以前、船にたくさんの宝を積んで、まさしく宝船で、天という向こう岸に達しようとした人の話を読んだことがある。その人は一つも漏らさず宝を船に積み込もうとしたために、その船は宝の重さで途中、沈没してしまった。この話の教訓は明らかで、富に頼るな、それらは人を救うものではないということである。今日は、私たちが物質についてどのような態度をとれば良いかを学びたい。現代は物質主義が人間の価値観を支配している。こうした傾向はキリストの時代に、すでにあった。キリストの時代の宗教リーダーたちは、物質に心奪われ、夢中になっていた。彼らは貪欲で、欲張りな物質主義者たちであった。「金の好きなパリサイ人たち」と言われている(ルカ16章14節)パリサイ人と同じくユダヤ教の一派で、大祭司を排出するサドカイ人たちも同じであった。彼らは神殿で業者たちに商売をさせ、神への捧げものが高額で民衆に売られていた。業者からは場所代や売り上金の一部を納さめさせるシステムを作って、私腹を肥やしていた。

もともとユダヤ人は富は神からの祝福と単純に決め込むところがあった。富を偶像のように崇拝していても、それは神からの祝福なのだからと受け留め、その辺の感覚がマヒしていた。確かに神がその人を富ましてくれることがある。アブラハム、ヨブといった旧約の聖徒たちがそうであった。しかし、そのことと、富に執着することとは違う。「富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。富は必ず翼をつけて、鷲のように天へ飛んでいく」(箴言23章4,5節)。アブラハムらは神を第一とした結果、経済生活が祝福されたのであって、富を第一に求めたのではない。

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい」(6章19節前半)。「宝」と「たくわえる」ということばは、原語のルーツは同じである。「宝」はこの場合、地上の宝であるから、お金、その他の富が想定されているだろう。「たくわえる」ということばは、この文脈では、「貯蔵する、秘蔵する、備蓄する」という意味合いを持ち、よって、使わない富ということを思い浮かべる。宝の持ち腐れではないが、ようするに不必要なほどにためこんでしまおうとすることが問題視されている。生活に必要な額はだいたい決まっている。生活に必要な額を見定めたら、それ以外のものをどうしようとしているのか。収入が増していっても自分の生活に関しては贅沢することなくシンプルライフに生きて、収入のすべては神から管理をまかせられている預かりものとして、神の栄光のために用いていくことである。パウロは「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光のためにしなさい」(Ⅰコリント10章31節)と生活の原理を説いている。聖書は勤勉に働くことそのものは奨励しているので、そのことはまちがわないようにしたい。箴言では、なまけ者は蟻に学ぶようにアドバイスした後、なまけたままでいると、「だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの貧しさは横着者のようにやってくる」(箴言6章11節)と言われている。また使徒パウロは「私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました」(Ⅱテサロニケ3章10節)と言っている。働くこと自体は、創世の時代より、アダムとエバの時から定められている人間に課せられた務めある。「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた」(創世記2章15節)。労働は人間本来のものである。問題は労働の対価として神が与えてくださるものをどう用いていくのかということになる。

キリストは地上の宝について言われる。「そこは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴を開けて盗みます」(19節後半)。古代において、富んでいるかどうかの指標となるのが着ているものだった。金持ちは着物にかなりの投資をした。金持ちは自分たちが金持ちであることを示すために、時おり、織物に金の糸を織り込んだものをまとった。そして最善の着物は、ウールで作られていた。ウール生地は虫が好む。いくら金持ちと言えども、この虫にはかなわなかった。「虫」と訳されていることばは、おそらく蛾の幼虫だと思われる。さて、理解が困難なのが、次の「さび」<ブローシス>である。実はこのことばの直訳は「食べること」(Ⅰコリント8章4節)、「食物」(ヘブル12章16節)。よって、<ブローシス>を、穀物等を食べる柔らかくて細長い害虫とする解釈も有力。よって、「さび」を「虫」と訳し、最初の「虫」を「しみ」と訳す聖書もいくつかある。また<ブローシス>はねずみのような小動物という解釈もある。当時の富は穀物も重要なものであったので、穀物に対する害虫、あるいは小動物と解するわけである。新改訳は「腐食」によって生じた「さび」と解釈した(ラテン語ウルガータ訳にならう)。この場合の富は金属となる。さびが正しいのか虫等が正しいのか、本当のところはわからない。「きず物になり」ということばは、すでに16節で使われており、16節では「やつす」と訳されている。そして、地上の宝はきず物になるだけではなく、「盗人が穴をあけて盗みます」。泥壁に穴を開けられて盗まれることが想定されているのかもしれない。また当時は宝を地中に埋めて隠すことが通例であったので、穴を掘られて盗まれることが言われている可能性もある。今であると、銀行に預けるわけだが当時ははそうではない。人は良く地中に埋めたりしたわけだが、戦争などが起きてそのままになってしまうことがあった。掘って見つけた人はもうけものということがあったという。もちろん、盗人に掘られてしまうことがあった。キリストが言われたいことは、地上の富は天のそれと比べると、一時の、つかの間の、はかないものでしかないということである。

西部劇の映画を観ていたら、主人公が安全な銀行はどこだと聞いていた場面があった。当時、銀行強盗に襲撃されるという事件が頻繁に起こっていて、セキュリティーの高い銀行を求めていたということだが、映画ではその銀行も襲撃され、金庫が盗まれるということに。現代は盗まれても、金額は保障されるだろうが、ハイパーインフレでもやってくれば、紙幣価値も紙切れ同然になるやもしれない。土地の売買価格もこのところ下落している。だからこそ、少しでもたくわえておかないと、となるかもしれないが、一つの落とし穴があり、死んだらその富ともお別れで、億万の富も、その人を救えない。永遠のいのちを保障してくれはしない。貪欲な億万長者が死後、貧困者になり、敬虔な貧困者が死後、天にて億万長者になるというパラドックスが実現するだろう。

よって、「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません」(20節)。イエスさまはある時、金持ちの青年に対して、「帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれは、あなたは天に宝を積むことになります」と言われたことがあった(マタイ19章21節)。この青年は地上に富みをたくわえることをやめることができなかった。自分の宝を天にたくわえるというのは、自分の所有物を、賢く、快く、喜んで、自発的に、神と神の国のために用いるということである。具体的にそれは貧しい人を顧みることであったり、福音宣教のためにささげることであったりしていくわけである。その行為に神は報いてくださるということ。この報いが天にたくわえられる宝であり、それはしみになることなく、朽ちることなく、永遠に価値があるということ。私たちは自分たちの経済生活にあって賢くあらなければならない。普通の人は収入に対して出費の計画を次のように立てる。まず一月また一年でどれだけ必要とするのか、その必要額を定めてみる。それ以外のお金を、返済金や将来の出費に備えて貯蓄に割り当てていく。おこずかいも生み出していく。だがここで神の国への投資(献金・寄付)を忘れてはならない。献金は聖書の原則から収入の十分の一と良く言われるが、献金に関する一つの誘惑は、収入が増えると自動的に生活水準を高めて、神の国への投資が疎かになるということがある。キリストは後で言われる。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものは、すべて与えられます」(6章33節)。あくまでも神の国を第一に求める姿勢で出費について考えていくわけだが、献金は出費という枠で収まるものではなく投資である。それは引き算で考えるものではなく、投資なので、足し算で考えるものである。それは20節で天に蓄えることとして言われていることからわかる。神の国を第一とする人は天の銀行にたくわえる。マタイ13章44節を見ていただければ、天の御国すなわち神の国自体が宝であることが言われている。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います」。

「あなたの宝のあるところに、あなたの心があるからです」(21節)。私たちの心はいつも、どこを向いているのかと、自分の心を見張ろう。お金が落ちているんではないかと、いつも下ばっかり向いているようなことにならないようにしたい。それで、たまに得することがあるかもしれないが、心を上に向ける習慣をつけたい。それを忘れると、いつしか地上の物事に心を絡みとられて、地上に心が縛り付けられることになってしまう。

「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」(22,23節)。いきなり目の話になって、イエスさまは何を言われたいのだろう。一見わかりにくいが、ユダヤ人の考え方と、文脈から、言われたいことは見えてくる。目の比喩で教えようとされているが、西洋人は、目は心の窓といった、光を入れるところといった感覚がある。しかしユダヤ人はそうではなく、目自体が光を放つと考える。日本の「眼光鋭い」という表現を考えればわかる。ユダヤ人は目が光の源でからだ全体を照らすと考えた。目は光源というわけである。この目がからだ全体を照らすランプの機能を持つというわけである。だから目は健全でなければならないということになる。そしてここに比喩があるわけであるが、健全な肉体の目がからだを照らすように、健全な心の目がたましいを照らすということである。別の表現をとれば、心が健全であるとたましいは明るいというわけである。

では健全な心とはどういう心なのかということだが、22節の「健全」と訳されていることばに注目してみよう。「健全」<ハウプロース>ということばの意味は、「単一、シングル」である。他に目移りしない神一本の心、そういう心が健全な心である。反対に、健全でない心とは「二心」である。聖書では単一ではない心、すなわち「二心」がまさしく問題にされている。神に仕えるのか、富に仕えるのか。神を愛するのか、この世を愛するのか。心が定まらない状態。神一本の心ではない。真心から神に仕えるということではない。神への誠実が欠けている。全き心で神に仕えようというのではない。献身的心はそこにない。心がこの世のものに浮ついている。

23節の「目が悪ければ」にも注目してみる。「悪い目」というのは、実は「しぶしぶながらすること」「けちなこと」を意味するヘブル的表現である。申命記15章9節を見よ。「目が悪い」というヘブル語が「物惜しみをして」と訳されている。次に箴言23章6節を見よ。「目つきの悪い人」が「貪欲な人」と訳されている。箴言28章22節も見よ(先に同じ)。これでお分かりだろう。キリストが問題にしているのは、二心で貪欲なことである。

「だれでも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(24節)。ここで明らかに二心の悲劇が言われている。また富崇拝の愚かしさが言われている。

「だれでも、ふたりの主人に仕えることはできません」というのは本当である。ここで「主人」とは奴隷(しもべ、家令)の主人のことが想定されている。奴隷は一人の主人をもつのみである。そして、主人にはすべての時間、献身的であること、忠誠が要求される。パートタイムのようにして仕えることは許されない。「4時間だけ仕えますから後の時間は干渉しないでください。後の20時間は他の人に仕えたいのです」などということはできない。「日曜日だけ仕えますから、あとの六日間は別の人に仕えさせてください」などということもできない。一人の主人にパートタイムではなくフルタイムで仕えなければならない。それが常識。しかも、手抜きとかサボるのではなく献身的に。だから、ふたりの主人に仕えるというのはかなり難しいということではなく、もうそれは不可能なことなのである。難しいのではなく不可能。主人はひとりしか持てない。だから、私たちは仕える対象をはっきりさせなければならない。私たちは誰に仕えたらいいのか。「富」(アラム語「マモン」)にではないだろう。マモン崇拝は現代でも大人気、世界中で大人気であるが、私たちはそうであってはならない。私たちは神一本の心で誠心誠意、神に仕えなければならない。

私たちは神さまに対して、キリストに対して、「主」と呼ぶ。それは「主人」という意味であることを忘れないでおこう。主人が私たちの生活のすべてを支配する権利をもつ。主人には敬う態度が必要であるし、服従する態度が必要である。時間の使い方、お金の使い方、すべての領域において服従しなければならない。すべの時間は主のためにある。すべての持ち物は主から管理をまかせられているのであって、すべては主のものである。生活に対するいっさいの権利は主にあるのであって、私たちにはない。私たちは主のみこころを尋ね求めて、主に従う。「主よ、何をすべきですか、どうすべきですか」「主のみこころなら、あのことをしよう、このことをしよう」。主は私たちの人生の主権者であり、私たちは主の栄光のために生かされている。今日も、明日も、私たちは主を仰ぎ、全権を主において生きていこう。