。民衆はキリストを王座に着けようとした。しかし、反対勢力はキリストを葬り去ろうと謀った。しかしいずれの人たちもキリストが治める王国の性格を誤解していた。キリストは反対勢力に捕えられた後、裁判の席で、「わたしの国はこの世のものではありません」(ヨハネ18章36節)で明言されている。キリストの国はとこしえまでも続く神の国のことである。そしてこの国は、世界のどこかにある一つの国というのではなく、一つの民族しか含まないというものではなく、全人類を含む世界大の規模のものである。神はユダヤ人の先祖アブラハムに約束された。「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受ける」(創世記22章18節)。その子孫とはイエス・キリストであった。

アブラハム、ダビデ以下、その子孫たちを見るときに、様々な嘆かわしい罪を発見する。後に見るが、ダビデは人妻と姦淫の罪を犯し、間接的に殺人の罪も犯している。アブラハムは妻のサラを妹と偽って異邦人の地で過ごそうとし、サラは他人の妻となる危機にさらされた。その子どもや続く子孫も、うそ、だまし、憎しみ、殺人と、嘆かわしい罪を繰り返した。しかし、キリストはこの二つの罪深い家系を通して出現した。

2.外れ者の四人の女性を通して

神は四人の外れ者の女性を選び出した。系図には、後で見るマリヤを除くと、四人の女性しか記されていない。あとはすべて男性。最初の女性はタマル(3節)。彼女はカナンの女性で異邦人。彼女は十二族長のユダの子どもの妻であった。彼女は娼婦を装い、しゅうとのユダに近づき、子どもをもうけてしまう(創世記28章)。しかし、その子どもが恵みの選びの中に含まれてしまう。

次の女性はラハブ(5節)。彼女もカナンの女性。先のタマルは娼婦を装ったわけだが、彼女はエリコという町で職業として売春をしていた(ヨシュア2章)。けれども彼女も恵みの選びの中に入れられた。

三人目の女性はルツ(5節)。ルツも異邦人でモアブ人の女性。モアブ人の先祖は近親相姦によって誕生している。彼女はダビデ王の曽祖母(そうそぼ)となる。

四人目の女性はバテ・シェバ。「ウリヤの妻」(6節)と紹介されている。彼女はダビデとの間にソロモンをもうける。ここで名前ではなく「ウリヤの妻」と紹介されている理由は、姦淫の罪を浮き彫りにするためである。

これらの時代において女性は価値の低い存在とされていたので系図に取り上げられるということ自体、異例。しかもその女性たちは外れ者。異邦人であるということにおいて、また姦淫の罪を犯したということにおいて。普通、王室の系図というときに、汚点はひた隠しに隠したり、事実を歪曲したりするもの。けれども、王の王、主の主であられるキリストの系図を見るときに、むしろ、それを明るみに出している。というよりも、神は、キリストの先祖に、あえて恥ずべき罪を犯した者を選んでおられる。ここに神の深い恵みを見る。キリストは時至って、罪人を救うために来られた恵み深い王であるということが、系図において証されている。私たち罪人もキリストを通して神の恵みにあずかる。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(9章13節)。

3.マリヤを通して(16節)

神はイエスさまの母としてマリヤを選ばれた。イエスさまの父はヨセフである。しかし、マタイはマリヤを強調している。ヨセフは「イエスの父」と紹介されておらず、「マリヤの夫」という紹介になっている。ヨセフはイエスさまの父だが、イエスさまの誕生にはヨセフは介在していない。ヨセフは法的にイエスさまの父であるが誕生には関与していない。イエスさまは聖霊によってみごもったことが20節で証言されているとおりである。この処女降誕の事実が、16節のマリヤを浮き立たせている書き方を生み出しているとも言われている。彼女は当時にあっては、一人の平凡な名もない女性であった。彼女はしかし信心深く素直な信仰を持ち、神に対して献身的な女性であった。だが、他の人たち同様、原罪をもって生まれてきた一人の罪人にすぎない。

けれども、いつしかマリヤには生まれながらにして罪がないという教理がカトリックの間で発展していった。それは「無原罪懐胎説」という。しかし全員がこの説に同意していたわけではない。アンセルムスやボナベントゥラ、トマス・アクイナスといった有名なカトリックの神学者はこの説に同意していなかった。彼女だけ特別に原罪を免れることなどありえないと。しかしながら19世紀の中頃(1854年)、教皇ピウス9世が発布した回勅によって、無原罪懐胎が教理化されてしまった。「聖母マリヤはその懐胎の瞬間から全能の神の特別な恵みと、救い主イエス・キリストの功のゆえに原罪のすべての汚れから自由であった」。ここまで来ると歯止めが効かず、一世紀後には「聖母の被昇天」、すなわち、マリヤは死なずに天に挙げられたという教えが教理化される。それを裏づける文書は聖書にも外典にもないのにかかわらず。もうこうなれば、マリヤにはキリストと同等の地位が与えられることは目に見えてくる。人々はマリヤが天でとりなしをしてくれるとマリヤの名によって盛んに祈るようになり、マリヤ崇拝が盛んになっていく。マリヤは神ではないと言いつつも、事実上、マリヤを神格化している。どうして、聖書にも初代教会時代にもなかった教理が生まれてしまったのかというなら、それはバビロンの密儀宗教に元をなす異教神話の影響が多分にある。バビロン(バベル)の名は創世記10章9,10節に登場する。ニムロデがバビロンの創設者。バビロンは偶像宗教発祥の地、オカルト発祥の地と言われる。ニムロデの妻セミラミスは、偶像宗教の最初の大祭司となったと言われている。バビロンはあらゆる悪しき宗教の本源、発祥の地となった。「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」(黙示録17章5節)。時を経て紀元前にバビロンが滅びた時、異教の祭司たちはペルガモやローマに逃げた。ペルガモは黙示録2章13節で「そこにはサタンの王座がある」と言われている。ローマにはバビロンの異教が持ち込まれ、そして4世紀になると、その異教の影響が教会に入り込んできた。マリヤの無原罪懐胎や、マリヤを天の女王と呼ぶことなどがそれである。

神話によると、バビロンのセミラミス(ニムロデの妻)が太陽光線によって奇跡的に妊娠する。そして生まれたのがタンムズ。タンムズは殺されてしまうが、彼女の母のセミラミスの40日間の断食の後に、死から甦る。この神話を同根とする同じような神話は、古代世界のあらゆる宗教にある。セミラミスは様々な名で知られている。アシュタロテ(豊作と生殖の女神)。イシス(古代エジプトの豊穣の女神)、アフロディティ(ローマの愛と美の女神)、ヴィーナス(ローマの愛と花園の女神)(後のギリシャ神話の愛と美の女神)、イシュタル(バビロニヤの愛と豊穣の女神)。セミラミスの子、タンムズも様々な名で知られている。バアル(太陽神)、オシリス(古代エジプトの黄泉を支配し、死者をさばく神)、エロス(ギリシャ神話の愛の神)、キューピット(ヴィーナスの子で、翼があり弓をもつ)。

実はキリスト降誕以前の旧約時代から、これらの偶像宗教はイスラエルに影響を与えていた。セミラミスの別名イシュタルがイスラエル人の間で天の女王として礼拝されていた(エレミヤ44章17~19節)。セミラミスの子タンムズのために泣く儀式をイスラエルの女性たちはしていた(エゼキエル8章13~14節)。異教には母なる神、子なる神という図式が良く見られる。これらがマリヤ崇拝の流れを作っていった。しかしマリヤは神でも恵みの本源でもない。聖書はマリヤの恵みによって救われるとは言っていない。彼女は救い主の降誕のために恵みを受け、選ばれた一人の罪人に過ぎない。私たちが目を向けなければならないことは、神が恵みのうちに一人の貧しい乙女を母として選んで、救い主は低くなってこの世に来臨されたという事実である。

4.三つの時代を経て(17節)

三つの時代区分の言及がある。「アブラハムからダビデまで」~遊牧民アブラハムに始まり、エジプトでの奴隷時代、カナンの地入国と定住、ダビデがイスラエルで王になるまで。この時代にはイスラエル史の中で最も暗い時代と称される士師の時代を含む。「ダビデからバビロン移住まで」~この時代は君主制の時代。堕落と背教が繰り返され、神のさばきによる神殿の破壊、国家の壊滅、バビロン捕囚で閉じる。「バビロン移住からキリストまで」~多くの方がこの時代はイスラエルの暗黒時代と言っている。政治的混乱ばかりか霊的に闇の時代とされる。「暗闇の中に座っていた民・・・死の地と死の陰に座っていた人々・・・」(4章16節)。三つの時代とも人間の罪が色濃く現れていた。

各時代が「十四代」とされている。これは偶然のことではなく、何か意味があるにちがいない。イスラエル人の数字に意味を持たせるゲマトリアを考えて一般に言われることは[7×2]で、7は聖書の完全数、その二倍ということで、全き完全、十分に完全であることを示唆していると言われている。すなわち、イエスは時が満ちて来臨された王なるキリストであることが証されていると言えよう。

この系図から私たちが最低限、読み取らなければならないことは、神の恵みの美しさであり、キリストは恵み深い王であるということである。人の罪は深く、それはこの系図から読み取ることができる。罪、醜さ、汚れ、死、暗黒、そういった一切のものを見てとることができる。けれどもこうした罪の歴史に神の恵みが織り込まれていた、というよりも、神の恵みが覆っていた。時至り、キリストが誕生した。キリストは恵み深い王である。十字架にかかり罪を赦し、罪を消し去るみわざを遂げてくださった。そして罪も死も暗闇もない神の国を成就してくださるのである。私たちに対する神の深い恵みのゆえに、キリストの御名をあがめよう。